鎖を断つ者
「攻撃命令を出しますか」
副官の問いに、ガレス将軍は答えなかった。陣営の天幕の中。机の上に地図が広げられている。橋守の里の位置に赤い印。将軍は椅子に座ったまま、窓の外を見つめていた。
里で見たもの。鍛冶工房。農園。スライムの分析施設。薬草研究室。そして竜。
三十年間、魔物は殺すべき敵だと教えられてきた。軍の教本にはそう書いてある。訓練でもそう叩き込まれた。だが里で見た光景は、教本のどこにも載っていなかった。ゴブリンが農園で作物を育て、オークが人間と同じ形の農具を鍛えていた。人間の村人が魔物と食卓を囲んでいた。
竜の声を聞いた。意味はわからなかった。だが追放者ナギが訳した言葉は、嘘ではないと感じた。竜の声が震えていた。千年の孤独は、声に滲む。老いた獣の声だった。戦を望む声ではなかった。
副官が繰り返した。
「将軍。ご命令を」
「待て。考えている」
天幕の外から馬蹄の音。伝令兵が飛び込んできた。
「将軍。軍務省から緊急の書状です」
将軍が書状を開いた。封蝋に軍務省の紋章。中身は短い。
「追放者ナギと魔物集落は殲滅せよ。これは王命である。発令者、軍務省次官ダリウス」
将軍の目が鋭くなった。
「この伝令を発したのは誰だ」
「軍務省次官のダリウスです」
ダリウス。将軍は知っている。十年前に軍務省に入り、異例の速さで次官に昇進した男。書類仕事は完璧だが、現場を知らない。そして、ヴェルクの報告書を握り潰した人物の上にいる男だ。
将軍は書状を机に置いた。
「ヴェルク」
天幕の隅に控えていたヴェルクが進み出た。
「この書状の文体を見ろ。王命と書いてあるが、王の花押がない。通常、王命には王自身の花押が必要だ」
ヴェルクが書状を確認した。
「ありません。軍務省の印章だけです。正式な王命であれば、王の花押と大臣三名の副署が必要ですが、どちらもありません」
「偽の王命か。あるいは、手続きを省略した非正規の命令か」
将軍は机の上の書状を睨んでいた。偽りの王命。千年続く組織が発した偽りの命令。正規の手続きを踏まない、本来なら無効のはずの命令。だが形式上は軍務省からの公式な通達だ。無視すれば将軍自身が反逆の罪に問われる。
将軍は立ち上がった。背筋が伸びる。三十年の軍人としての誇りが姿勢に表れていた。真実を知りながら、偽りの命令に従うことは軍人としての恥だ。だが命令を無視すれば、軍全体の規律が揺らぐ。
「独自の調査を命じる。ヴェルクが提出した証拠、記録改竄の痕跡、牙の紋章との繋がり。全てを改めて検証しろ。副官、お前が指揮を取れ」
「はっ。しかし将軍、王命を無視すれば」
「偽りの王命を実行する方が、真の王への不忠だ」
副官が敬礼して天幕を出た。将軍はヴェルクを見た。
「お前の報告書。120頁のやつを持っているか」
「写しがあります。こちらに」
「読む。全頁」
* * *
* * *
里の広場で、ナギは一人で石卓に向かっていた。
六族の戴冠要請に答えを保留していた。考える時間が必要だった。だが時間がない。将軍は里を見た。しかし攻撃命令を出していない。まだ判断を迷っている。その間に答えを出さなければならない。
三枚の石板が石卓の上に並んでいる。黒曜石に刻まれた魔王ザルグの言葉。根源的魔物語で書かれた遺言。力で橋を架けるな。言葉で架けろ。
王になれば力が手に入る。六族を束ねる権威が。だがその力は、千年前にザルグが犯した過ちと同じ道を辿る。ナギは額に手を当てた。頭が重い。眠れなかった夜が続いている。
マルコが駆け込んできた。息を切らしている。
「ナギ。軍務省から王命が出た。殲滅命令だ」
「王命?」
「正確には、軍務省次官ダリウスが発令した命令だ。王命と書いてあるが、将軍は疑っている。花押がないそうだ」
「偽の王命か」
「その可能性が高い。将軍はまだ命令を執行していない。だが時間がない。軍務省から催促の使者が来れば、将軍も動かざるを得なくなる」
マルコの顔に疲労が滲んでいた。陣営から里まで、馬を走らせてきたのだろう。この男はヴェルクの元副官だ。ナギが追放された時、止められなかったと悔やんでいた。今はその借りを返すように、命がけで情報を運んでくる。
「マルコ。将軍の心証はどうだ」
「悪くない。里を見て、確実に揺れている。だが軍人だ。命令を無視する訓練は受けていない。あの人を動かすには、命令そのものが偽りだと証明するしかない」
ナギは考えた。殲滅命令。王命。だが王命を出したのは王ではなく、牙の商団に繋がる軍務省次官。偽の王命だ。だが将軍がそれを証明しなければ、軍は動く。
ナギに残された手段は一つ。将軍に直接、全てを話す。魔王の遺言を。千年の歴史を。牙の商団の真実を。ナギだけが持っている情報を、将軍の目の前で開示する。
ナギはヴァルナザドールに念を送った。
【力を貸してくれ。将軍の前で千年の歴史を語りたい。お前は証人だ。千年を生きた唯一の証人だ】
竜の声が返ってきた。低く、重い。
【お前は王になるのか、架け橋よ】
「まだ答えは出ていない。だが今は、将軍と話すことが先だ」
【ならば我も共に行こう。千年の証人として。我の姿が人間の軍の前に立つのは、千年ぶりだ。だが、お前がそれを望むなら】
竜が人間の軍の前に姿を現す。前代未聞の光景だ。三千の兵が竜を見る。恐怖するだろう。だがその恐怖を超えて、千年の真実を伝えなければならない。
ナギは六族の代表を集めた。
「明日、将軍の陣営に行く。ヴァルナザドールを連れて。千年の歴史を語る。それが、偽りの王命を覆す唯一の方法だ」
ボルガが唸った。
【竜を連れて行くのか。人間の軍が竜を見たら、恐慌を起こすぞ】
「起こすだろう。だがそれでも見せなければならない。竜が敵ではないことを。千年間、隠れていただけだということを」
ゴルドが骨飾りを揺らした。
【危険な賭けじゃな。だがワシらには他に手がない。ナギ、お前の言葉に賭ける。いつものように】
ファングが短く吠えた。
【行け。群れは待っている】
群体知性が波紋を立てた。
【竜の同行による効果を試算した。将軍が竜を脅威と判断する確率、43パーセント。真実の証人と判断する確率、57パーセント。賭けとしては悪くない数字だ】
「57パーセントか。半分よりは上だな」
【ナギの交渉技術を加味した数字だ。お前なしなら、脅威と判断される確率が80を超える】
ナギは空を見上げた。灰嶺の上空に、暗翡翠色の影が見えた。竜が翼を広げている。飛べないはずだが、翼を広げることはできる。千年の威厳を纏って。
セリアが広場の隅から歩いてきた。弓を肩にかけたまま、ナギの隣に立った。
「また一人で抱え込んでる」
「考えてるだけだ」
「同じことでしょ。明日、あたしも行く」
「危険だ」
「あんたが危険な場所に行くのに、あたしが安全な場所にいるわけないでしょ」
ナギは反論しなかった。セリアの目が本気だった。弓を引く時と同じ目だ。狙いを定めたら外さない。




