白旗
「王国軍の方々。俺はナギ。辺境の追放者だ。ガレス将軍との面会を求める」
ナギは白旗を持って前衛陣営の門前に立っていた。布切れ一枚を棒に括りつけただけの旗だ。武器は持っていない。短剣すら腰から外してきた。
前衛の指揮官が目を丸くした。三十代半ばの男。鎧に鷹の紋章が付いている。下級将校だ。
「追放者が白旗で? 将軍はまだ本隊と共にいる。ここにはいないぞ」
「待つ。ここで。将軍が来るまで」
「何を言って。お前は拘束対象だぞ。軍命で」
「知っている。だが白旗を持っている者を拘束するのは、軍規に反するだろう」
指揮官が口ごもった。確かに白旗は交渉の意思を示す。アルディア王国軍の軍規では、白旗を掲げた者をむやみに拘束してはならないとされている。戦時の慣例だ。
「だが、お前は交渉の資格がない。追放者だ」
「交渉の資格がないなら、俺はただの旅人だ。旅人を拘束する法もないだろう」
指揮官の眉が寄った。だが反論できなかった。ナギの論理は正しい。追放者には軍の拘束権が及ぶが、白旗の慣例がそれを妨げる。法の隙間に立っている。
「勝手にしろ。だが陣営には入れない」
「構わない。門の前で座って待つ」
ナギは門前に座り込んだ。あぐらをかき、膝の上に白旗を置いた。動かない。
* * *
一時間が経った。兵士たちが遠巻きにナギを見ている。最初は警戒していたが、ナギが本当に何もしないのを見て、次第に好奇心が勝ち始めた。
一人の兵士が近づいてきた。若い男だ。二十歳前後。槍を手にしているが、構えてはいない。
「お前が魔物と話せる男か?」
「ああ」
「本当に話せるのか? 魔物の言葉が?」
「聞こえるし、話せる。嘘だと思うなら、試してみるか?」
兵士は首を振った。
「いや、試すつもりはない。ただ聞きたかったんだ。うちの斥候隊が北の森で巨大な蟲を見たと言っていた。あれは何だ?」
「深淵蟲だ。千年間、地下に棲んでいた種族だ。だがもう俺たちが話をつけた。あいつらは攻撃しない」
「話をつけた? 魔物と?」
「ああ。六族の同盟だ。ゴブリン、オーク、森狼族、スライム、深淵蟲、そして竜。全て話し合いで同盟を結んだ」
兵士の目が丸くなった。他の兵士も近づいてきた。三人、五人と増えていく。
「竜って。あの灰嶺に棲んでるやつか?」
「ヴァルナザドールだ。千年を生きている。穏やかな竜だ。人間を襲ったことは一度もない」
「嘘だろ。竜は凶暴な魔物だと教わった」
「教わったことが全て正しいとは限らない。俺も最初はそう思っていた。だが実際に話してみたら違った。竜は人間が怖いんだ。人間が自分を殺しに来ると知っているから、隠れている」
兵士たちが顔を見合わせた。信じがたいという顔だ。だが完全に否定もできない。ナギが嘘をついているようには見えなかったのだ。
年配の兵士が腕を組んだ。
「儂は三十年軍にいるが、魔物と話した人間は聞いたことがない。だがお前が言っていることが本当なら、魔物を殲滅するのは正しくないかもしれんな」
「俺もそう思う。だから将軍と話したい。正しい情報を届けたい」
若い兵士が呟いた。
「なあ、ナギさんって言ったか。お前、なんで追放されたんだ?」
「魔物と話せることが罪だと言われた。人間の味方か魔物の味方か、はっきりしろと。俺はどちらの味方でもない。どちらも味方だ。だがそれは答えとして認められなかった」
兵士たちの口が閉じた。表情が変わった。同情ではない。共感に近い何かだ。軍の中でも、はみ出し者は理解される。命令と良心の間で揺れた経験を持つ者は、少なくない。
若い兵士がもう一つ聞いた。
「その魔物たち、俺たちを襲わないのか。三千の軍がいるのに」
「襲わない。俺がそう約束した。六族は俺を信じてくれている。だから止まっている。もし俺がいなくなったら、六族は自分たちの判断で動く。その時は戦闘になるかもしれない」
「つまり、お前がいるから戦争にならないってことか」
「そうだ。俺がここで白旗を持っている限り、誰も死なない。俺が消えたら、両方が死ぬ。だから俺はここを動かない」
若い兵士の顔が引き締まった。ナギの言葉の重みを理解したようだった。
指揮官が怒鳴った。
「おい、持ち場に戻れ! 敵に馴れ合うな!」
兵士たちは散っていった。だがナギに向ける目が変わっていた。敵を見る目ではなく、理解したい何かを見る目だ。
* * *
夜になった。ナギは門前に座り続けていた。焚き火の光が陣営の中から漏れている。見張りの兵士が交代で門に立ち、ナギを監視していた。だが誰もナギを排除しようとはしなかった。
セリアが里から食事を持ってきた。干し肉とパン。水の革袋。
「馬鹿。門の前で座り込みなんて。風邪引くよ」
「大丈夫だ。辺境の夜は慣れている」
「慣れてるとか、そういう問題じゃないの。あんたの身体はあんただけのものじゃないの。六族の全員が、あんたを待ってるの」
ナギはパンを齧った。硬い。辺境のパンだ。だが旨かった。
「ありがとう。帰って寝ろ」
「やだ。あたしもここにいる」
「お前が風邪引いたらどうする」
「あんたの隣にいるって言ったでしょ。何があっても」
セリアがナギの横に座った。毛布を二人で分けた。肩が触れている。
陣営の中の見張りの兵士が、二人を見て微かに笑った。
夜が更けた。星が回る。辺境の夜は冷える。セリアが身体をナギに寄せた。自然な動きだった。ナギも自然に受け入れた。半年前なら距離を取っていた。今は違う。
セリアの呼吸が穏やかになった。眠ったのだ。ナギは眠れなかった。明日のことを考えていた。将軍に何を言うか。どう伝えるか。数字だけでは足りない。心に届く言葉が要る。
千年前のザルグも、同じことを考えたのだろうか。夜通し眠れず、明日の交渉に備えて言葉を探したのだろうか。
結局、ザルグは言葉ではなく力を選んだ。
* * *
翌朝。本隊から伝令の騎馬が到着した。
指揮官が伝令の書状を読み、ナギの方を見た。驚きの表情だった。
「ナギとやら。将軍から伝言だ」
ナギは立ち上がった。一晩座り続けた脚が痺れている。
「将軍は何と」
指揮官が書状を広げた。
「『明日、会おう』。以上だ」
たった四文字。だがその四文字に、将軍の性格が表れていた。無駄がない。だが会うことを承諾した。
ヴェルクが将軍に届いたのだ。
ナギはセリアを見た。セリアが微笑んだ。目の下に隈ができている。一晩、門前で眠れなかったのだ。
「明日だね」
「ああ。明日だ」
里に戻ると、六族の代表がナギを待っていた。ゴルドが骨飾りを揺らした。
【将軍が会ってくれるのか。よくやった】
ボルガが鼻息を吐いた。
【会ってくれるだけではダメだ。認めさせなければ。我らの里を。我らの生き方を】
ファングが短く吠えた。
【ナギの匂いが変わった。覚悟の匂いだ。昨日より強い】
群体知性が報告した。
【将軍の視察を想定した見学ルートの最終確認を完了した。全施設の準備は整っている】
ナギは六族の代表を見回した。半年前、一人ぼっちで砦に転がり込んだ男を、今は六つの種族が待っている。
明日、全てが決まる。千年分の溝を、一日で埋めることはできない。だが最初の一歩を踏み出すことはできる。
ナギは橋守の里の門を見上げた。この門をくぐるのが将軍か、軍の槍か。それはナギの言葉にかかっている。




