寄生
「罠が全部外されている!」
ガリクが走ってきたのは、四日目の朝だった。
グリムが宣言した三日は過ぎた。ナギは全種族に警戒を呼びかけ、ファングが全員を嗅いだ。蟲の匂いは検出されなかった。
一日目は何も起きなかった。二日目も。三日目の夜が更けても、里は静かだった。ナギは見張り台でセリアと交代しながら、一睡もせずに過ごした。
何も起きなかった。
四日目だった。
「偵察兵のクロスが、南の森の罠を片っ端から撤去してる!」
ガリクの耳の骨飾りが揺れていた。息を切らしている。ゴブリンの偵察兵リーダーがここまで慌てるのは、ナギも初めて見た。
ナギは砦の階段を駆け下りた。セリアが弓を手に後を追った。深緑の森の南端。獣罠と侵入者用の落とし穴が並ぶ区画だ。
罠が全て外されていた。落とし穴の蓋が脇に積まれ、縄の罠が切断され、音鳴らしの鈴が地面に転がっている。その中心で、ゴブリンの偵察兵クロスがもう一つの罠の縄を解いていた。手つきは丁寧で、迷いがない。
「クロス!」
ナギが叫んだ。クロスの手が止まった。振り向いた目は普段通りの黒。だが、奥に薄い膜がかかったような鈍さがある。
【俺は……罠を仕掛けに来たはずだ】
クロスが自分の手元を見下ろした。切断した縄を握っている。
【なぜ外している? わからない。頭がぼんやりする。手が勝手に動く】
ガリクがクロスの腕を掴んだ。
【お前、昨晩から様子がおかしかった。夕食のとき呼びかけても反応が遅かった】
ナギはファングを呼んだ。蒼い毛並みの森狼が駆けてくる。金色の目がクロスに向けられた。
全身を嗅いだ。首筋。腕。腹。背中。
背中で止まった。
【二つの匂いがする。クロス自身の匂いと、蟲だ。甘くて腐った匂い。肩甲骨の間から最も濃い】
ナギはクロスの後ろに回った。革の上着をめくる。緑色の肌に、小さな穴があった。肩甲骨の間。穴の周囲が赤黒く変色し、微かに脈動している。
「リーナ!」
叫びが森に響いた。リーナが薬草ポーチを揺らしながら走ってきた。
「ナギさん、これは」
「蟲が入り込んでいる。出せるか」
リーナは穴を覗き込み、息を呑んだ。それでも手は震えなかった。ポーチから乾燥薬草を取り出し、すり鉢で粉にする。
「鎮静薬を傷口に塗って、蟲の動きを鈍らせます。でも蟲が神経に接続しているなら、無理に剥がすと」
「わかった。俺がやる」
ナギはクロスの前に回った。両手をゴブリンの肩に置く。黒い目を真っ直ぐ見つめた。
【クロス。聞こえるか。俺の声が聞こえるか】
魔物語で語りかけた。ただの言葉ではない。意識の深い層に届く声。架け橋の血に刻まれた、繋ぐ力。
クロスの目の奥で何かが揺れた。
【ナギ……聞こえる。でも遠い。頭の中にもう一つ声がある。冷たい声だ。何も考えるなと言っている】
蟲の支配。神経を通じて意志を抑え込んでいる。
ナギは声を強めた。魔物語の音が森の空気を震わせる。種族を超えた根源的な呼びかけ。
【お前は誰だ。名を言え】
【俺は……クロスだ。偵察兵のクロスだ。ガリクの部下で、深緑の森の生まれで】
【そうだ。お前はクロスだ。お前の体は、お前のものだ。思い出せ。声比べで仲間と一緒に叫んだ声を。あの声は誰のものだ】
クロスの目から濁りが消えていく。黒い瞳に光が戻り始めた。
リーナが背後で動いた。鎮静薬を傷口に塗布する。穴の中で蟲が蠢くのが見えた。白い体が鈍くなっている。
「今です!」
リーナの指が穴に入った。蟲の体を掴む。引く。抵抗がある。蟲がクロスの筋肉に脚を食い込ませている。
【クロス。お前の体を取り戻せ。押し出せ。お前の中にいるそいつを、拒絶しろ】
クロスの背中が震えた。筋肉が波打つ。内側から押し出す動き。
リーナの指が蟲を引き抜いた。
白い体節が空気に触れた瞬間、蟲はもがいた。複数の目が周囲を見回す。細い脚が空を掻いた。だが十秒もしないうちに体が縮み始め、白い液体になって地面に染みこんだ。甘い腐臭が一瞬だけ濃くなり、消えた。
クロスが膝から崩れ落ちた。ガリクが支えた。
【クロス! 大丈夫か】
【頭が……晴れた。空が、見える。俺の目で見てる。俺は何日こうなっていた?】
「昨日の夕方から異変が出ていた。その前から潜伏していたかもしれない」
セリアが木の幹にもたれていた。弓を握ったまま、顔が白い。
「今の……全部聞こえてた。あいつ、自分の体の中に閉じ込められてたの?」
「ああ。意識はあるのに体が動かない。蟲に乗っ取られていた」
セリアが唇を噛んだ。
ナギの額に汗が流れていた。魔物語の深い使用は体力を削る。だが休んでいる場合ではなかった。
「ファング。全員を嗅いでくれ。里の全種族、一体残らず」
【わかった。だがナギ、数が多い。時間がかかる】
「構わない。一体でも見落としたら終わりだ」
* * *
検査は夕方まで続いた。
ファングの鼻が里の全員を嗅いでいく。ゴブリン三百体。オーク八十体。森狼族四十体。スライムは群体のため対象外だ。
さらに三体が寄生されていた。
ゴブリンの農夫が一体。オークの若い鍛冶見習いが一体。森狼族の若い狼が一匹。
ナギは三体全てを同じ手順で治療した。魔物語で意識に呼びかけ、リーナが鎮静と摘出を行う。
二体目はゴブリンの農夫だった。畑で作物を抜いていた。植えたばかりの苗を根こそぎ引き抜く手が止まらない。ナギが魔物語で呼びかけると、農夫は泣いていた。
【わかってる。わかってるんだ。やめたいのに手が止まらない】
摘出した。蟲が溶けた。農夫はその場にうずくまり、引き抜いた苗を一本ずつ植え直し始めた。
オークの鍛冶見習いは三体目だった。寄生されていたことに気づいてすらいなかった。ボルガが若い見習いの肩甲骨の穴を見たとき、片牙を噛みしめる音が響いた。拳が震えていた。
森狼族の若い狼。ファングの群れの一員だ。治療のとき、ファングが傍を離れなかった。ナギが魔物語で狼の意識に呼びかけると、返ってきたのは怯えた子供の声だった。
【痛い。体の中に何かいる。出して。出してほしい】
ナギの声が掠れていた。頭痛が酷い。視界の端が暗く滲む。
【大丈夫だ。お前の体はお前のものだ。今、出す】
リーナの手が蟲を引き抜いた。狼が一声、高く鳴いた。ファングが仲間の首筋を舐めた。
最後の蟲が溶けて消えたとき、日はとうに沈んでいた。
広場に松明が灯されている。四つの種族が集まっていた。だが活気がない。全員が互いの顔を見ている。疑いの目で。
ゴルドがナギの前に来た。白くなった頭髪が松明の光に照らされている。
【ナギ、すまなかった。お前の警告を聞くべきだった】
「謝るな、ゴルド。取引を受けたのは声比べの結果だ。お前だけの責任じゃない」
ボルガが石のように黙っている。だが片牙の下の唇が微かに動いていた。言葉にならない何かを噛み砕いている。
ナギは周囲を見回した。ゴブリンたちの目。オークたちの目。森狼族の目。
「大事なのは今からだ。だが、これで全部か? まだ見つかっていない寄生がないか?」
沈黙が落ちた。松明の爆ぜる音だけが響く。
ファングが低く鳴いた。
【嗅ぎ分けたのは、蟲が活動中の個体だ。もし休眠している蟲がいれば、匂いは薄まる。確実とは言えぬ】
誰も答えなかった。
商団が里にいた間に仕込まれたのだ。試験取引を受け入れた時点で、もう遅かった。
疑心暗鬼が、松明の煙のように里を覆い始めた。




