鉄の行軍
「ヴェルク辺境監視官は任務地を離脱しています。追放者側に合流した可能性があります」
副官の報告を聞きながら、ガレス将軍は馬上で背筋を伸ばしていた。白髪交じりの短髪。鷹のような目。三千の兵を率いる辺境討伐軍の先頭に立ち、街道を進んでいる。鎧が朝日を弾いて光った。
「脱走か。あの男がか」
将軍は馬の手綱を握り直した。ヴェルクは有能な男だ。保身的だが、馬鹿ではない。三十年の軍歴で将軍は多くの部下を見てきた。ヴェルクは典型的な出世型の人間だった。上官の意に沿い、危険を避け、着実に成果を積む。そういう男が脱走するとは考えにくい。
脱走ではなく、何か理由がある。辺境で見たものが、ヴェルクの判断を変えた。そうでなければ、あの保身家が地位を捨てる理由がない。
将軍は北の空を見た。辺境はまだ遠い。だが二週間の行軍を、十日に縮める命令を出していた。急ぐ理由がある。軍務省からの報告は簡素すぎた。「脅威度上昇」とだけ書かれた一枚の紙。何が脅威なのか。どう上昇したのか。具体的な数字がない。
将軍は自分の目で確かめる男だった。報告書を信じない。現場を見る。それが三十年の軍歴で身につけた習慣だ。
行軍の列が街道を埋めていた。三千の兵。槍兵、弓兵、騎兵。荷馬車が補給物資を運ぶ。辺境討伐としては過大な戦力だ。将軍自身がそう思っている。だが軍務省が「脅威度上昇」と報告した以上、備えは必要だ。
副官が馬を寄せてきた。
「将軍。先行した斥候から報告です。辺境に近づくにつれ、森の中に魔物の気配が増しています。ですが、攻撃的な様子はありません。むしろ、避けているように見えます」
「避けている?」
「はい。斥候が通ると、魔物が道を空けるんです。まるで監視しているだけのように」
将軍の目が鋭くなった。統制された魔物。それ自体が異常だ。だが「脅威」なのか「秩序」なのかは、見てみなければわからない。
* * *
場面は辺境に移る。
橋守の里。ナギはヴェルクと共に、将軍への「資料」を作っていた。
「将軍は合理的な男だ。感情ではなく事実で動く。数字を見せろ。里の生産力、交易の実績、魔物の知性の証拠。全て数字で」
ヴェルクの助言に従い、ナギは六族の協力で資料を集めた。
ゴルドが地下農園の収穫量を報告した。
【先月のキノコの収穫量は200キロ。蟲人族の居住区が隣接してからは、代謝熱で生育が促進されて280キロに増えた。4割増じゃ】
ボルガが鍛冶工房の生産量を示した。
【鉄器の月産量は30本。人間の村に交易で卸した農具は12本。代金は穀物で回収済みだ】
群体知性が全体の統計をまとめた。
【橋守の里の総人口。ゴブリン300、オーク80、森狼族40、スライム群体(個体数推定600)、蟲人族使者20、人間6名。食料自給率は92パーセント。不足分は交易で補填。経済的に自立した集落と評価できる】
ヴェルクが数字を帳面に書き写していた。端正な文字。元斥候隊長の報告書作成能力が活きている。
「交易実績。農具の供給。食料自給率。これだけでも、この集落が単なる『魔物の巣窟』ではないことが証明できる。将軍は数字を見る男だ」
ナギは頷いた。だが問題がある。
「将軍は数字で動く。だが将軍に届く数字が歪められている。正しい数字を将軍に届ける方法がない」
ヴェルクが顔を上げた。
「方法はある。マルコだ」
「マルコに連絡は取れるのか」
「伝書鳩を使う。斥候隊時代の暗号で。マルコは今も将軍の行軍に同行しているはずだ。あいつに資料を渡せば、将軍の目に入れられる」
リーナが伝書鳩を用意した。辺境の野生の鳩を捕まえて訓練したものだ。信頼性は低いが、他に手段がない。ヴェルクは帳面から資料の要約を暗号文に変換し、鳩の脚にくくりつけた。
鳩が南の空に飛び立った。小さな影が白い雲に消えていく。資料が将軍に届くかどうかは、鳩の翼にかかっている。
* * *
資料作りの合間に、ナギは防衛準備も進めていた。
ボルガが里の南側に防衛陣地を構築している。石壁と木柵で簡易的な防壁を作り、退路を確保した。あくまで交渉が決裂した場合の保険だ。
ファングの群れが里から半日圏内に偵察網を張った。南からの接近者は全て報告される体制が整った。
深淵蟲の使者が地下通路を拡張し、緊急時の避難路を確保した。女王からの指示だ。
群体知性が交渉のシナリオを分析した。
【交渉成功のシナリオ。将軍が里を視察し、魔物集落が脅威ではないと判断する確率は35パーセント。将軍が軍務省の報告の改竄に気づく確率は20パーセント。両方が同時に起きる確率は7パーセント】
「低いな」
【追加条件がある。将軍に直接、魔物との対話を見せた場合、成功率は60パーセントに上昇する。魔物語の通訳を実演し、魔物が知性を持つことを証明すれば、将軍の認識が変わる可能性がある】
ナギは考えた。将軍に見せるべきものは数字だけではない。この里の日常を見せる。魔物が何を考え、何を話し、どう暮らしているかを。
夕方。マルコが密かに里を訪れた。将軍の行軍から抜け出してきたのだ。平凡な顔立ちに茶髪。目立たないことが長所だと本人が言うだけあって、気配を消すのが上手い。ファングの偵察網をすり抜けてきた。
「ヴェルクさん。そしてナギ。久しぶりだな」
マルコの目がナギを見て、わずかに潤んだ。
「あの時は悪かった。止められなくて」
「いい。終わったことだ」
「終わってない。俺の中では。だからここに来た」
マルコは将軍の陣営の内部情報を持ってきた。
「将軍は魔物を殲滅するつもりはない。少なくとも、まだ判断を決めていない。合理的に判断すれば、辺境の戦力を味方につける方が得策だとわかっている。辺境は王国にとって緩衝地帯だ。ここが安定していれば、北方からの脅威に備える前線基地になる」
「だが軍を出した」
「軍務省からの圧力がある。『魔物集落は殲滅せよ』と。将軍は板挟みだ。自分の判断と、軍務省の命令の間で」
ナギは拳を握った。
「将軍と話がしたい。軍が到着する前に。一対一で」
マルコが目を丸くした。
「正気か。軍の前に一人で出るのか」
「交渉の基本だ。相手が何を欲しがっているか知ること。将軍の欲しいものがわかれば、道は開ける」
マルコはヴェルクを見た。ヴェルクが頷いた。
「この男はいつもこうだ。だが、結果を出す」
マルコが息を吐いた。
「わかった。将軍に伝える。伝書鳩じゃなく、俺の口で。そっちの方が確実だ」
マルコは闇の中に消えていった。来た時と同じように、気配を消して。
ナギは南の空を見つめた。将軍が来る。三千の軍を連れて。だがその将軍は、殲滅を望んでいない。板挟みになっている。ならば、板挟みから解放してやればいい。
問題は、軍務省という板の正体が、牙の商団だということだ。千年間、王国の中枢に根を張った組織。それを将軍の前で暴くには、証拠が要る。
ヴェルクが隣に来た。
「マルコは信用できる。あいつが言ったなら、将軍はまだ判断を固めていない」
「ヴェルク。お前はなぜここまでやる。お前の軍での地位は終わったぞ」
ヴェルクは唇の端を上げた。
「私がお前を追放した時、私は正しいと思っていた。組織を守るためだと。だが辺境に来て、この里を見て、わかった。私が守ろうとしたのは組織ではなく、自分の地位だった。今は違う。正しいことをしたいんだ。遅すぎるかもしれないが」
ナギは何も言わず、ヴェルクの肩を一度叩いた。それで十分だった。




