魔王の名
「石板は三枚ある」
ヴァルナザドールの声が灰嶺の洞窟に反響した。琥珀色の目が暗闇の中で光っている。炎を使い果たした竜は飛べなくなっていたが、歩くことはできた。巨体が洞窟の入り口を塞ぐように座り、ナギに語りかけている。
【魔王ザルグは遺言を三枚の石板に分けて埋めた。一枚は里の地下で見つかった。残り二枚のうち一枚は、この灰嶺の洞窟の最深部にある。もう一枚は深淵の裂け目の底だ】
「二週間のうちに全てを読みたい。将軍が来る前に」
【急ぐ理由は何だ】
「千年前の魔王が何を考え、何を失敗したか知りたい。俺は同じ轍を踏むわけにはいかない」
ヴァルナザドールは目を細めた。竜が笑ったように見えた。
【お前は賢い。千年前のザルグも、そう言っていた。だがあの男は最後に、自分の言葉を裏切った】
「どういう意味だ」
【石板を読めばわかる。行くぞ。足元に気をつけろ。この洞窟は千年間、誰も入っていない】
* * *
灰嶺の洞窟は深かった。
ナギは松明を手に、ヴァルナザドールの後を歩いた。竜の巨体がぎりぎり通れる幅の通路。壁面には竜の爪痕が刻まれている。千年前のものだ。
空気が冷たい。魔素の濃度が上がっている。肌がぴりぴりする。架け橋の血のおかげで耐えられているが、普通の人間なら意識を失う濃度だろう。
「この洞窟はお前の住処なのか」
【千年前はそうだった。ザルグとよくここで話した。二人きりで。あの男は人間の世界では孤独だった。魔物の言葉がわかることを、人間は気味悪がった。だから我のもとに来た】
「俺と同じだな」
【そうだ。お前と同じだ。だからこそ、同じ過ちを繰り返す危険がある。孤独な者は、認めてくれる存在に依存する。ザルグは魔物に依存した。魔物の同盟の力に頼り、人間を力で黙らせようとした】
ナギは黙って歩いた。松明の炎が壁面に影を揺らしている。竜の言葉が胸に刺さった。認めてくれる存在への依存。六族がナギを認めている。それは嬉しい。だがその「認め」が、力への依存に変わる瞬間があるのだとしたら。
足元に何かが転がった。ナギが松明を向けると、骨だった。人間の骨ではない。小さな獣の骨。洞窟に迷い込んで死んだのだろう。千年の時間が骨を白く漂白していた。
通路がさらに狭まり、ナギは身を屈めた。ヴァルナザドールの巨体が壁面を擦る音がする。千年前はもう少し通路が広かったのかもしれない。岩が崩れて狭くなっている。
やがて通路が広がった。洞窟の最深部。天井が高い。松明の光では天井まで届かない。壁面には鉱石が埋め込まれており、魔素を帯びて微かに光っていた。青白い光が空間を満たしている。地面には魔素の結晶が散らばっていた。踏むと硝子のような音がする。
正面の壁に、石板が埋め込まれていた。
一枚目と同じ黒曜石の素材。表面に根源的魔物語が刻まれている。だが文字が読みやすい。一枚目より古い書体に慣れたのか、あるいはナギの根源的魔物語が成長したのか。
ナギは石板に手を触れた。冷たい。だが文字から微かな振動が伝わってくる。千年前の言葉が、まだ生きている。
文字を読み始めた。声に出して。根源的魔物語が洞窟に反響する。
『我は人間として生まれ、魔物の言葉を聞いた。幼き日より、獣の声が意味を持って聞こえた。人間は我を恐れた。異端だと言った。だが魔物は我を受け入れた。声が通じるただそれだけで、魔物は我を仲間と認めた』
ナギの喉が詰まった。自分の幼少期と同じだ。千年前の架け橋も、同じ孤独を味わっていた。
『人が恐れるものを理解した。恐怖の正体は「未知」であった。知らないから怖い。知らないから殺す。対話すれば、未知は消える。我はそのために生きた。六つの種族と言葉を交わし、同盟を結び、人間と魔物が共に暮らす土地を作った』
ここまでは希望に満ちた言葉だった。だが石板の後半に進むと、文字の刻みが深くなっていた。力を込めて刻んだのだ。怒りか、後悔か。
『だが人間たちは我を恐れた。「魔物の王」と呼んだ。我が同盟を結ぶほど、人間たちの恐怖は増した。魔物を率いる人間。それは人間にとって、魔物そのものよりも恐ろしいものだった』
ナギは石板から手を離した。指先が震えている。
「ヴァルナザドール。この先に何が書いてある」
【読め。お前が自分の目で】
ナギは深く息を吸い、石板に手を戻した。
『我が犯した過ちは一つ。力で人間を黙らせたことだ。六族の同盟は強大だった。竜の炎、オークの武力、ゴブリンの数、森狼族の脚、スライムの情報力、深淵蟲の地下戦力。その全てを背景に、人間の反対を押さえつけた。共存を「強制」した。反対する者は武力で排除した。それは交渉ではなかった。それは支配だった』
最後の一行が、ナギの目に焼きついた。
『我は橋であるべきだった。だが王になった。橋は両岸を繋ぐ。王は片岸に立つ。我は片岸に立ち、もう片方を力で従わせた。それが全ての始まりだった』
ナギは石板の前に座り込んだ。膝が震えている。
千年前の魔王は、共存を力で強制して失敗した。
今、自分がやろうとしていることは何だ。六族の同盟の武力で王国軍を退け、共存を認めさせる。それは千年前の魔王と同じ轍を踏むことではないか。
「ボルガは防衛陣地を作ると言った。ファングは嘘つきを噛むと言った。深淵蟲の女王は奇襲すると言った。六族の武力を背景にした交渉。これは交渉なのか。それとも脅迫なのか」
ヴァルナザドールが低く唸った。
【お前はザルグと同じ問いに立っている。だがザルグはその問いに、間違った答えを出した。お前はどうする】
「まだわからない。三枚目の石板を読まないと」
【三枚目は裂け目の底にある。人間が入れる場所ではない。魔素の濃度が地上の百倍だ】
「俺は大丈夫だ。架け橋の血が魔素への耐性を持っている。ここまで来られたのがその証拠だ」
ヴァルナザドールの琥珀色の目が、ナギを長く見つめた。
【ザルグもそう言った。千年前に】
洞窟を出ると、夕暮れだった。灰嶺の上から見下ろす橋守の里は小さかった。焚き火の光が点々と灯り始めている。あの小さな光の中に、六つの種族が暮らしている。
里への道を下りながら、ナギは石板の文字を反芻していた。力で共存を強制した。それは交渉ではなく支配だった。千年前の失敗が、今の世界を歪めた。
里の入り口でセリアが待っていた。弓を肩にかけたまま、夕焼けの空を見ている。
「遅かったね。何か見つかった?」
「ああ。二枚目の石板を読んだ。千年前の魔王が何を間違えたか、わかった」
「何を間違えたの?」
「力で人を従わせた。共存を強制した。それは交渉じゃなくて支配だったんだ」
セリアが首を傾げた。赤銅色の髪が肩で揺れる。
「あんたは違うでしょ。力で従わせようなんて思ってない」
「思っていなくても、六族の武力を持っている時点で、相手にはそう見える。将軍が来た時、三千の兵の前に竜と六族の軍勢が立っていたら、それは交渉か、脅迫か」
セリアは黙った。ナギの言葉の重さを噛みしめるように、唇を引き結んだ。
「難しいこと考えすぎ。でも、あんたがそういうこと考える人だから、あたしはついてきてるんだけどね」
ナギは自分の手を見つめた。この手で橋を架ける。力ではなく。言葉で。
三枚目の石板に、その方法が書かれていることを祈った。




