女王の声
【女王が呼んでいる。架け橋よ】
スライムの小瓶が腰で脈動していた。裂け目から吹き上がる黒い風が髪を巻き上げる。ナギは縁に立ち、底を覗いた。闇しか見えない。だがフェロモンの信号が、粘液を通じて皮膚に触れている。
「ナギ、本当にやるのか」
トルクが大剣の柄に手をかけたまま言った。低い声。問いかけではなく、確認だ。
「やる。ここまで来て引き返す選択肢はない」
セリアが弓の弦に指を添えた。緑の目が裂け目の縁を走査している。
「あたしは見張る。何か出てきたら射る」
「頼む」
ファングの群れが裂け目の周囲を囲んでいた。蒼い額の紋様が薄く光っている。ファング自身は裂け目の正面でナギの横に伏せた。筋肉が硬い。逃げる態勢ではなく、飛びかかる態勢だ。
上空で翼の影が旋回している。ヴァルナザドールだ。暗翡翠色の鱗が月光を弾いて燐光のように光る。竜は声をかけなかった。見守っている。
ナギは膝をつき、裂け目の縁に左手をついた。右手でスライムの小瓶を開ける。粘液が掌に広がり、岩の表面に薄い膜を作った。群体知性との接続回路。
「スライム。中継を頼む」
【了解。フェロモン信号の受信を開始する。警告、信号強度が極めて高い。脳への負荷が予測不能】
「構わない」
粘液が裂け目の壁面に沿って下へ伸びていく。触手のように。暗闇の中へ。
最初に来たのは匂いだった。
酸。甲殻の分泌物。地下の腐敗した魔素。だがその奥に、花のような甘い香り。フェロモンだ。甘さの中に、情報が折り畳まれている。
頭痛が来た。
こめかみを錐で突かれるような鋭い痛み。ナギは歯を食いしばった。フェロモン信号は音でも振動でもない。化学物質の濃度と組成で意味を伝える体系だ。ナギの魔物語は本来、音声と概念の領域に特化している。直接接続はできない。
だが今のナギには根源的魔物語がある。
フェロモンの化学信号を、群体知性が数値に変換する。数値をナギの根源的魔物語が概念に変換する。概念から意味を紡ぐ。三重の翻訳。
脳の奥で、何かが繋がった。
【——やっと来たか】
低い振動。声ではない。意味の塊。千年分の忍耐が凝縮された響き。
【我は深淵の女王。千年の間、穴の底で待っていた】
ナギの視界が揺れた。信号が脳を圧迫している。額から汗が流れ落ちた。群体知性が割り込んだ。
【脳波異常を検出。翻訳負荷が許容値の8割に達している。長時間の通信は推奨しない】
ナギは唇を噛んだ。時間がない。
【何を待っていた】
根源的魔物語で問いかけた。自分の意思をフェロモンの概念に変換し、群体知性を経由して送り返す。逆方向の三重翻訳。頭が割れそうだ。
女王の返答が来た。
【交渉を】
一語。だがその一語に乗った感情の量が、ナギの全身を震わせた。
【我が民は地上に出たい。地下の魔素が枯渇している。千年かけて少しずつ——だが限界が近い。地上には魔素がある。光がある。だが地上の者どもは我らを拒む】
信号の中に映像のようなものが混じった。群体知性が可視化したデータだ。地下の巨大な空洞。暗闇の中で蠢く無数の蟲。甲殻の隙間から覗く発光器官。数千、いや数万の深淵蟲が、ひしめき合っている。
【千年前も。二百年前も。地上に出ようとした。だが交渉にならなかった。我らの姿を見た地上の者は、怯え、武器を取り、殺した。我が民も応戦し、戦争になった。言葉が通じなかった。通じる者がいなかった】
ナギの喉が詰まった。
千年間。言葉が通じないまま、何度も地上に出ようとし、何度も戦争になり、何度も穴の底に追い返された。
【だがお前がいる。架け橋。我が言葉を聞ける者が、千年ぶりに地上にいる】
ファングが鼻を鳴らした。ナギの体が微かに震えているのを感じ取ったのだろう。セリアが半歩前に出たが、トルクが腕で止めた。
「集中してる。邪魔するな」
ナギは目を閉じた。翻訳の負荷で視界が二重になっている。群体知性の警告が点滅していた。九割。だがまだ聞かなければならないことがある。
【深淵蟲の侵攻。お前の民が地上に這い出してきたのは、交渉のためか】
【強硬手段だ。言葉が通じないなら、力で注意を引くしかなかった。我が民の中でも知性の低い個体を先に送った。地上を荒らせば、いずれ誰かが我に辿り着くと踏んだ】
ナギは奥歯を噛んだ。あの深淵蟲の群れは、女王にとっては「ノック」だったのだ。扉を叩く音。千年間、誰も開けてくれなかった扉を。
【わかった。お前の言い分は理解した】
ナギの根源的魔物語が裂け目の闇に沈んでいく。
【だが一つ、答えてもらう】
女王の信号が微かに揺れた。警戒の匂い。甘い香りに酸の成分が混じる。
【なら、なぜ牙の商団と手を組んだ】
沈黙。
長い沈黙だった。地下から吹き上がる風が止まった。フェロモンの信号が途切れたのではない。女王が言葉を選んでいるのだ。
【牙の者どもは仲介者だと名乗った。地上への道を開くと。我が民の一部を地上に送り、人間の社会に紛れ込ませると。だが約束は果たされなかった】
女王の信号に苦味が混じった。文字通りの苦味だ。フェロモンの組成が変わり、群体知性が「憤怒」と翻訳した。
【繰り返し裏切られた。仲介すると言いながら、我が民の一部を護衛として使い、戦力として消費した。あの男グリムは我が民を駒にしていた。交渉の席に座らせると言いながら、実際には我が民を鎖に繋いでいた】
ナギの拳が白くなった。
女王も、騙されていたのだ。
千年間穴の底で待ち続け、ようやく現れた「仲介者」に裏切られた。グリムは女王の希望を利用し、蟲人族を道具にしていた。
【架け橋よ。お前は牙の者とは違うのか】
試すような問い。信号の奥に、かすかな期待が混じっている。千年分の失望の後の、最後の期待。
ナギは目を開けた。裂け目の闇を見つめた。
群体知性が警告した。【翻訳負荷9割5分。あと30秒で限界に達する】
三十秒。
ナギは根源的魔物語に全てを込めた。
【俺は架け橋の末裔だ。繋ぐ者だ。お前たちの居場所を地上に作る方法を、一緒に考えよう】
信号を送り終えた瞬間、頭の中で何かが弾けた。視界が真っ白になった。体が傾き、岩に手をついた。
「ナギ!」
セリアの声。駆け寄る足音。ファングが吠えた。
ナギは片手を上げた。大丈夫だ。大丈夫。
裂け目の底から、微かな光が昇ってきた。深淵蟲たちの触角が一斉に光っている。数十、数百の光点。
女王の信号が、最後にひとつだけ届いた。
【約束だ。架け橋よ】
* * *
裂け目から離れたナギを、トルクが肩で支えた。
「立てるか」
「なんとか」
ナギの鼻から血が一筋流れていた。三重翻訳の負荷だ。セリアが布で拭おうとしたが、ナギは首を振った。
「大丈夫だ。話は聞けた」
「で、どうだったの」
セリアの声は平坦だったが、弓を握る手の甲に血管が浮いている。
「女王は交渉を求めていた。深淵蟲の侵攻は、交渉の席につくための手段だった。千年間、言葉の通じる相手がいなかった。それだけだ」
トルクが眉を上げた。
「それだけ、か」
「千年は長い。一人で穴の底にいる千年は」
ファングが低く唸った。ナギを見つめる金色の目に、理解の色がある。狼にとって、群れから離れることは死に等しい。千年の孤独は、群れの獣には想像もできない苦痛だろう。
「もう一つ。女王は牙の商団に騙されていた。グリムは仲介者を名乗って女王の民を利用していた」
セリアの目が細くなった。
「あの眼帯の男、どこまで腐ってるの」
「底なしだ」
ナギは裂け目を振り返った。黒い霧が月を覆い始めている。だがその霧の中で、深淵蟲の触角が点々と光っている。怒りの光ではなかった。
待っている光だった。




