囚人の口
「この報告書は差し止める」
王都セルディオン。軍務省の薄暗い執務室で、事務官が革表紙の書類束を机の引き出しに押し込んだ。ヴェルクが命がけで書いた報告書だ。獣語りの乱の記録改竄の証拠。牙の商団の暗躍。辺境の真実。
事務官の袖口に、古い紋章が見えた。牙を模した意匠。商団の家紋に繋がるものだ。
事務官は別の書類を取り出した。薄い紙一枚。
「辺境の魔物集落が拡大。脅威度上昇。対処を要請する」
ヴェルクの報告書の代わりに将軍の机に届くのは、この一枚だけだ。百二十頁の詳細報告が、一行の嘘に置き換えられた。
事務官は部屋を出て、長い廊下を歩いた。軍務省の建物は石造りで、足音がよく響く。階段を上がり、上官の部屋の前で立ち止まった。扉を叩く。
「入れ」
部屋の中には痩せた長身の男が座っていた。黒髪を丁寧に分け、文官の装いを崩さない。軍務省次官ダリウス。机の上には辺境の地図が広げられていた。
「次官。報告書は処理しました」
「ご苦労。将軍には要約だけを届けろ。余計な詳細は不要だ」
ダリウスは地図上の辺境を指でなぞった。橋守の里の位置に赤い印がつけてある。
「魔物と話す追放者か。面白い男が現れたものだ」
事務官が退室した後、ダリウスは袖の裏を見た。牙の紋章を刻んだ腕輪が光っている。千年間受け継がれてきた紋章。
「歴史は繰り返す。だが結末は変えさせない」
* * *
辺境。橋守の里。
「グリム。話がある」
ナギは牢の前に立った。石造りの小さな牢だ。グレンデの砦の地下にあったものを補修して使っている。格子は鉄製。ボルガが鍛えた頑丈な造りだ。
隣にファングがいる。灰銀色の巨狼が金色の目でグリムを見据えている。
グリムは格子に背を預けていた。眼帯の下の傷跡が影になっている。ナギの顔を見て、口の端を上げた。
「尋問か。やっと本気になったな、架け橋」
「嘘をつけば、こいつが嗅ぎ分ける。知ってるだろう」
ファングが低く唸った。
【こいつの匂いはいつも複雑だ。嘘と真実が混じっている。だが嘘をついた瞬間はわかる。酸っぱい匂いに変わる】
ナギはグリムの目を見た。
「石板に書かれた名、ザルグ・ヴァンデス。お前は知っていたな。魔王が人間だったことを」
グリムの笑みが消えた。わずかに目が揺れる。初めて見せる動揺だった。
「ああ、知っていた」
ファングの耳が動いた。
【嘘はない】
「我々が千年間隠してきた真実だ。魔王は人間だった。架け橋の初代。あいつが魔物と手を組んだせいで、世界は歪んだ」
「歪んだ? 共存を目指したことが歪みだと?」
グリムが格子を掴んだ。指の関節が白くなる。
「お前にはわからない。千年前、架け橋の初代が魔物と同盟を結んだ時、人間は恐怖した。自分たちの仲間が魔物の味方になった。裏切りだと思った。その恐怖が二百年前の獣語りの乱に繋がり、今のお前の追放にも繋がっている」
「獣語りの乱はお前たちが仕組んだんだろう」
グリムが唇を歪めた。
「記録を少し書き換えただけだ。恐怖はもともとあった。我々はそれを使っただけだ」
ファングが再び唸った。
【嘘はない。だが、全てを話していない。隠している部分がある。そこだけ匂いが淀む】
ナギは一歩近づいた。
「牙の商団の本拠はどこだ」
グリムの身体がこわばった。明らかな変化だ。ファングの毛が逆立った。
【こいつ、話したがっている。だが恐れている。話したら殺されると思っている。恐怖の匂いがする】
ナギは魔物語ではなく、人間の言葉で言った。静かに。だが力を込めて。
「お前を守る。六族の同盟の下で。牙の商団が手を出せない場所に匿ってやる」
グリムの眼帯の下の傷跡が引きつった。額に汗が浮かんでいる。右手が無意識に胸元を掴んでいた。商団の焼印があるのかもしれない。
誰も口を開かなかった。牢の外でゴブリンの子供たちが笑う声が遠くに聞こえる。
「お前は甘い男だな、架け橋」
「よく言われる」
「甘い男に命を預けるのは、気が進まない」
「他に選択肢があるのか。商団に戻っても殺されるだろう。お前はもう、使い捨てにされた駒だ」
グリムの目が鋭くなった。だがすぐに力が抜けた。肩が落ちる。諦めではない。覚悟だった。
「王都だ」
ナギの心臓が跳ねた。
「牙の商団の本拠は、王都セルディオンの中にある。軍務省の中に。二百年前から、あいつらは王国の一部になっている」
ファングが確認した。
【嘘の匂いはない】
王都の中。軍務省の中。ナギの脳裏で点と線が繋がった。ヴェルクの報告書が将軍に届かなかった理由。獣語りの乱の記録が改竄された理由。追放の背後にあった力。
全て。軍務省の中にいる商団の人間が操っていた。
「敵は辺境にいるんじゃない。王国の心臓にいるのか」
グリムが力なく笑った。
「やっとわかったか。お前が辺境で魔物を束ねようが、里を作ろうが、六族を同盟させようが、王都の連中には関係ない。あいつらは王の耳元で囁く。『魔物は危険だ』と。それだけで、お前の全てが潰される」
ナギは拳を握った。爪が掌に食い込む。六族同盟を作った。裂け目を塞いだ。蟲人族の居住区を建てた。だがその全てが、王都の一人の人間の判断で無に帰す。軍を送れば済む。大義名分はいくらでも作れる。
「名前は」
「何の?」
「軍務省の中にいる商団の人間の名前だ」
グリムが首を振った。
「俺は末端だ。本拠の中枢にいる人間の名前は知らない。だが、軍務省の上層部に少なくとも一人はいる。俺への指令は全て軍務省経由で来ていた」
ナギはファングを見た。ファングが頷いた。
【今の全てに嘘はなかった。こいつは本当に末端だ。知っている限りのことを話した】
ナギはグリムに背を向けた。牢を出る。風が額の汗を冷やした。
セリアが牢の外で待っていた。弓を背負ったまま、壁に寄りかかっている。
「聞こえてた。王都の軍務省、って言った?」
「ああ。敵の本丸だ」
セリアの緑の目が細まった。
「じゃあ、ここで魔物と暮らすだけじゃ足りないってこと?」
「足りない。いつか王都と向き合わなきゃならない」
トルクが近づいてきた。大剣の柄に手を置いたまま。
「聞いてたぞ。軍務省が黒幕ってのは、でかい話だな」
「ああ。辺境にいるだけじゃ解決しない」
「お前は昔からそうだ。解決しなきゃ気が済まない。まあ、そこが良いところだがな」
ナギは北の空を見上げた。裂け目の封鎖痕が黒い線になって見える。一つの問題を解決するたびに、もっと大きな問題が見えてくる。
だが今はまず、魔王の遺言の残りを探す。千年前の先祖が何を遺したのか。
牢の中で、グリムが天井を見つめていた。
「千年分の秘密を吐いちまった。商団が知ったら、俺は消される」
独り言だった。だが口元に浮かんでいたのは、恐怖ではなく安堵だった。千年間背負ってきた重荷を、ようやく下ろした男の顔。格子越しに見える広場では、ゴブリンの子供と蟲人族の使者が並んで歩いている。グリムはその光景を、黙って見つめていた。




