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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
裏切りの牙

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繋ぐ者

眠れない夜は、地下に降りる。


 砦の最深部。石の壁に囲まれた小さな部屋に、イルザの石板が置かれている。二百年前の架け橋が遺した手記。ナギはその前に座り、手記の最後の頁を開いた。


 松明の光が文字を浮かび上がらせる。古い魔物語で記された文章。ナギ以外には読めない。


『もし次の架け橋がこれを読んでいるなら伝えたい』


 何度も読んだ。だが、今夜は違う重みがある。ボルガの言葉が耳に残っている。出ていけば里は安全になる。一理どころではない。正論だ。


『お前は一人ではない』


 ナギは指先で文字を辿った。


『架け橋は人と魔物の間に立つ者。だが、架け橋が立てるのは両岸に支えがあるからだ。お前を支える者を信じろ。信じることが、繋ぐ力そのものだ』


 信じろ。


 ナギは石板を閉じた。冷たい石の感触が指に残っている。イルザは信じた。二百年前、人間と魔物の架け橋になろうとした先代は、最後にそう記して姿を消した。


 松明が揺れている。地下は静かだ。地上の喧騒は届かない。


 腰のイルザの短剣に手を置いた。柄に刻まれた橋と人と獣の紋章。指先で辿ると、彫りの一つひとつが皮膚に食い込むように感じた。


 ボルガの問いに答えなければならない。だが、答えを持っていない。石板の言葉は温かい。だが温かさだけでは、あの鍛冶長を説得できない。


 ナギは立ち上がった。確かめなければならないことが一つある。


* * *


 灰嶺の洞窟。


 夜明け前の空が灰色に霞んでいる。岩場を登る足音だけが響く。ナギは一人で来た。


 洞窟の入り口は暗い。だが、奥から微かに光が漏れている。竜の鱗が放つ燐光。暗翡翠色の光だ。


 ヴァルナザドールは目を開けていた。琥珀色の双眸がナギを捉えた。


【来たか、架け橋よ。問いがあるのだろう】


 竜の声は低く、洞窟の壁を振動させた。ナギは立ったまま答えた。


【ある。答えてほしい】


【問え】


【俺の母ハルナは、架け橋の一族だったのか】


 竜が沈黙した。長い沈黙だった。琥珀色の目が細まり、千年の記憶を遡っているように見えた。岩壁に刻まれた爪痕が、燐光に照らされて影を落としている。


【二百年前、イルザは子をもうけていた。獣語りの乱が起きる前のことだ。イルザは自分が殺されることを予見していた。だから子を辺境の民に預けた。名を変え、血統を隠した】


 ナギは動かなかった。


【その子の六代後の子孫が、お前の母ハルナだ】


「六代」


 声が掠れた。六代。百五十年以上の歳月を跨いで、血が繋がっている。軍にいた頃、自分の出自を調べようとしたことがある。辺境の孤児。記録なし。それで終わりだった。


【ハルナは魔物語のスキルを持っていなかった。だが、血は受け継いでいた。隔世遺伝だ。お前に発現した。それだけのことだ】


 ナギは拳を握った。それだけのこと。竜にとっては二百年の歳月も「それだけ」なのだろう。だが、ナギにとっては違う。


「母は知っていたのか」


【知っていた】


 竜の答えは短かった。


【ハルナは自分の中にスキルがないことを知り、落胆した。だが、子に発現する可能性を理解していた。お前が生まれたとき、ハルナはワシのところへ来た。赤子を抱いて、この洞窟に】


「……母がここに?」


【ナギ。お前の名の意味を知っているか】


 ナギは首を振った。ただの名前だと思っていた。


【古い辺境の言葉で『繋ぐ者』という意味だ。ハルナはそれを知って名づけた。お前が架け橋になることを願っていた。お前の母は、その願いを胸に死んだ】


 ナギの視界が滲んだ。松明の光が揺れているのか、自分の目が揺れているのか。


 母の顔を思い出そうとした。幼い頃の記憶は断片的だ。温かい手。低い子守唄。辺境の夜の匂い。それだけしかない。


 その手が、赤子の自分を抱いて、この洞窟に来ていた。


「……ありがとう」


 声が掠れた。竜に向けた言葉ではなかった。この場にいない母に向けた言葉だった。


 竜は何も言わなかった。琥珀色の目が、静かにナギを見つめていた。


* * *


 洞窟を出ると、空が白み始めていた。灰嶺の岩場に朝の風が吹いている。


 岩陰に人影があった。


「セリア」


 赤銅色の髪が朝の光に透けている。弓を背負い、膝を抱えて座っていた。目の下に隈がある。一晩中ここにいたのだろう。


「あんた、一人で竜のとこに行ったでしょ。砦を出るのを見てた」


「追いかけてきたのか」


「当たり前でしょ」


 セリアが立ち上がった。緑の目がナギを真っ直ぐ見ている。


「で、答えは出たの。出ていくの」


「まだだ」


「まだって何よ。ボルガの言うことが正しいと思ってるんでしょ」


「正しいかどうかの問題じゃない」


「じゃあ何の問題なの」


 ナギは灰嶺の麓を見下ろした。森の向こうに里がある。まだ煙が上がっていない。皆、眠っているのだろう。


「俺がいなくなったら、同盟は持たない。ゴルドとボルガが直接話せるか。ファングの言葉を聞ける奴がいるか。スライムの群体知性を理解できる奴は。俺は逃げたいんじゃない。残る理由と去る理由を天秤にかけている」


「天秤なんかいらない」


 セリアの声が震えた。


「あんたが出ていくなら、あたしも行く」


 ナギが振り向いた。


「何を言って——」


「あたしの居場所はあんたの隣だから。里にあるんじゃない。あんたがいるところにあるの」


 風が止まった。灰嶺の岩場に朝日が差し込んでいる。セリアの赤銅色の髪が金色に光った。緑の目が潤んでいるが、視線は逸れない。


 ナギは口を開きかけて、閉じた。言葉が見つからない。天秤にかけていた理屈が全部吹き飛んだ。去る理由を積み上げて、論理的に正しい選択をするつもりだった。だがこの女は論理の外側から殴りかかってきた。


 セリアの手が、ナギの手首を掴んだ。冷たい指だった。一晩中、岩場で待っていた手だ。


「……ありがとう」


 二度目の「ありがとう」だった。母に向けた一度目とは違う。目の前の人間に向けた言葉だった。ナギが誰かに礼を言うのを、セリアは初めて聞いた。


 セリアが目を擦った。鼻を啜り、息を整えた。


「じゃあ、戻ろう。出ていかないなら、やることがあるでしょ」


「ああ。やることがある」


* * *


 里に戻ったのは朝の鐘の直後だった。


 ナギは四者会議を招集した。正規の手順で鐘を鳴らし、広場に全種族の代表を集めた。


 ゴルドが椅子に座っている。白い眉が朝日に光っている。ファングが横に伏せ、金色の目を細めている。スライムの水槽が波打っている。ボルガが腕を組んで立っていた。片牙が影を落としている。


 トルクが大剣を背負って広場の端に立ち、リーナがその横で薬草のポーチを抱えている。セリアは弓を背負ったまま、ナギの斜め後ろにいた。


「ボルガ」


 ナギが口を開いた。


「お前の言うことは正しい。俺がいる限り、商団は里を狙い続ける。俺が出ていけば、狙う理由がなくなる」


 ボルガが頷いた。だが、その目に勝利の色はなかった。


「だが、俺がいなくなれば、この同盟は一年持たない」


 ボルガが眉を動かした。ナギは続けた。


「お前たちは互いの言葉を話せない。ゴルドの命令をボルガは聞き取れない。ファングの警告をゴルドは理解できない。スライムの分析をリーナに伝える者がいない。俺がいなくなった同盟は通訳を失い、誤解が積み重なり、崩壊する。商団が来るまでもない。内側から壊れる」


 広場が静まった。


「だから俺は残る。だが、ただ残るだけじゃない」


 ナギの声が変わった。


 人の言葉でもない。ゴブリン語でもない。オーク語でもない。狼語でもスライムの粘液言語でもない。


 全ての種族が理解できる音が、広場に響いた。


【俺はお前たちの架け橋だ。この同盟を繋ぐ者だ。去ることはしない】


 ゴルドが目を見開いた。ボルガの片牙が震えた。ファングの蒼い額の紋様が光り、耳が立った。スライムの水槽が激しく波打った。


 ナギ自身も驚いていた。口から出た言葉は、どの種族の言語でもなかった。だが全員に届いている。全員が理解している。ゴブリンにはゴブリンの音として。オークにはオークの振動として。狼には狼の共鳴として。スライムには粘液の波紋として。


 根源的魔物語。全種族の言語の原型。イルザの手記にも記されていない力。


 ゴルドが椅子から立ち上がった。白い眉が震えている。


【橋守の民よ。わしらは架け橋を受け入れた。その決定を覆すつもりはない】


 ファングが立ち上がった。蒼い紋様が脈動している。


【我が群れは架け橋と共にある。匂いが変わった。強くなっている】


 スライムの水槽に文字が浮かんだ。


【根源的魔物語を確認した。古代の記録にのみ存在する概念が実行された。観測を続ける】


 全員がボルガを見た。


 オークの鍛冶長は長い間黙っていた。腕を組んだまま、ナギを見つめている。片牙の影が顔に落ちている。


 やがて、ボルガが腕を解いた。


【俺が間違っていた】


 低い声だった。


【お前を追い出しても、里は守れない。お前がいなければ守る意味がない】


 ボルガが右の拳を胸に当てた。オーク式の敬意の表明。


 ナギは頷いた。それ以上の言葉は要らなかった。


 セリアが斜め後ろで、小さく息を吐いた。その音だけが、広場の沈黙に溶けていった。

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