二つの牙
「報告します。北方の森に異常が確認されました」
ヴェルクの執務室。辺境監視官の机の上に地図が広げられている。部下の斥候が泥だらけの軍靴のまま飛び込んできた。
「巨大な蟲の魔物です。数十体が森の北端を徘徊しています。村人が三名、畑を放棄して逃げてきました」
ヴェルクは椅子から立ち上がった。金髪が窓から差す光に光っている。
「蟲の種類は特定できたか」
「できません。図鑑にも記録にもない種です。体長は人の背丈ほど。甲殻が異常に硬く、口から酸を吐くと。村人の証言です」
「黒い霧は」
「はい。北から流れてきています。霧に触れた家畜が衰弱したとの報告もあります」
ヴェルクは窓の外を見た。北の空が暗い。雲ではない。霧だ。黒い霧が稜線の向こうから流れてきている。昨日は見えなかった。一日で広がっている。
「将軍府に報告を上げろ。討伐軍の編成を要請する」
「はい」
部下が出ていった。ヴェルクは机に手をついた。
引き出しを開けた。中に一冊の手帳がある。革表紙が擦り切れた古い手帳。ヴェルクが独自に調査した記録だ。
獣語りの乱。二百年前の記録。王国が魔物語の使い手を異端として追放した事件。公式記録では「魔物を使役して反乱を企てた危険な異能者を処分した」とされている。
だが、ヴェルクが古い書庫から掘り起こした原本は違っていた。
記録が改竄されている。
原本には「架け橋の一族は人間と魔物の仲介者として機能していた」と記されていた。反乱ではなく共存。使役ではなく対話。王国が恐れたのは反乱ではなく、人間と魔物が手を結ぶことそのものだった。
手帳の末尾に、牙の紋章のスケッチがある。商団の旗に描かれていた紋章。古い貴族の家紋と一致した。二百年前、獣語りの乱を主導した貴族の家紋だ。
主導したのは架け橋の一族ではない。排斥した側だ。
「正義の側が嘘をついていた」
ヴェルクは手帳を閉じた。自分はその嘘の上に立っている。辺境監視官という肩書きも、追放者を監視する任務も、嘘の延長線上にある。
窓の外の黒い霧が、少しずつ濃くなっている。
討伐軍を待っていては間に合わないかもしれない。だが、橋守の里に協力を求めるには——自分が追放した男に頭を下げることになる。
ヴェルクは椅子に座り直した。金髪の下で、目が揺れていた。
* * *
里では、ナギが動いていた。
裂け目から湧く深淵蟲は日に数十体ずつ増えている。ヴァルナザドールが定期的に炎のブレスで焼いているが、穴は塞がらない。蟲は止まらない。
ナギは全種族に防衛体制を指示した。
根源的魔物語を使った。一つの言葉で五つの種族に同時に届く。
【森狼族。偵察と早期警戒を担え。群れを三つに分け、北・東・西の森を巡回しろ。蟲を見つけたら即座に報告。交戦するな】
ファングが頷き、群れに遠吠えで命令を伝えた。三つの小隊が森に散った。
【ゴブリン族。罠を仕掛けろ。落とし穴と網の罠を裂け目の周囲二百歩圏内に設置。蟲の足を止めることが目的だ。殺す必要はない】
ゴルドが偵察隊に指示を出した。ガリクが先頭に立ち、木の上から罠の配置を指揮した。
【オーク族。防衛線を構築しろ。里の北側に木柵と壕を設けろ。蟲が里に到達する前に食い止める最終防衛線だ】
ボルガが鍛冶場の弟子たちを集めた。鉄の杭を打ち込み、丸太を組んで柵を立てる。ボルガ自身が先頭に立って杭を打った。片牙を食いしばりながら。
【スライム群体知性。蟲の酸への対抗策を分析しろ。塗布薬の応用で酸を中和できないか検討してくれ】
水槽の表面に文字が浮かんだ。
【了解した。蟲の酸は強酸性。中和にはアルカリ性の鉱物粉末が有効と推定する。灰嶺の石灰岩を粉砕して散布すれば、酸の威力を半減できる。検証を開始する】
リーナがスライムの分析結果を受け取り、石灰岩の粉末を調合した。防衛線の前面に白い粉を撒く。蟲の酸がここに触れれば、中和されて威力が落ちる。
ヴァルナザドールが上空を旋回している。暗翡翠色の影が裂け目の上を行き来し、這い出てくる蟲を炎で焼く。だが竜の炎にも限りがある。一日中焼き続けることはできない。
トルクが防衛線の前に立った。大剣を地面に突き立て、蟲の侵入に備えている。セリアが柵の上に登り、弓を構えた。矢の先端に石灰粉を塗り、命中すると同時に酸を中和する工夫を施した。
五族が動いている。森狼族が走り、ゴブリンが罠を張り、オークが壁を築き、スライムが分析し、竜が焼く。人間のナギが繋いでいる。
ボルガが防衛線の杭を打ちながら、ナギを見た。
【お前がいなければ、この連携は成り立たなかった】
ナギは答えなかった。ボルガが自分で答えを出している。それで十分だった。
* * *
三日目の夕暮れ。
防衛線は機能していた。罠で足を止められた蟲をトルクとオークの戦士が仕留め、すり抜けた個体をセリアの矢が穿つ。森狼族の報告で蟲の移動ルートを予測し、ゴブリンが罠を移動させる。
だが、数が増えている。初日は五体だった蟲が、二日目には二十体、三日目には四十体を超えた。裂け目が広がっている。
夕暮れの見張りの時間だった。ナギが防衛線を巡回していると、ファングが走ってきた。
【妙なものを見つけた。蟲の群れに混じって、一体だけ違うのがいる】
「違うとは」
【小さい。他の蟲の半分ほどだ。だが、目が違う。他の蟲の目は赤い光だけだ。そいつの目は、こちらを見ている】
ナギはファングと共に防衛線の北側に回った。
木柵の向こう。蟲の群れが這い回っている。その中に、確かに一体だけ異質な個体がいた。
体長は他の蟲の半分。甲殻の色が少し薄い。灰色がかった黒。そして六つの目が、赤い光ではなく、琥珀色に近い光を放っている。
その目がナギを見ていた。
ナギは根源的魔物語で呼びかけた。
【聞こえるか】
反応があった。
だが、言葉ではなかった。振動でもなかった。匂いだった。蟲の体表から、微かな化学物質が放出された。フェロモン。蟲人族がかつて使っていた伝達手段と同じ体系。
ナギには直接読み取れない。だが、スライムの群体知性なら解析できるかもしれない。
「セリア! スライムの出張所に連絡を! ここにサンプルが要る!」
セリアが走った。数分後、リーナがスライムの粘液を入れた瓶を持って駆けつけた。ナギが瓶の蓋を開け、粘液を地面に広げた。スライムの粘液がフェロモンを吸着する。
粘液の表面に文字が浮かんだ。群体知性が遠隔で解析している。
【フェロモン体系の解読に成功した。メッセージを翻訳する】
文字が組み変わった。
【女王が呼んでいる。架け橋よ。女王がお前と話したいと言っている】
ナギの背筋に冷たいものが走った。
「女王?」
【追加情報。この個体は使者だ。知性を持つ蟲人族の亜種。深淵蟲とは異なる系統。穴の中から派遣されてきた】
蟲人族の女王。深淵蟲の女王。同一の存在なのか、別なのか。
使者の蟲が柵の前で止まっていた。六つの琥珀色の目がナギを見つめている。攻撃の気配はない。ただ待っている。
フェロモンが再び放出された。粘液が翻訳する。
【架け橋よ。穴の底に降りてこい。女王が待っている。話がしたいのだ。千年ぶりに】
千年前。竜が百頭いた時代。その時も穴が開き、蟲が出た。竜たちは力ずくで穴を塞いだ。
だが、穴の中に誰かがいたのだとしたら。話を聞く者がいなかっただけだとしたら。
ナギは裂け目の闇を見つめた。黒い霧の奥、はるか深部から、かすかな振動が伝わってきた。何かが呼んでいる。




