疑心
【あいつがやったんじゃないのか】
翌朝、鍛冶場の前でゴブリンの若い兵士がオークの鍛冶師を指差していた。
【昨日、こいつが水場で変な動きをしていた。蟲がまだ入ってるんじゃないか】
指差された鍛冶師が眉間に皺を刻んだ。昨日、寄生を摘出された鍛冶見習いとは別の個体だ。ファングの検査で問題なしと判定されている。
【俺は何もしていない。水を汲んでいただけだ】
【嘘だ。お前の手つきがおかしかった】
ナギが割って入った。
「やめろ。ファングが検査済みだ。蟲の匂いはなかった」
ゴブリンの兵士がナギを見上げた。疑いの目。ナギに向けられたのは初めてだった。
【でも、ファングの鼻にも限界があるって言ったじゃないか。休眠中の蟲は匂わないって】
反論できなかった。自分が言った言葉だ。
ゴブリンの兵士とオークの鍛冶師の間に、ナギが割って入った手で壁を作る。だが二人の目は、ナギ越しに相手を睨んでいた。
広場の向こうでは、森狼族の若い狼が二頭、オークの鍛冶場の前をうろうろしている。オークたちが嫌な顔をした。寄生された仲間を出した種族への不信が、態度に滲んでいる。
トルクが大剣を背負って歩み寄ってきた。
「ナギ。このままだとそのうち殴り合いが始まるぞ」
「わかってる」
「わかってて、どうする」
「会議を開く。今すぐだ」
* * *
四者会議が開かれた。砦の石卓。ナギ、ゴルド、ボルガ、ファング。それにリーナとセリアが同席している。スライムの群体知性が壁の膜を通じて参加していた。
議題は一つ。寄生への対策だ。
ボルガが口を開いた。
【ファングの検査を毎日繰り返すしかないだろう】
ファングが首を振った。
【四百体以上を毎日嗅ぐのは無理だ。嗅覚にも疲労がある。三日に一度が限界だ】
ゴルドが骨飾りを揺らした。
【ならば全員を隔離して、一体ずつ監視するか】
「それは同盟を自分で壊すのと同じだ。種族ごとに隔離したら、信頼が戻らない」
沈黙が落ちた。ナギは群体知性に問いかけた。
「スライム。蟲の分析は進んだか」
壁の膜が脈動した。
【分析結果を報告する。蟲は宿主の体内で魔素を利用して神経に接続する。魔素が接続媒体になっている。対処法は二つ。第一に全員を隔離して個別検証する。第二に寄生そのものを不可能にする防護手段を開発する】
「第二だ。防護手段を作れるか」
【理論上は可能。魔素の流れを体表で乱すことで、蟲の侵入経路を塞げる。だが素材が必要だ】
リーナが手を挙げた。
「群体知性の分析と合わせて、薬草学の観点から提案があります。蟲が魔素を利用するなら、魔素の流れを攪乱する成分を体表に塗布すればいい。スライム粘液には魔素を含む生体膜がある。これと月桂樹の樹皮を混ぜれば、攪乱作用を持つ塗布薬が作れるかもしれません」
ナギはリーナを見た。水色の目が真剣だった。手記の解読と並行して、蟲の対策まで考えていた。
「試してくれ」
「はい。ただ、理論だけです。実験が必要です」
【群体知性が実験に協力する。粘液の提供は可能だ】
ファングが鼻を鳴らした。
【実験の間、俺の群れが巡回を強化する。嗅覚だけに頼らず、行動の異常も監視する】
ゴルドが頷いた。ボルガも無言で同意した。会議が動き始めた。疑心暗鬼の霧の中で、ようやく全員が同じ方向を向いた。
* * *
リーナの実験は丸一日かかった。
砦の一室を作業場にして、スライム粘液と月桂樹の樹皮を配合する。群体知性が成分の比率を数値で指示し、リーナが手で混ぜる。失敗が三回続いた。粘液が固まりすぎる。樹皮の成分が揮発する。配合が安定しない。
「ナギさん。四回目、いきます」
リーナの指が赤くなっていた。薬草のアクで荒れている。だが手つきに迷いはなかった。
四回目。粘液と樹皮の粉末に、リーナが蜂蜜を加えた。独自の判断だった。群体知性が沈黙した。データにない変数。だがリーナは手を止めなかった。
緑色の軟膏ができた。粘度がちょうどいい。ナギの腕に塗った。ひんやりとした感触が肌に広がる。
「スライム。魔素の流れを測定してくれ」
【測定中。体表の魔素流が不規則化している。蟲の接続パターンとの適合率が下がっている。理論値で7割の防御効果】
「七割か」
【完璧ではない。だが蟲の侵入を大幅に困難にする。効果の持続時間は推定24時間。毎日塗布する必要がある】
リーナが額の汗を拭いた。疲労の色が濃いが、目が輝いている。
「完璧じゃなくても、ないよりずっといい。量産できます。スライム粘液と月桂樹があれば」
「ファング。月桂樹は森にあるか」
【南の谷に群生している。明日、群れの若い狼に採取させる】
ナギは頷いた。対策が一つできた。完璧ではないが、前に進んだ。
塗布薬の配布を始めたのは翌日の朝だった。ゴブリンの子供たちが緑色の軟膏を顔に塗り合って笑っている。束の間の明るさだった。
だがその明るさは、午後の四者会議で砕かれた。
ボルガが石卓に両拳を置いた。いつもの寡黙さが消えている。片牙が上がっていた。
【ナギ。俺は考えた】
全員の視線がボルガに集まった。
【この問題の根本原因はお前だ】
空気が凍った。ゴルドの骨飾りが揺れるのが止まった。ファングの耳が立った。セリアの手が膝の上で握りしめられた。
【架け橋の末裔だから狙われている。お前がここにいる限り、里は攻撃される。お前が出ていけば、商団は追ってこないのではないか】
沈黙。ゴルドが口を開こうとした。唇が動いたが、言葉が出ない。否定できない論理だった。
ナギは石卓の表面を見つめていた。灰色の石。ここに初めて座ったのは半年前だ。ゴブリンとオークと森狼族が、初めて同じ卓を囲んだ日。
「考えさせてくれ」
それだけ言って、席を立った。砦を出て、赤土の丘を歩いた。
背後で足音が聞こえた。軽い足取り。猟師の足だ。
「あんた、本気で考えてるの?」
セリアが並んだ。緑の目が真っ直ぐナギを見ていた。
「わからない。ボルガの言うことには一理ある」
「一理あるからって、全部を捨てるの? 半年かけて作ったものを」
「俺がいなくても、同盟は維持できるかもしれない。ゴルドもボルガもファングも、もう互いを知っている」
「無理よ」
セリアの声が強くなった。足を止めた。
「あんたがいないと駄目なの。魔物語だけじゃない。あんたがいるから、みんなが同じ卓につける」
風が二人の間を吹き抜けた。赤土の崖の下で、里の灯りが小さく光っている。
「セリア。俺が出ていったら、お前はどうする」
「ついていく」
即答だった。ナギが振り返った。セリアの目に迷いはなかった。
「馬鹿言うな。お前は里の弓手だ」
「あたしは猟師よ。獲物を追うのが仕事。あんたが出ていくなら、あんたを追うだけ」
ナギは何も言えなかった。灰嶺の稜線の向こうに、薄い月が昇り始めている。
「まだ決めてない。考える時間をくれ」
「いいよ。でも一つだけ覚えておいて」
セリアが一歩近づいた。ナギの袖を掴んだ。力は弱い。だが離さない意志がある。
「ボルガは正しいかもしれない。でも正しいことが、いつも最善とは限らない」
手を離し、里に戻っていった。赤銅色の髪が松明の光に消えていく。
ナギは一人、崖の上に立っていた。腰のイルザの短剣に手を触れた。架け橋の紋章。橋を渡る人と獣。この紋章を刻んだ女は、二百年前に同じ選択を迫られたのだろうか。
遠くで、ファングの遠吠えが響いた。一声。長く、低く。警戒の声ではなかった。
呼んでいるのだ。ナギを。




