裂け目の封
「北の森が枯れ始めている」
ファングの報告は短く、正確だった。蒼い紋様が薄暗い会議室の中で脈動している。
【裂け目から漏れる魔素が濃すぎる。草が萎れ、木の皮が剥がれている。ゴブリンの食料源の森の端まで、あと十日で到達する】
ゴルドの顔が曇った。
【あの森のキノコと木の実がなくなれば、ゴブリン三百の食料が足りなくなる】
石板の発見と並行して、裂け目の問題が深刻化していた。深淵蟲の女王が攻撃を停止させたものの、裂け目そのものから魔素が漏出し続けている。地下の魔素が地上に噴き出し、周囲の生態系を壊していた。
ナギはフェロモン信号を裂け目に送った。
【女王。裂け目を塞ぐ方法はないか。このままでは地上の森が死ぬ】
甘い匂いが返ってきた。だが今回は苦みが混じっている。深刻さの表れだ。
【我が民の身体で裂け目の壁を固めることはできる。甲殻は魔素を遮断する性質がある。だが完全な封鎖には千年前に竜が使った力が必要だ。竜の炎で溶かした石を、我が民の甲殻で支える。二族の協力が不可欠】
ナギはヴァルナザドールに念を送った。
【ヴァルナザドール。裂け目を塞ぐのに、竜の炎が要る。協力してほしい】
灰嶺の方角から、低い声が返ってきた。
【承知した。だが条件がある】
竜の声が重くなった。
【我の炎は一度しか出せぬ。この老体では、二度目のブレスは心臓が持たぬ。失敗すれば次はない。全てを一度で決めなければならぬ】
ナギは六者会議を招集した。石卓の周りに全種族の代表が集まる。
「裂け目を塞ぐ。六族全員でやる。竜の炎は一度きりだ。失敗は許されない」
ボルガが腕を組んだ。
【何をすればいい】
「まずオークが石材を切り出す。裂け目を埋めるだけの量が要る。ゴブリンが足場を組んで、作業員が裂け目の際まで近づけるようにする。森狼族は周辺の警戒だ。魔素が漏れている場所は危険だから、異変があればすぐに知らせてくれ」
ファングが短く吠えた。
【任せろ。鼻で魔素の濃度はわかる】
「スライムは接着剤だ。石の隙間を粘液で埋めて密封する。深淵蟲は裂け目の内側から壁を支えてくれ。そしてヴァルナザドールの炎が全てを溶接する」
群体知性が水槽の中で波紋を立てた。
【作業手順の最適化を提案する。石材の配置パターンを計算した。裂け目の幅と深さから、必要な石材は約40トン。オークの切り出し速度から逆算して、準備に二日かかる】
「二日。やれるか、ボルガ」
【やる。鍛冶師全員を投入する】
* * *
二日後。裂け目の前に六族が集結した。
裂け目は地面に走った黒い傷のようだった。幅三メートル、長さ二十メートル。底は見えない。黒い霧が立ち昇り、周囲の草を枯らしている。空気が重い。魔素の濃度が肌に刺さるように感じられた。
オークの鍛冶師たちが切り出した石材を裂け目の縁に並べた。四十トンの石が整然と積まれている。ゴブリンの土木班が足場を組み、裂け目の際まで通路を作った。木と縄で編んだ簡素な足場だが、ゴブリンの土木技術は見た目以上に堅牢だ。
森狼族が裂け目の周囲を走り回り、魔素の濃度を嗅ぎ分けている。ファングが報告した。
【南側が最も薄い。作業はそこから始めるべきだ】
スライムの群体が裂け目の縁に配置された。粘液を石の隙間に流し込む準備だ。
深淵蟲の使者たちが裂け目の中に降りていった。甲殻の体が闇に消えていく。内側から壁を支える役割だ。
全てが整った。
ナギは裂け目の縁に立った。風が吹き上げてくる。底から。冷たく、魔素を含んだ風。
根源的魔物語で全種族に同時に語りかけた。
【始める。竜の炎が来たら全員退避しろ。合図は俺が出す。頼んだ】
オークが石を投入し始めた。一つ、二つ、三つ。重い音を立てて裂け目の中に落ちていく。深淵蟲が内側からそれを受け止め、甲殻で支えた。ゴブリンが足場の上から小石を詰めていく。スライムの粘液が石の隙間を埋めた。
作業は順調だった。だが裂け目の底から吹き上げる魔素の風が強まった。石が安定しない。ゴブリンの足場が揺れた。
「押さえろ! 崩れるぞ!」
ボルガが自ら裂け目の縁に立ち、巨体で石材を押さえた。オークの鍛冶見習いたちがボルガに続く。
ナギはタイミングを計っていた。石材が七割方埋まった。今だ。
【ヴァルナザドール! 今だ!】
灰嶺の上空から暗翡翠色の影が急降下してきた。千年を生きた竜。最後の炎。
竜が裂け目の上空で翼を広げた。空が翳る。琥珀色の目が裂け目を見下ろした。
竜が口を開けた。
炎が裂け目に注がれた。白と橙が混じった灼熱の光。石材が赤く、白く変色していく。溶けた石が深淵蟲の甲殻に接着し、裂け目の壁と一体化した。スライムの粘液が熱で硬化し、密封材になった。
熱波がナギの顔を打った。眉が焦げる匂い。だが目を閉じなかった。
竜の炎が十秒続いた。二十秒。三十秒。ヴァルナザドールの翼が震えている。老体に鞭打つ最後の力だ。
四十秒で炎が途絶えた。竜がふらりと傾き、裂け目の北側に着地した。地面が揺れた。
ナギは裂け目を見た。
溶接された石と甲殻の壁が裂け目を覆っていた。完全ではない。端の方にまだ隙間がある。だが黒い霧は止まった。魔素の漏出が止まっている。
【9割方塞がった。完全封鎖には至らないが、魔素の漏出は止まった】
群体知性の分析だった。ナギはヴァルナザドールのもとに走った。竜は横たわっていた。琥珀色の目が半分閉じている。
【大丈夫か】
【死にはせぬ。だが、しばらく飛べぬな。年寄りに無理をさせるものだ】
ナギは竜の鼻先に手を触れた。熱い。だが脈動がある。生きている。
ゴブリンたちが歓声を上げた。オークが石工道具を掲げた。森狼族が遠吠えを上げた。六族の初めての共同作業が、成功した。
* * *
作業が終わった夜。ヴァルナザドールがようやく身体を起こした。ナギは石板を持って竜の前に座った。
「この石板を改めて読んでほしい」
竜の古い目が文字を追った。長い沈黙。琥珀色の瞳に、千年分の記憶が浮かんでいるように見えた。
【この石板は、魔王ザルグの遺言書の断片だ。全文はここにはない。おそらく複数の場所に分割して埋められている】
「魔王の遺言には何が書かれている」
竜は長く沈黙した後、答えた。
【ザルグは千年前の架け橋の初代だ。人間でありながら全ての魔物と対話し、同盟を築いた。人間たちはそれを恐れ、「魔物の王」と呼んだ。人間たちの口からは、それが「魔王」に変わった】
ナギの手が震えた。
「魔王は、人間だったのか」
【そうだ。お前と同じ人間だった。お前と同じ力を持っていた。この石板には、ザルグが最期に何を託したかが記されている。だが全てを読むには、残りの石板を探さねばならぬ】
魔王は人間だった。架け橋の初代だった。
ナギは石板を見つめた。千年前の文字が、夜の闇の中で微かに光って見えた。魔素を帯びているのだ。千年経っても消えない言葉。
セリアが焚き火の傍からナギを見ていた。声はかけなかった。ナギの横顔が、いつもと違うことに気づいていたのだろう。
トルクがセリアの隣で杯を傾けた。
「放っておけ。あいつは今、千年前の誰かと話している」
「わかってる。でも、ちょっと怖い顔してる」
「そりゃそうだ。自分の先祖が魔王だったって知ったんだからな」




