ヴェルクの選択
「攻撃が止まった」
ガリクの報告が砦に飛び込んできたのは、翌朝のことだった。
「裂け目の蟲どもが引っ込んだ。一匹も地上に出てこない。罠を張り直す必要もないくらい静かだ」
ナギは四者会議の席で頷いた。女王が群れを抑えたのだ。交渉が始まったという信号。ゴルドの白い眉が上がった。
【本当に効いたのか。昨日まで毎日数十匹ずつ増えていたのが?】
「女王の統率力はヴァルナザドールと同等だ。命令一つで全個体が動く」
ボルガが腕を組んだ。
【信用できるのか。穴の底の化け物の言葉を】
「信用するかどうかは、これからの交渉で決まる。だが少なくとも、あの女王は千年間交渉相手を待っていた。嘘をつく理由がない」
ファングが鼻を鳴らした。
【蟲の匂いが変わった。殺意が消えている。嘘ではないだろう】
ボルガは黙った。反論はしなかった。裂け目から蟲が這い出さなくなった事実は、ボルガの理屈より雄弁だった。
* * *
だが問題は別のところにあった。
リーナが森から戻ってきたのは、昼過ぎだった。頬に泥がついている。水色の目が曇っていた。
「ナギさん。ゴブリンの森を見てきました。東側の若木が枯れています」
ナギの足が止まった。
「枯れている?」
「葉が灰色になっています。根元の土を採取しました」
スライムの水槽が脈動した。
【分析完了。土壌中の魔素濃度が通常の4割まで低下。原因は深淵蟲族の代謝による魔素吸収。裂け目の開口以降、地下から地上の魔素を吸い続けている】
ナギの顔から血の気が引いた。
「攻撃は止めても、魔素の吸収は止まっていないのか」
【深淵蟲族にとって魔素は呼吸と同等。止めることは窒息を要求するのに等しい】
ゴルドが杖を握りしめた。
【ゴブリンの森が枯れれば、キノコも薬草も育たなくなる。食料と薬の供給が断たれる】
「どのくらいの猶予がある」
【現在の吸収速度が続けば、森林の魔素は14日で臨界値を下回る。以降、植生の回復は困難】
十四日。二週間で森が死ぬ。
ナギは拳を握った。深淵蟲族が地上で暮らせる場所を確保しなければ、魔素の吸収は止まらない。根本的な解決が必要だ。
「ナギ」
砦の門の外から、声がした。
聞き覚えがある。ナギは振り返った。セリアが弓に手をかけた。トルクが大剣を抜きかけた。ファングの耳が逆立った。
門の前に一人の人間が立っていた。金髪。整った軍装。右手に白い布を巻きつけた枝を掲げている。
ヴェルクだった。
「話がある。単身で来た。武器は置いてきた」
ナギは一歩前に出た。半年前、この男がナギを軍から追放した。追放状を読み上げたときのヴェルクの声を覚えている。冷たく、正確で、一切の感情を排した声だった。
「入れ」
セリアが眉をひそめた。
「本気? あいつ、あんたを追放した張本人でしょ」
「白旗を掲げている。話は聞く」
* * *
砦の応接間。石卓を挟んで、ナギとヴェルクが向かい合った。
ヴェルクの顔には疲労が刻まれていた。目の下に隈。頬がこけている。軍装は整っているが、靴底が泥で汚れていた。辺境を歩き回った跡だ。
「辺境監視官として着任してから、三ヶ月が経った」
ヴェルクが口を開いた。声が変わっていた。あの冷たい正確さが消えている。
「その間、二つのことを調べた。一つは、お前の集落の実態。もう一つは獣語りの乱の記録だ」
ナギは黙って聞いた。
「集落については報告の通りだ。五族の同盟は機能している。脅威ではなく、辺境の安定に寄与している」
「もう一つは」
ヴェルクの手が卓の上の革袋に伸びた。紐を解き、中から束になった紙片を取り出した。端が茶色く変色している。古い紙だ。
「軍務省の地下書庫に保管されている記録を調べた。二百年前の公式記録だ。だが、おかしな点があった」
ヴェルクが紙片を卓に広げた。
「記録の一部が消されている。物理的に。紙の一部が切り取られ、別の紙が貼り付けられている。改竄だ」
ナギの目が細くなった。
「何が消されていた」
「獣語りの乱の原因だ。公式記録では『架け橋の一族が魔物を扇動し、人間を襲わせた』とある。だが改竄前の原文が一箇所だけ残っていた」
ヴェルクの指が紙の端を示した。貼り付けられた紙の下から、元の文字がわずかに覗いている。
「『架け橋の七代目イルザは、魔物と人間の和平を仲介するため、王国と魔物集落の間に交渉の席を設けた。だが』。ここで切れている」
ナギの胸が締まった。イルザ。手記を遺した先祖。和平を仲介しようとしていた。裏切り者ではなかった。
「誰が改竄した」
「改竄に使われた紙に、透かしがある」
ヴェルクが紙片を松明の光にかざした。薄い紋様が浮かんだ。牙の形。
「牙の紋章だ。二百年前の軍務省に、牙の商団の人間が入り込んでいた。記録を書き換え、架け橋を裏切り者に仕立て上げた」
沈黙が落ちた。
ナギは石卓の表面を見つめていた。灰色の石。ここで何度も会議をした。種族の壁を越えて。その全ての始まりが、二百年前の嘘の上に立っていた。
「なぜこれを俺に見せる」
ナギの声は低かった。
ヴェルクが顔を上げた。疲れた目。だが、逃げていない。
「私は間違っていた」
声が小さかった。だが明瞭だった。
「お前を追放したことではない。それ以前の問題だ。王国が二百年間信じてきた歴史そのものが嘘だった。私はその嘘の上で正義を振りかざしていた」
ヴェルクの手が震えた。紙片を握り直す。
「この記録を将軍に送る。正式な報告として。お前を支援すべきだと進言する。辺境の安定のためではない。真実を回復するためだ」
ナギはヴェルクを見た。長い間。
この男は変わった。半年前の冷たい正確さは消え、代わりに痛みがあった。自分が信じていたものが崩れた痛み。
「ヴェルク。一つ聞いていいか」
「何だ」
「辺境監視官の任務を放棄して、これを調べたのか」
ヴェルクが苦い顔をした。
「放棄はしていない。並行してやった。三ヶ月、ほとんど眠っていない」
ナギは小さく笑った。
「相変わらず真面目だな」
「茶化すな」
「茶化してない。礼を言っている」
ヴェルクが目をそらした。金髪の下の耳が赤い。
「礼など要らない。私が追放した男に礼を言われる筋合いはない」
「受け取れ。お前の調査がなければ、真実は埋もれたままだった」
ヴェルクが立ち上がった。革袋を閉じ、記録の写しを卓に残した。
「原本は私が将軍に届ける。写しはお前が持っておけ」
「ヴェルク」
背を向けたヴェルクの足が止まった。
「また来い。交渉の席に。王国の代表として」
肩が微かに震えた。
「考えておく」
それだけ言って、砦を出ていった。
* * *
ヴェルクの姿が森の向こうに消えた後、セリアがナギの隣に来た。
「あの男、本気だったの?」
「本気だった。嘘をつくならもっと上手くやる男だ」
「あんた、本当に人間の交渉も上手くなったね」
「魔物との交渉で鍛えられた。言葉が通じない相手と話す方がよほど難しい」
セリアが横目でナギを見た。
「じゃあ、あたしの言葉はちゃんと通じてるの?」
「通じている。お前がいるからだ」
「何が」
「交渉が上手くなったのは。お前がいるから、人間の言葉を忘れずにいられる」
セリアの頬が赤くなった。目をそらし、髪を耳にかけた。
「そういうこと、急に言わないでよ」
ナギは何も言わなかった。言うべきことは言った。
セリアが小さく笑った。赤い頬のまま、弓を背負い直して口を開きかけた。
その瞬間。
砦の東側から、悲鳴のような信号が響いた。スライムの群体知性だ。水槽が激しく明滅している。赤い光。警報。
【毒素検出。貯水池の水系に魔素侵食毒。濃度、致死量】
ナギが走った。セリアが追った。トルクが大剣を抜いて続いた。
貯水池は砦の東、岩壁の窪みに雨水と地下水を溜めた天然の池だ。里の全種族が使う唯一の水源。
水面が黒く濁っていた。
ナギは膝をついて水に手を伸ばしかけた。リーナが叫んだ。
「触らないで! 魔素侵食毒です。肌からも浸透します」
ナギの手が止まった。水面に映る自分の顔が黒い水の下で歪んでいる。
【水系全体が汚染されている。浄化に必要な時間——七日】
七日。
ゴルドが駆けつけた。白い顔。ボルガが後ろにいた。片牙が震えている。
【七日も水がなければ、ゴブリンの子供たちが先に倒れる】
ファングが鼻を低くして水面の匂いを嗅いだ。牙を剥いた。
【蟲の匂いだ。蟲人族の残党が投入した。匂いの跡が東の岩場に続いている】
ナギは立ち上がった。東の岩場。グリムが潜伏しているはずの方角。
風が吹いた。
風に乗って声が聞こえた。遠い。だが明瞭だった。
「架け橋よ。交渉は得意だろう? だが水がなければ、交渉の前に全員が死ぬ」
笑い声が風に溶けた。
ナギの拳が震えた。隣でセリアの弓が軋んだ。矢を番えている。だが射程の外だ。
「ナギさん」
リーナが静かに言った。
「七日間を、生き延びる方法を考えましょう」
ナギは貯水池の黒い水を見つめた。水面に映る月が揺れている。歪んで、黒くて、それでもまだ光っている。
「ああ。考える。全員で」




