二人の男
「お前が追放者ナギか。小さいな」
ガレス将軍の第一声はそれだった。白髪交じりの短髪。鷹のような目。顔に刻まれた皺は三十年の軍歴が作ったものだ。馬から降り立つと、護衛十名を従えて陣営の中央に立った。背丈は平均的だが、存在感が違う。空気が将軍を中心に締まっていた。
ナギは立ち上がった。一晩の座り込みで脚が痺れている。だが膝は折らなかった。
「将軍。辺境の真実を知ってもらいたい。橋守の里に来てほしい」
「魔物の巣に招かれるのか。罠だな」
「罠なら、俺は白旗で来ない」
将軍の目が細まった。ナギを値踏みしている。三十年の軍歴で培った人を見る目だ。嘘つきか。狂人か。それとも何か価値のある人間か。
「ヴェルクが戻ってきた。脱走の罪で拘束中だ。だがあの男が持ってきた資料は見た。数字が詳しい。辺境の集落の統計資料としては、軍務省の報告より遥かに精度が高い」
ヴェルクが将軍の後ろから進み出た。両手を縄で縛られている。脱走の罪で。だが顔色は落ち着いていた。
「将軍。私は辺境を見ました。この男の里を。あれは魔物の巣ではありません。人間と魔物が共に生きている場所です」
将軍が手を上げてヴェルクを制した。
「ヴェルク。お前の意見は聞いた。だが儂は自分の目で見るまで判断しない」
ヴェルクが口を閉じた。だが目がナギに向けられていた。頷いていた。「ここまでは計画通りだ」と。
ヴェルクは続けた。声を抑えて。
「将軍。軍務省の報告は改竄されています。牙の商団という組織が」
将軍が再び手を上げた。
「牙の商団か。その名は儂も知っている」
天幕の中の空気が止まった。陣営の兵士たちも息を呑んだ。
将軍は知っていた。牙の商団の存在を。だが知った上で軍を出した。
ナギは直感した。将軍には、将軍の事情がある。知っていて、それでも動かなければならない事情が。軍人は命令で動く。正しさで動くのではない。
将軍が椅子に座った。天幕の中。机の上に地図が広げられている。辺境の地形が描かれた古い地図だ。橋守の里の位置に印はない。軍務省の情報にはないからだ。
「座れ。立ち話は好かん」
ナギも腰を下ろした。将軍と追放者が、机を挟んで向かい合う。護衛が天幕の入り口に立っている。
「将軍。あなたが商団を知っているなら、軍務省の報告が歪められていることもわかっているはずだ」
「わかっている。だが儂は軍人だ。軍務省からの命令には従う義務がある。正しいか正しくないかは、儂が決めることではない」
「では誰が決める」
「王が決める。だが王は辺境を見たことがない」
ナギの拳が握りしめられた。王が見ていない。軍務省が歪めた情報だけが王に届いている。正しい情報が上に行かない構造。商団が作り上げた構造だ。
「将軍。一つだけ頼みがある。里を見てくれ。自分の目で。それだけでいい」
将軍は長い間ナギを見つめていた。鷹の目。だがその奥に、軍人としての誇りと、真実を知りたいという欲求が見えた。
「いいだろう。明日、儂が里を見に行く。護衛は十名のみ。だが条件がある」
「何だ」
「もし里が軍事拠点であると判断すれば、攻撃命令を出す。情に流される儂ではない」
「構わない。見てくれればわかる」
将軍が踵を返した。護衛が従う。ヴェルクの縄が解かれた。将軍の命令で。
「ヴェルク。お前は自由だ。だが軍を離れたことの責任は、後で取ってもらう」
「承知しています」
将軍が去った後、ヴェルクがナギの隣に立った。縄の跡が手首に残っている。
「将軍は牙の商団を知っていた。だが軍を出した。なぜだと思う」
「王の命令だ。将軍は王に逆らえない」
「その通りだ。だが、自分の目で確かめたいと思っている。あの人は自分の目で見たものしか信じない。だから里を見せれば変わる可能性がある」
「可能性か」
「ナギ。可能性しかないんだ。だが可能性があるだけで十分だろう」
ナギは頷いた。ヴェルクの言う通りだ。半年前、この男に追放された時は、可能性すらなかった。今は可能性がある。それだけで十分だ。
トルクが陣営の外で待っていた。大剣を背に預けたまま、木の幹に寄りかかっている。
「どうだった」
「明日、将軍が里に来る」
「上出来じゃないか。一晩座っただけで将軍を動かした。お前の口は大剣より強いな」
「脚が痺れた代償は大きい」
「贅沢だな」
三人で里に戻った。道中、ヴェルクが辺境の道を見回していた。金髪を撫でつける仕草は変わらないが、目つきが変わっていた。かつての出世欲は消え、代わりに静かな覚悟がある。
* * *
里に戻ったナギは、明日の準備に追われた。見学ルートの最終確認。ゴルドとボルガへの説明。ファングへの警戒態勢の指示。蟲人族の使者に将軍が来ることを伝え、触角の明滅を抑えてもらうよう頼んだ。人間は光る触角を怖がるかもしれない。
群体知性が見学時のシミュレーションを提供した。
【将軍が各施設で滞在する推定時間を算出した。最も長く留まるのは鍛冶工房だ。軍人は武器と道具に関心が高い。次に分析施設。数字で示せるものに反応する】
「ありがとう。参考にする」
リーナが深淵蟲の甲殻から抽出した解毒成分のデモンストレーションを準備した。毒に侵された植物が回復する実験だ。目で見てわかる成果が、将軍には最も効く。
ボルガが防衛陣地の最終点検を行った。
【万が一のためだ。交渉が決裂した時、退路が確保されていなければならん】
全てが終わった深夜。セリアがナギの部屋の前に立っていた。
「明日が終わったら、ちゃんと話したいことがある」
ナギが問い返す前に、セリアは背を向けた。耳の先が赤い。月明かりでもわかるほどに。
セリアの手がナギの手を取った。指を絡ませた。温かい手だった。弓を引く手。硬い指先。だがその握り方は繊細で、震えていた。
「おやすみ」
セリアが手を離し、背を向けて去った。赤銅色の髪が月明かりに銀色に光った。
ナギは戸口に立ったまま、しばらく動かなかった。手のひらに、セリアの温もりが残っていた。話したいこと。何だろう。
だが今は、将軍のことだけを考えなければならない。
明日。将軍が里を見る。千年の溝を越える第一歩だ。成功すれば、道が開ける。失敗すれば、三千の軍が押し寄せる。
ナギは布団に入ったが、眠れなかった。明日のことを考えていた。将軍に何を見せるか。どの順番で。どんな言葉で。頭の中でシミュレーションを繰り返す。
だが考えるほどに、不安が膨らんだ。将軍は合理的な男だ。だが合理的であることと味方になることは違う。里が軍事拠点でないと判断しても、軍務省の命令がある限り、攻撃の可能性は消えない。
そして牙の商団。王都の軍務省に根を張った敵。将軍の背後から糸を引いている。この陣営にも商団の目があるかもしれない。
ナギはイルザの短剣に手を触れた。架け橋の紋章。橋を渡る人と獣。二百年前に始まった物語の続きが、明日の一日で大きく動く。
天井の梁に蜘蛛が巣を張っていた。小さな蜘蛛が糸を渡していく。橋のように。一本ずつ。
ナギは朝までずっと、その蜘蛛を見つめていた。




