古い穴
【北の森が割れた】
ファングが砦に駆け込んできたのは、ナギの覚醒から三日後の昼だった。
森狼族の群れが四頭、ファングの後ろに続いている。全員の毛が逆立ち、尾が下がっている。恐怖の姿勢だ。ナギは群れの中で最も落ち着いているはずのファングの蒼い紋様が、明滅しているのを見た。
「何があった」
【北の森の果てに地面が割れている。黒い霧が湧いている。あの中から何かが出てきた】
「何が出た」
【わからない。見たことがない。蟲のような体。六つの目。口から泡を吐く。泡に触れた木が溶けた】
ナギの背筋が冷えた。
「トルク! セリア!」
トルクが大剣を背負って走ってきた。セリアが弓を手に広場を横切った。
「北の森で異変だ。ファングの群れと行く。トルク、前衛を頼む。セリア、後方から援護」
トルクが無言で頷いた。セリアが矢筒の矢を数え、背負い直した。
「リーナは里に残れ。塗布薬の量産を続けてくれ」
「わかりました。気をつけて、ナギさん」
四人と森狼族の群れが北へ走った。
* * *
走りながら、ファングが情報を追加した。
【群れの若い奴を偵察に出した。二頭が近づいた。一頭が泡を浴びて毛が焼けた。もう一頭が引きずって逃げてきた】
「怪我の程度は」
【皮膚がただれている。毛が生えてこないかもしれない。だが命に別状はない】
トルクが走りながら大剣の留め金を確認した。無言だが、目が据わっている。戦闘の準備ができている。
深緑の森を抜け、北の岩場を越えた先。灰嶺の東側の谷間。
空気が変わった。
森の匂いが消えている。代わりに、錆びた金属と腐った卵を混ぜたような悪臭が立ち込めていた。セリアが袖で鼻を覆った。トルクの目が細くなった。
「見えた」
谷の底に、巨大な裂け目があった。
幅は十歩以上。地面が左右に引き裂かれたように開いている。深さは見えない。暗黒の底から黒い霧が立ち昇り、谷全体を薄く覆っている。
裂け目の縁に、蠢く影があった。
「何だ、あれは」
トルクが大剣の柄を握った。
体長は二歩分。甲虫のような体だが、足が八本ある。黒光りする甲殻。頭部に六つの目が並び、赤い光を放っている。口から白い泡を滴らせている。泡が地面に落ちると、岩が泡立って溶けた。
三体が裂け目の縁を這い回っている。さらに二体が、裂け目の中から這い出てくるところだった。
【あれだ。あれが出てきた】
ファングが低く唸った。群れが扇状に展開し、距離を取っている。
ナギは魔物語で呼びかけた。
【聞こえるか。俺はナギ。この森に住む者だ。お前たちは何者だ】
反応がなかった。
六つの目がナギを見た。だが、そこに知性の光はなかった。ガリクの好奇心も、ボルガの矜持も、ファングの警戒心もない。ただ赤い光が瞬いているだけだ。
根源的魔物語で試した。全種族に届くはずの言葉。
【聞こえるか】
何も返ってこなかった。
「通じないのか」
セリアが弓を構えた。
「ああ。知性がない。意思疎通できる相手じゃない」
ナギが初めて経験する感覚だった。魔物語が届かない。言葉を発しても、壁に向かって話しているのと同じだ。この蟲には思考がない。「食べる」「壊す」「増える」——それだけで動いている。
「深淵蟲だ。ヴァルナザドールの記録にあった。千年前に一度出現している」
「千年前?」
「詳しいことは後だ。まず、止める」
蟲の一体がナギたちの方向に動いた。八本の足が地面を掻き、甲殻が軋む音を立てている。口から酸の泡が噴き出した。
「散れ!」
トルクが前に出た。大剣を横薙ぎに振り抜いた。刃が甲殻に当たった。火花が散った。甲殻に浅い傷が入ったが、切断には至らない。
「硬い。鉄鎧並みだ」
トルクが舌を打った。蟲が口を開き、酸の泡をトルクに向けて吐いた。トルクが横に跳んだ。泡が革鎧の肩当てに掛かった。革が泡立ち、煙を上げて溶けた。
「トルク!」
「大丈夫だ。肩当てだけだ」
トルクが鎧の留め金を外し、溶けた肩当てを投げ捨てた。その隙に蟲が距離を詰めてきた。
セリアの矢が飛んだ。蟲の目を狙った一射。矢が六つの目のうち一つに突き刺さった。蟲が身を捩った。だが止まらない。残りの五つの目でセリアを捉え、方向を変えた。
「目を潰しても止まらない!」
「関節を狙え!」
ナギが叫んだ。トルクが体勢を立て直し、大剣を振り上げた。蟲の前足の関節に刃を叩き込んだ。今度は甲殻の薄い部分に当たった。足が一本切断された。蟲がバランスを崩し、横倒しになった。
トルクが間髪入れず、腹部に大剣を突き立てた。甲殻の裏側は比較的柔らかい。刃が深く刺さり、黒い体液が噴き出した。蟲が痙攣し、足を動かし、やがて止まった。
「倒せる。だが、一体ずつだ」
トルクが息を吐いた。額に汗が光っている。
残りの四体がこちらを見ていた。酸の泡が口から垂れている。ファングの群れが警戒の遠吠えを上げた。
「ナギ。あと四体。そして裂け目からまだ出てくる」
セリアが指差した。裂け目の中から、新たな影が二つ、黒い霧の中を這い上がってきていた。
ナギは判断した。
【ヴァルナザドール。聞こえるか】
根源的魔物語を灰嶺に向けて発した。竜との距離は遠い。だが、この力なら届くはずだ。
【北の谷に裂け目が開いた。深淵蟲が出ている。助力を請う】
数秒の沈黙。
空気が震えた。
灰嶺の方角から、咆哮が響いた。地面が振動し、木々が揺れた。空を暗翡翠色の影が横切った。巨大な翼が風を叩き、谷に突風が吹き荒れた。
ヴァルナザドールが谷の上空に現れた。暗翡翠色の鱗が黒い霧を裂いて光った。琥珀色の目が裂け目を見下ろした。
竜が口を開いた。
炎のブレスが裂け目の縁を薙いだ。赤と白が混じった高温の炎が、深淵蟲を包み込んだ。甲殻が赤熱し、罅が入り、砕けた。蟲が燃えた。三体が一瞬で黒い灰になった。裂け目から這い出かけていた二体も、炎に巻き込まれて落ちていった。
だが、裂け目は閉じなかった。
炎が消えた後も、黒い霧は立ち昇り続けている。裂け目の深部から、新たな蠢きが見えた。まだいる。
ヴァルナザドールが谷の縁に降り立った。巨体が岩場を軋ませた。
【千年前と同じだ】
竜の声が低く響いた。
【穴が開き、蟲が出る。前回は百年かけて穴を塞いだ。竜が百頭いた時代の話だ】
「百頭」
ナギは裂け目を見つめた。黒い霧が際限なく湧いている。
【我一頭では穴を塞げない。炎で蟲を焼くことはできる。だが、穴そのものを閉じるには、別の力が要る】
「別の力とは」
【千年前は、竜たちが総力で大地の魔素を操り、地殻を繋ぎ直した。百頭の竜の力でようやく成し遂げた偉業だ。我一頭にできることではない】
トルクが額の汗を拭った。溶けた肩当ての跡が、むき出しの肌に赤い痕を残している。セリアが弓を下ろした。ファングの群れが裂け目を遠巻きに見つめている。
竜が百頭いた時代の脅威が、竜一頭の時代に甦った。
「どれくらいの速さで蟲は増える」
【前回の記録では、日に数十体ずつ穴から出てきた。放置すれば、半月で森が飲まれる。一月で辺境全域に広がる】
セリアが声を上げた。
「一月で辺境全域って、里だけの問題じゃないじゃない」
「ああ。人間の村も巻き込まれる」
ナギは裂け目の闇を見つめた。黒い霧の奥で、無数の赤い光が瞬いていた。商団の脅威どころではない。これは辺境そのものの存亡に関わる。
「戻るぞ。里で対策を練る。ヴァルナザドール、ここを見張っていてくれるか」
【よかろう。だが、我の炎にも限りがある。一日中焼き続けることはできん】
「わかっている。時間を稼いでくれ」
ナギたちは谷を後にした。背後で竜の咆哮が響き、新たな蟲が炎に焼かれる音がした。




