裏切りの牙
「七日は待てない。方法を出せ。全部だ」
ナギの声が四者会議の席に響いた。夜明け前。松明の光が石卓を照らしている。
スライムの群体知性が最初に応じた。
【提案。毒素の分析結果から、四つの対策が考えられる。第一、竜の炎による水の蒸留。第二、ゴブリンの地下水脈の知識で代替水源を探す。第三、オークの鍛冶技術で蒸留装置を製作する。第四、森狼族の広域偵察で汚染されていない湧き水を探す】
「全部やる。同時にだ」
全員が頷いた。迷いはなかった。
ゴルドが古い地図を広げた。
【この辺りに水脈がある。東に三百歩。だが深さはわからん。掘ってみるしかない】
ボルガが腕を組み直した。
【蒸留装置なら銅板があれば半日で作れる。在庫を確認する】
ファングが立ち上がった。
【朝一番で群れを散らす。半日で五十里四方を嗅ぎ分ける】
ナギは根源的魔物語で念を送った。
【ヴァルナザドール。力を借りたい。貯水池が毒に汚染された。竜の炎で蒸留したい】
灰嶺の方角から、竜の声が返ってきた。
【場所を指定しろ。ブレスの温度は調整する】
暗翡翠色の翼が灰嶺の上空に広がった。竜が飛び立つ。巨体が月を遮り、影が里を覆った。
* * *
全てが同時に動いた。
ボルガが鍛冶場から銅の大鍋を運び出し、石で竈を組んだ。オークの鍛冶見習いたちが銅板を叩いて蒸留管を形作る。ボルガの指示は的確で無駄がなかった。片牙の影が松明の光に揺れている。半日前に作っていた蒸留装置の部品がそのまま転用できた。
ヴァルナザドールが砦の南の空き地に降り立った。地面が震えた。竜の炎が銅の大鍋を包んだ。水蒸気が立ち昇り、蒸留管を伝って別の容器に清水が滴り落ちる。一滴、二滴。少ない。四百人分の水を賄うには、これだけでは足りない。
ガリクが斥候隊を率いて東の掘削に向かった。ゴブリンたちの小さな手が土を掻き出していく。だが三百歩先の水脈は深い。半日掘っても水は出なかった。
ファングの群れが四方に散った。蒼い紋様が闇の中で点々と光り、やがて森に消えた。
全てが同時に動いている。だがナギは知っていた。まだ足りない。
四つの対策は時間稼ぎだ。根本的な解決にはならない。
ナギは裂け目の前に立った。二度目だ。スライムの小瓶を開き、粘液を岩に広げた。
【深淵の女王。聞こえるか】
フェロモン信号が返ってきた。甘い匂い。前回より酸味が少ない。警戒が薄れている。
【聞こえている。架け橋よ。何があった】
【水が毒に汚染された。牙の商団の仕業だ。助けを求めたい。お前の民は地下に棲んでいた。地下水脈を知っているはずだ】
沈黙。三秒。だが三秒の間に、千年分の思考が巡ったのだろう。
【知っている。地下に清水の層がある。毒の影響を受けていない深層水脈だ。場所を教えることはできる】
ナギの心臓が跳ねた。
【等価交換だ。我が民の居場所を地上に作る約束をせよ。口約束ではない。お前の根源的魔物語で誓え。架け橋の誓いは破れないと、千年前の記録にある】
ナギは息を吸った。
六族目。深淵蟲族を同盟に迎える。今いる五族でさえ、ここまで来るのに半年かかった。姿も文化も言葉も、何もかもが違う存在を受け入れる。ゴブリンやオークとは比較にならない距離がある。
だが。
【約束する。必ず。六族目の同盟として、お前たちを迎える】
根源的魔物語が裂け目の壁面を振動させた。岩が共鳴し、深淵蟲たちの触角が一斉に光った。誓いの言葉が地下深くまで響いていく。
女王の信号が返ってきた。温かかった。千年ぶりの温度。
【東に四百歩。地表から十尺の深さに、清水の層がある。我が民が道を開く】
ナギが裂け目から離れると、地面が微かに揺れた。足元の土が盛り上がり、裂けた。小さな穴。穴の中から水が湧き始めた。透明な水だ。
深淵蟲が地下から水脈を穿ったのだ。小さな蟲たちが土を掘り、岩を砕き、清水の層まで道を通した。
「ナギさん!」
リーナが駆け寄った。水を掬い、匂いを嗅ぎ、群体知性に分析を依頼した。
【毒素不検出。飲用可能】
「飲めます。きれいな水です」
ゴブリンの子供たちが水に手を伸ばし、掬って飲んだ。笑い声が上がった。
ボルガが蒸留装置の傍から歩いてきた。湧き水を見下ろし、片牙を動かした。
【蟲がやったのか。代わりに何を約束した】
「六族目として迎えると誓った」
ボルガが長い沈黙の後、鼻から息を吐いた。
【忙しくなるな】
否定しなかった。
* * *
水の危機が解決に向かった午後。ファングの群れが森の東から一斉に吠えた。
【逃走者を捕捉。蟲人族の残党三体と、人間一人】
岩場の窪みだった。ファングの群れが囲んでいる。蒼い紋様が脈動し、金色の目が獲物を見据えている。
囲みの中に、グリムがいた。蟲人族の残党が盾のように前に立っているが、身動きが取れない。眼帯がずれている。だが笑っていた。
「架け橋の末裔よ。さすがだ。水の問題をもう解決したのか」
ナギはトルクとセリアを連れて東の森に走った。
ナギはグリムの前に立った。風が二人の間を吹き抜けた。グリムの右目の眼帯の下で傷跡が引きつっている。だが口元は笑っている。追い詰められた獣ではなく、まだ余裕のある交渉者の顔だ。
「グリム。お前の目的は最初から、五族同盟の破壊だった。女王を騙し、蟲人族を駒にし、俺の仲間に毒を盛った」
「仕事だ。千年続く仕事だ」
「獣語りの乱もお前たちが仕組んだ。記録を改竄し、架け橋を裏切り者に仕立て上げた。証拠がある。軍務省の記録に、牙の紋章の透かしが残っていた」
グリムの笑顔が消えた。右目の眼帯の下の傷跡が引きつった。失策を悟った目。だがすぐに笑い直した。
「これは序章にすぎない。牙の商団は千年続いている。私は末端だ。本拠は大陸中部の——」
空気が裂けた。
ヴァルナザドールが降下した。暗翡翠色の巨体が岩場の上空を覆い、竜の咆哮が森を震わせた。蟲人族の残党が触角を震わせてうずくまった。
竜の琥珀色の目がグリムを見下ろした。
【千年前、お前たちの先祖が我が同胞を殺した。だが架け橋がそれを望まないだろう。眠れ】
竜が一声吠えた。短く、鋭く。音の衝撃波がグリムの意識を刈り取った。体が崩れ落ちる。
トルクが縄を取り出した。
「縛るぞ。情報を引き出す」
「頼む」
* * *
その夜。橋守の里の広場に焚き火が上がった。
ゴルドが焚き火の前に立った。白い眉が炎に照らされている。骨飾りが揺れた。
【ナギよ。お前は裏切り者と呼ばれた。軍に、王国に、人間の世界に。だがワシらは知っておる。裏切り者の牙は、お前に向けられた者どもの方じゃ】
ボルガが杯を掲げた。オークの酒。琥珀色の液体が焚き火の光を弾いた。
【六族目を迎えるか。忙しくなるな】
ファングが炎の傍で伸びをした。蒼い紋様が穏やかに光っている。
【群れが増えるのは良いことだ】
スライムの出張所が水槽の中で波紋を立てた。
【六族目の統合は未知のパラメータが多い。だが、協力する】
リーナが笑った。
「群体知性が『協力する』って。素直じゃないですね」
トルクが無言で杯を傾けた。大剣を背に預けたまま、焚き火の光を浴びている。半年前、ナギと二人だけで辺境を歩いていた頃が嘘のようだ。
灰嶺の上空で、ヴァルナザドールの影が旋回している。竜は広場には降りなかった。だがナギには声が届いていた。
【よくやった、架け橋よ。だが休むのはまだ早い】
ナギは焚き火の傍に座った。腰のイルザの短剣に手を触れた。架け橋の紋章。橋を渡る人と獣。二百年前に始まった物語が、今夜ようやく次の頁に進んだ。
隣にセリアが来た。杯を二つ持っている。一つをナギに渡した。
「まだ足りないって顔してる」
「わかるか」
「半年も見てれば、わかるようになる」
「王国との交渉。大陸全体との交渉。牙の商団の本拠の調査。やることが山積みだ」
「あんたは本当に、先のことばっかり」
「悪い癖だ」
「知ってる」
セリアが杯を口に運んだ。オークの酒は強い。頬がほんのり赤くなっている。
「でもさ。先のことばっかり考えるあんたの隣に、今のことしか考えないあたしがいるんだから、ちょうどいいでしょ」
「そうかもな」
セリアがナギの肩に頭を預けた。赤銅色の髪が焚き火の光に橙色に染まっている。ナギは動かなかった。
北の空に、裂け目から漏れる黒い霧が月を翳らせている。だがその霧の中に、微かな光が見えた。深淵蟲たちの触角が光っている。一つ、二つ、十、百。点々と連なる光の列。
女王からの信号だった。
【架け橋よ。約束を忘れるな。我が民は待っている】
ナギは北の空を見上げた。
焚き火が爆ぜた。火の粉が夜空に舞い上がり、北の光と混じって消えた。
橋守の里の夜は更けていく。




