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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
魔王の遺言

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火の前の約束

「千年前、架け橋の初代は共存を力で強制しようとして失敗した」


 ナギは六者会議で魔王の遺言を共有した。石卓の上に三枚の石板を並べている。黒曜石の表面に刻まれた千年前の根源的魔物語が、篝火の光を受けて微かに光っていた。


「俺は同じ過ちを繰り返さない。将軍と話す。言葉で橋を架ける」


 ボルガが顎を引いた。


【交渉が決裂したらどうする。三千の軍が攻めてきたら】


「戦わない。戦えば千年前と同じだ」


【戦わずにどうやって里を守る】


「方法を見つける。それが俺の仕事だ」


 ボルガは立ち上がった。灰褐色の巨体が石卓の影を大きくした。ナギを見下ろす。険しい目。だがそこに怒りはなかった。


【お前は甘い。この半年、何度も言った。だが、お前の甘さがなければ、この同盟はなかった。ゴブリンとオークが同じ飯を食うなど、ワシの一生では考えもしなかった。それを作ったのはお前の甘さだ】


 ボルガが杯を持ち上げた。


【ナギの案に従う。ただし、防衛陣地は完成させる。それだけは譲らん】


 ゴルドが骨飾りを揺らした。


【ワシらは声比べで決める。ナギの案に賛成の者!】


 ゴブリンたちの声が上がった。圧倒的多数。ファングが短く吠えた。群体知性が波紋を立てた。深淵蟲の使者が触角を明滅させた。全員が賛同した。


 六族がナギの交渉に賭けた。五百の戦力で三千に挑む代わりに、一人の男の言葉に全てを預ける。冷静に考えれば狂気の沙汰だ。だが石卓を囲む六族の目に迷いはなかった。


 リーナが帳面にメモを取っていた。


「ナギさん。三枚の石板の内容を全て記録しておきます。万が一石板が壊れても、言葉は残るように」


「頼む」


 トルクが壁に寄りかかったまま口を開いた。


「俺は昔、五対一の戦いで仲間を全員失ったことがある。あの時、話し合う余地は一ミリもなかった。だがここは違う。話し合う余地がある。それだけで、まだ希望がある」


 珍しくトルクが長く話した。右こめかみの傷跡が松明に照らされている。あの傷は、仲間を失った時のものだろう。


 ゴルドが笑った。


【千年前の魔王は王になって失敗した。お前は橋のままでおれ。橋は折れても架け直せる。王が倒れたら、全てが終わる】


* * *


 その夜。準備が一段落した後、ナギは見張り台に登った。


 夜風が心地よかった。里の灯りが眼下に点在している。ゴブリンの区画、オークの鍛冶工房、スライムの水槽、深淵蟲の地下壕の入り口。全てが同じ夜空の下にある。


 星が多い夜だった。辺境の空は王都とは違う。光が少ないから、星が近い。


 後ろから足音がした。セリアだった。弓を背負ったまま、見張り台の梯子を登ってきた。手に杯を二つ持っている。


「隣、座っていい?」


「ああ」


 セリアがナギの横に座った。足を柵から出して、宙に揺らしている。赤銅色の髪が夜風になびいた。


 しばらく二人とも黙っていた。虫の声と、遠くのゴブリンの歌声だけが聞こえる。


「あたしの父さんは戦って死んだ」


 セリアが突然言った。星を見上げたまま。


「魔物と戦って。村一番の狩人だった。弓の腕は誰にも負けなかった。あたしの弓は父さんに習ったの。父さんは魔物を退治するのが正しいと信じてた。あたしもそう思ってた」


 ナギは黙って聞いていた。


「でも、あんたを見てたら、わかった。戦うことが正しいんじゃない。戦わないことの方がずっと難しくて、ずっと勇気がいるって」


 セリアがナギの方を向いた。緑の目が月明かりを映している。


「三千の軍に一人で白旗持って行こうとしてる男がいるのよ。馬鹿でしょ。でも、その馬鹿を見てると、あたしも馬鹿になりたくなる」


「褒めてるのか貶してるのかわからないな」


「褒めてるのよ。鈍いなあ」


 セリアが足を揺らした。風がナギの頬を撫でた。


「あんたがいなかったら、あたしはまだ魔物を憎んでた。父さんの仇だと思い続けてた。でもゴルドと話して、ボルガと肉を食べて、ファングに手を舐められて。魔物が怖くなくなった。それはあんたのおかげだ」


「俺は通訳しただけだ」


「またそれ。通訳だけで世界が変わるなら、通訳ってのはすごい仕事でしょ」


 ナギは笑った。セリアも笑った。二人の笑い声が夜空に消えた。杯の中のオークの酒が、星明かりに琥珀色に輝いていた。セリアの頬がほんのり赤い。酒のせいか、それとも。


「あたしは、あんたの隣にいる。何があっても」


 セリアの声が真剣になった。笑顔が消え、まっすぐな目がナギを見ていた。


「将軍が来ても。軍が来ても。商団が来ても。あたしはここにいる。弓を引く。あんたが話してる間、あたしが守る」


 ナギは口を開きかけて、閉じた。何を言えばいいかわからなかった。半年間、隣にいてくれた女だ。命がけの場面を何度もくぐった。だが「ありがとう」では足りない気がした。


「お前がいなかったら、とっくに折れてた」


 言えたのはそれだけだった。だがセリアは微笑んだ。それで十分だと言うように。月明かりがセリアの横顔を照らしていた。赤銅色の髪が銀色に見えた。


 二人はしばらく並んで座っていた。言葉はなかった。言葉がなくても、伝わるものがあった。ナギの手がセリアの手のすぐ隣にあった。触れてはいなかった。だがその距離が、半年前とは全く違う距離だということを、二人とも知っていた。


 遠くでゴブリンの歌声が聞こえた。ゴルドが教えた古い歌だ。六つの種族を讃える歌。六日前に作られた、新しい伝統。


* * *


 夜が明ける前。


 ファングが跳び起きて吠えた。鋭い声が里中に響いた。


【風に嗅いだことのない匂い。北からではない。南から。人間の匂いだが、毒の匂いが混じっている。多い。数十人】


 ナギは見張り台から飛び降りた。セリアが弓を構える。トルクが大剣を引き抜いた。


 南から。王国軍の本隊よりずっと早い。別の勢力だ。


 ボルガが鍛冶工房から飛び出してきた。大槌を手に。


【何事だ】


「南から接近者。数十人。正規兵ではない」


 ナギは見張り台から南を見つめた。森の中に松明の列が見えた。十、二十、三十。正規兵の装備ではない。鎧がばらばらだ。革鎧の者、鎖帷子の者、何も着ていない者。だが動きが統制されている。訓練された集団だ。軍人ではない。傭兵でもない。別の何かだ。


 ゴルドがゴブリンの見張りに指示を飛ばした。


【全員、持ち場につけ。子供は地下壕に避難させろ】


 ゴブリンたちが走り回る。蟲人族の使者が地下壕の入り口に消えていく。里全体が戦闘態勢に入った。


 グリムが牢の中で声を上げた。格子に顔を押しつけている。蒼白だった。


「来たか」


 ナギが振り向いた。


「何だ。何が来た」


 グリムの顔から血の気が引いていた。声が震えている。


「俺が捕まったことで、本拠が動いた。牙の商団の掃除屋だ。俺を始末しに来たんだ」


 掃除屋。商団の口封じ部隊。


 松明の列が森の際まで迫っていた。ナギは六族に戦闘態勢を命じた。だが頭の中では魔王の遺言が響いていた。


 力で橋を架けるな。だが今は守らなければならない。仲間を。里を。グリムを。

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