遺言の底
「あたしも行く」
セリアが腰に矢筒を叩きつけた。緑の目が据わっている。ナギの前に立ちはだかり、弓を握る手に力が入っていた。
「裂け目の底でしょ。一人で行かせるわけないじゃない」
「人間が入れる環境じゃない。魔素濃度が高すぎる。お前が行けば、半刻で意識を失う」
「じゃああんたは大丈夫なの」
「俺は多分、大丈夫だ。架け橋の血が魔素への耐性を持っている。灰嶺の洞窟でも平気だった」
「多分って何よ。確証もないくせに」
ナギはセリアの肩に手を置いた。赤銅色の髪が朝の風に揺れている。
「帰ってくる。約束する」
「あんたの約束は多すぎるのよ。六族に約束。女王に約束。あたしにも約束。全部守れるの」
「守る。全部」
セリアは唇を噛んだ。しばらくナギの目を睨みつけていたが、やがて視線を逸らした。
「絶対帰ってきなさいよ」
* * *
裂け目の底に降りる準備を整えた。
深淵蟲の女王が使者蟲を護衛につけてくれた。十体の蟲が発光体を灯し、暗闇の中の道を照らす。封鎖した裂け目の隅に、人一人が通れる隙間がまだ残っていた。ナギはそこから裂け目に入った。
岩壁に足をかけ、蟲たちの光を頼りに降りていく。壁面は湿っている。魔素を含んだ水が滴っていた。指先が痺れる。魔素濃度が急激に上がっているのだ。呼吸が重くなる。だが意識は保てる。架け橋の血が身体の中で何かを調整しているのがわかった。体温が上がり、血流が速まっている。
十メートル、二十メートル。裂け目はどこまでも深かった。暗闘の中で蟲たちの光だけが頼りだ。触角の青白い光が岩壁を照らすたびに、影が踊る。ナギの足音と、蟲の足が岩を掻く音だけが響いていた。
壁面に奇妙な模様が見えた。自然のものではない。根源的魔物語の文字が壁面に直接刻まれている。千年前のザルグが、ここを歩いたのだ。同じ壁面に手をつき、同じ暗闇を降りた。ナギの手が、千年前の手跡に重なった。
三十メートルで底に着いた。
狭い空間だった。大人三人が立てるほどの広さ。天井は見上げても闇しかない。壁面の鉱石が魔素を帯びて青白く光り、空間全体がぼんやりと明るい。空気が濃い。吸い込むたびに身体の芯が震える。
正面の壁に、三枚目の石板が埋め込まれていた。
最も古い書体。一枚目、二枚目よりもさらに読みにくい。だが根源的魔物語を全力で展開すると、文字がゆっくりと意味を結び始めた。
ナギは手を石板に当てた。冷たい石の表面から、微弱な振動が伝わる。千年前の言葉が、まだ震えている。
『我が最後の言葉を聞く者よ』
ザルグの声が聞こえたような気がした。石板からではなく、ナギ自身の血の中から。
『お前が架け橋の血を引くなら、知っておけ。我は全ての魔物と契約した。契約の内容はただ一つ』
ナギは声に出して読んだ。根源的魔物語が裂け目の底を震わせる。蟲たちの触角が一斉に光った。
『人間と魔物が共に生きる世界を作る。もし我が失敗したなら、次の架け橋が引き継ぐ。千年後でも、万年後でも。約束は消えない』
ナギの目が熱くなった。千年前の男が、まだ見ぬ子孫に託した約束。顔も名前も知らない、いつか生まれるかもしれない架け橋に。その架け橋が、今ここに立っている。
『これが我の遺言だ。我は魔王と呼ばれたが、我は王ではない。我は橋だった』
王ではない。橋だった。
ナギの全身に鳥肌が立った。二枚目の石板で読んだ魔王の過ちの答えがここにある。力で王になったのが間違いだった。架け橋は王ではない。間に立つ者だ。
だが石板にはまだ続きがあった。最後の一行。文字の刻みが異様に深い。石を砕くような力で刻まれていた。
『我を殺した者。「牙」の頭領は、我の実の弟だった。兄弟が殺し合い、架け橋は折れた。同じ過ちを繰り返すな。力で橋を架けるな。言葉で架けろ。さもなくば、橋はまた折れる』
ナギの手が石板から離れた。指が震えている。
牙の商団の創始者は、魔王の弟だった。
架け橋の一族から枝分かれした血統が、千年間、架け橋を滅ぼそうとしてきた。兄弟の確執が千年の戦争になった。獣語りの乱も、ナギの追放も、全ては千年前に始まった兄弟の争いの延長線上にある。
ナギはグリムの顔を思い出した。グリムも牙の商団の人間だ。ならばグリムもまた、架け橋の血を引いているのか。
蟲たちが触角で裂け目の壁を叩いた。帰還の合図だ。魔素濃度が限界に近づいている。ナギの鼻から血が一筋流れた。指で拭って、上を見た。
登り始めた。蟲たちが光で道を照らす。一段、また一段。岩壁に爪を立て、身体を引き上げる。腕が震える。魔素の影響で身体が重い。
裂け目の上端に手をかけた時、力が抜けた。ずり落ちそうになる。
手首を掴まれた。
セリアだった。裂け目の縁に腹ばいになって、ナギの腕を掴んでいる。
「引っ張るから! 掴まって!」
トルクが後ろからセリアの足を押さえている。二人がかりでナギを引き上げた。裂け目の縁に転がり出た瞬間、セリアがナギを抱きしめた。
強い力だった。弓を引く腕だ。華奢に見えて、力がある。
「帰ってきた。馬鹿。一人で行くなって言ったでしょ」
「悪い」
「悪いじゃないわよ。あたしがどれだけ心配したか」
セリアの声が震えていた。身体も震えていた。ナギは初めて、セリアの震えを感じた。怒りではない。恐怖だ。ナギを失うかもしれないという恐怖。
ナギは動けなかった。魔素で身体が重い。だが動かなかったのは、それだけが理由ではなかった。
トルクが二人から目を逸らし、空を見上げた。
「いい天気だな。まあ、俺には関係ない話だが」
しばらくして、セリアが身体を離した。目が赤い。ナギの胸元に涙の跡が残っていた。
「で、見つかったの。石板」
「ああ。全部読んだ」
ナギは三枚の石板の内容を語った。魔王ザルグの遺言。約束は千年を超えて引き継がれる。王ではなく橋であれ。力で架けるな。言葉で架けろ。そして牙の商団の創始者が、魔王の弟だったこと。
トルクとセリアは黙って聞いていた。焚き火の光がナギの疲れた顔を照らしている。鼻血の跡が乾いて、黒い線になっていた。
ゴルドが広場を横切って近づいてきた。
【ナギよ。魔王の遺言を読み解いたそうじゃな。六族の代表に共有してくれ。皆が知るべきことだ】
「ああ。明日の会議で話す」
【急ぐがよい。時間がないのは皆わかっておる】
セリアが呟いた。
「兄弟が殺し合ったの。千年前に」
「ああ。そしてその争いが、今も続いている」
トルクが顎を撫でた。
「つまり牙の商団ってのは、お前の遠い親戚ってことか。嫌な話だな」
「嫌な話だ。だが知っておく必要がある」
ナギは空を見上げた。二枚目の石板の言葉と、三枚目の石板の言葉が、頭の中で重なっていた。
力で橋を架けるな。言葉で架けろ。
将軍が来るまで、あと十日。言葉で架ける方法を見つけなければならない。千年前に折れた橋を、千年後の架け橋が修復できるかどうか。全てはこの十日にかかっている。
夜空に星が輝いていた。裂け目から漏れる黒い霧は止まっている。封鎖が効いているのだ。六族の力で。
ナギは星を見上げながら、千年前のザルグも同じ星を見たのだろうかと思った。




