橋か、王か
「俺は王にはならない」
ナギの声が六者会議の石卓に響いた。里に戻ったナギは、六族の代表の前に立っていた。将軍との交渉の結果を報告し、その上で戴冠要請への答えを告げた。
「王は上に立つ者だ。俺がやりたいのは、間に立つことだ。魔物と人間の間に」
ボルガが唸った。
【間に立つ? それでは弱い。王の権威がなければ、人間は魔物を対等に見ない】
「権威では対等にならない。押さえつけるだけだ。千年前の魔王がそれを証明した。ザルグは王になって失敗した。力で人間を従わせた。それは共存ではなく支配だった」
ナギは三枚の石板を石卓に並べた。黒曜石の表面が篝火の光を受けて光る。
「ザルグはこう遺した。『我は王ではない。我は橋だった』。架け橋はどちらの岸にも属さない。だから繋げる。王になったら片方の岸に立つことになる。それでは橋にならない」
六族の代表が動きを止めた。
ゴルドが最初に口を開いた。骨飾りが微かに揺れた。
【ワシも、王より橋の方がいいと思う。王はいつか死ぬ。だが橋は残る。ワシらゴブリンは何百年も前に王を失ったが、声比べの文化は残った。仕組みが残ることの方が大事じゃ】
ファングが鼻を鳴らした。
【群れに王はいらない。リーダーがいればいい。ナギはリーダーだ。王ではなく。それで十分だ】
群体知性が波紋を立てた。
【「橋」としての機能が維持されるなら、称号は重要ではない。実質的な調整機能が存在すれば、同盟は維持される。賛成する】
深淵蟲の使者が触角を明滅させた。女王からの信号をナギが読み取った。
「女王も賛成だ。『我が民は千年間、王なしで生きてきた。王より、約束を守る者が必要だ。架け橋はその約束を守る者だ』」
ボルガだけが黙っていた。腕を組んだまま、ナギを見つめている。長い沈黙の後、鼻から息を吐いた。
【お前の甘さは筋金入りだな。王になれば楽だったのに。権威で命令すれば済む。だが、お前はわざわざ難しい道を選ぶ】
「楽な道は千年前に試された。失敗した」
【筋は通っている。認めよう。ナギ、お前は王ではなく橋だ。だがワシは忘れていないぞ。お前がオークの牙突きに耐えた日を。あの時の覚悟がある限り、ワシは従う】
六族がナギの選択を受け入れた。王ではなく、架け橋として。
会議が終わった後、ゴルドがナギの袖を引いた。小さな手だった。
【ナギよ。ワシはな、お前が王になると思っておった。若い者は力を欲しがるものじゃ。だが、お前は断った。ザルグと同じ過ちを繰り返さなかった。それだけで、お前はザルグを超えておる】
「超えてなんかいない。まだ何も成し遂げていない」
【成し遂げる前に、正しい道を選んだ。それが大事なんじゃ。ワシは60年生きて、そのことを学んだ】
ゴルドが去った後、ナギは石卓に頬杖をついた。六十年の知恵は重い。
* * *
夜が更けた。六族が散り、篝火の音だけが広場に残った。ナギはベンチに座っていた。疲労が重い。将軍との交渉、戴冠要請への回答、王都への決意。全てが一日に集中した。
セリアが来た。ベンチの隣に座った。いつもの弓は置いてきている。手ぶらだった。
「覚えてる? 話したいことがあるって言ったの」
「ああ」
セリアが目を逸らした。月明かりが横顔を照らしている。赤銅色の髪が銀色に見えた。
「あたしは、あんたが好き」
言葉が夜の空気に溶けた。虫の声が遠くに聞こえる。
「魔物と話す変な男で、甘くて、一人で抱え込んで、それでも折れないあんたが好き」
ナギは動けなかった。
「だから、王にならなくて、よかった。王の隣には立てない。あたしはただの狩人だから。でも、橋の隣なら歩ける。橋を渡る人の一人として」
ナギは一度だけ目を閉じた。半年間の記憶が瞼の裏に浮かんだ。裂け目から引き上げてもらった手。門前の夜、肩を寄せた温もり。矢で守ってくれた戦い。隣にいると言ってくれた言葉。
「俺も、お前がいないと、橋が折れる」
セリアが顔を上げた。緑の目が月光を映している。潤んでいた。
「それ、告白と受け取っていいの」
「好きに取ってくれ」
「素直じゃないなあ」
セリアが笑った。涙声だった。ナギも笑った。声が掠れていた。
二人は並んで座ったまま、しばらく何も言わなかった。肩が触れている。手が隣にある。今度は、触れた。指と指が絡んだ。セリアの手は温かかった。弓を引く手。硬い指先。だが握り方は繊細で、震えていた。
「あたし、王都に行ったら、あんたの隣で弓を構える。誰があんたに石を投げても、矢で叩き落とす」
「石を矢で叩き落とすのは難しくないか」
「あたしを誰だと思ってるの。ハグレ村一の射手よ」
「ハグレ村に射手は二人しかいなかったろう」
「それでも一番は一番でしょ」
虫の声が夜の静寂を埋めていた。遠くでファングの群れが遠吠えしている。平穏な夜だった。嵐の前の。
* * *
翌朝。将軍の陣営から伝令が来た。
「将軍からの提案だ。追放者ナギ。お前が王都セルディオンに来い。王の御前で辺境の真実を語れ。儂が護衛する。ただし条件がある。魔物の代表を一体だけ連れてこい。王都の民に魔物が何者かを見せろ」
王都への招待。王の御前。魔物の代表を一体。
ナギは六族を見回した。誰を連れていくか。
竜は大きすぎる。王都に竜が入れば恐慌が起きる。深淵蟲は恐ろしすぎる。姿を見ただけで民衆が逃げ出す。オークは武装しているように見える。森狼族は獣に見える。スライムは説明が難しい。
ゴルドが手を挙げた。
【ワシが行く。ゴブリンは人間に最も近い姿をしている。二本の腕と二本の脚。顔もある。ワシの顔で怖がる人間は……おらぬじゃろ。多分】
ナギは笑った。
「ゴルド、お前の顔は多分、大丈夫だ」
【多分か。まあ、よい。ワシは長老じゃ。声比べなら負けたことがない。人間が相手でも同じじゃ】
ボルガが腕を組んだ。
【ゴルドが行くか。悪くない選択だ。だがナギ、忘れるなよ。里に残る五族はワシが束ねる。帰ってこい】
ファングが短く吠えた。
【帰ってこなかったら、迎えに行く。王都だろうが関係ない】
群体知性が追加した。
【ナギ不在時の里の運営スケジュールを作成した。ボルガが防衛、ファングが偵察、群体知性が行政、深淵蟲の使者が女王との通信、リーナが研究、ヴェルクが王国軍との窓口。機能する】
ナギは頷いた。里は六族の手に委ねる。自分がいなくても回る仕組みを作ってきた。それが架け橋の仕事だ。橋は人が渡るためにある。橋自身が歩く必要はない。
「トルク。セリア。ゴルド。俺と来い。グリムも連れていく。軍務省のダリウスの前で証言してもらう」
グリムが牢の中から声を上げた。
「殺されるかもしれんぞ、俺は。商団の本拠に連れ戻すようなものだ」
「守る。それが同盟の約束だ」
グリムは口が歪んだ。笑ったのかもしれない。
「お前の約束は重いな。まあいい。千年分の秘密を持って死ぬよりは、王の前で喋って死んだ方がましだ」
トルクが大剣を担ぎ直した。
「よし。明日の出発に備えて、今夜は寝ろ。全員だ。特にお前だ、ナギ。顔色が悪い」
「お前に言われたくない」
「俺は常にこの顔色だ。お前は違う」
ナギは笑った。仲間がいる。橋は一人では架からない。渡る人がいて、初めて橋になる。
王都へ。最後の交渉が始まる。




