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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
裏切りの牙

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折れた旗

「記録が欠落している」


 ヴェルクは羊皮紙の束を机に叩きつけた。辺境の駐屯小屋。窓の外には灰色の曇天が広がり、冷たい風が隙間から吹き込んでくる。


 副官のマルコが扉の前に立っていた。若い男だ。真面目すぎる顔つきで、ヴェルクの苛立ちを静かに受け止めている。


「隊長。何の記録ですか」


「獣語りの乱だ。二百年前の公式文書を取り寄せた。鎮圧の経緯は詳細に残っている。だが発端の項が丸ごとない。反乱の動機が抹消されている」


 マルコが眉を寄せた。


「動機がない公式記録は、ありえません。軍規で」


「そうだ。報告書には必ず事件の背景を記す。敵の動機を把握しなければ再発を防げない。それが規則であり、常識だ。だが、ない」


 ヴェルクは束の中から一枚を引き抜いた。紙は変色し、端が崩れかけている。だが軍務省の印章は鮮明だ。


「鎮圧の記録は六十七枚もある。部隊の配置、戦闘の推移、損耗率、捕虜の処分。全て残っている。だが『なぜ獣語りが蜂起したのか』を記した冒頭部だけが、きれいに抜かれている」


 マルコが記録を受け取り、ページをめくった。


「確かに。第一章の後に第三章が来ています。第二章が存在しません」


 ヴェルクは椅子に座り直した。金髪を撫でつけた頭を片手で支える。辺境監視官の任務。追放した男の集落を見張れという屈辱的な命令。だがその監視の合間に、ヴェルクは別の仕事を始めていた。


 牙の紋章を持つ商団。あの旗が気になった。


「マルコ。記録管理官の署名を見ろ」


 マルコが羊皮紙を受け取り、最終ページをめくった。


「アルヴィン・グレイザー。二百年前の軍務省記録管理官。聞いたことのない名です」


「名前じゃない。家紋欄だ」


 マルコの目が止まった。紋章の横で、指が動かなくなっている。


「牙を模した意匠。円の中に二本の牙」


「あの商団が掲げていた旗と同じだ」


 マルコが顔を上げた。若い副官の目に、理解が走った。


「つまり二百年前に記録を改竄した一族と、今あの集落に出入りしている商団が」


「同じ紋章だ。偶然かもしれない。だが公式記録で動機を消すのは、反乱の真相を隠すためだろう。真相が公になると困る者がいたということだ」


 ヴェルクは立ち上がった。窓に歩み寄り、灰色の空を見上げた。


 ナギを追放したとき、自分は正しいと思っていた。魔物と話す力は呪われたスキルだ。獣語りの乱を繰り返してはならない。軍規に照らして、追放は正当な判断だった。


 その「軍規」が、改竄された歴史に基づいていたとしたら。


「マルコ。このことは将軍にはまだ報告するな」


「なぜですか」


「将軍も同じ公式見解に基づいて判断している。改竄の事実を上に届ける前に、もう少し調べる必要がある」


 マルコが頷いた。だが目に迷いがあった。


「隊長。報告書を改竄する者が軍務省にいたとして、それは二百年前の話です。今さら意味が」


「二百年前の嘘が、今も制度として残っている。獣語りの乱を根拠に、魔物語のスキルは危険と分類されている。ナギを追放した法的根拠もそこにある。もしその根拠が嘘だったとしたら」


 言葉が止まった。自分の声が自分の耳に突き刺さった。


 ナギを追放した根拠が、二百年前の嘘。


 マルコが何も言わなかった。言う必要がなかった。ヴェルクの目がそれを語っていた。後悔ではない。もっと冷たい何か。自分が正義だと信じた土台が、砂だったという認識。


「隊長。もう一つ気になることがあります。あの集落の周辺に、牙の商団の馬車が複数確認されています。公式には四人と護衛だけのはずですが、北方の森に別の一団がいる可能性があります」


 ヴェルクの目が細くなった。


「監視を続けろ。ただし近づくな。あの集落には魔物がいる。斥候が死んだら元も子もない」


「了解しました」


 マルコが敬礼して出ていった。


 ヴェルクは一人、机の前に立った。握った拳を石壁に押し当てる。冷たさが骨に伝わった。


 正義の旗が折れた音がした。自分が信じていた歴史が嘘なら、追放した男は何だったのか。


 窓の外で風が鳴った。灰色の空が嘲笑っている。


* * *


 橋守の里。日が傾き始めた頃。


 ナギは砦の北門を出たところで足を止めた。グリムが待っていた。里の東端、赤土の崖の上。見張りの交代以外は誰も来ない場所だ。


 蟲人族の護衛が二体、影のように控えている。グリムの右目の眼帯が夕日に赤く染まっていた。柔和な笑顔はない。


「二人きりで話がしたいと言ったのはお前だ。グリム」


「ああ。架け橋の末裔よ」


 グリムの声は低かった。商人の愛想が完全に剥がれている。


「お前の血統は知っている。千年前から追い続けてきた血筋だ」


「で、何の用だ」


「提案だ。我々に協力しろ。魔物語の力を我々のために使え。各地の魔物集落を束ね、仲介者として動け。見返りは約束する」


 ナギは腕を組んだ。風が崖の下から吹き上がり、髪を揺らした。


「仲介者を名乗っておいて、やっていることは支配だとヴァルナザドールが言っていた。お前の提案は、俺を手駒にするということだろう」


「手駒ではない。協力者だ」


「同じことを別の言葉で言っているだけだ。断る」


「早いな。理由を聞いてもいいか」


「交渉は対等でなければ成立しない。お前の提案には対等さがない。俺が従うか拒むかの二択だ。それは脅迫と言う」


 グリムの片目が冷たく光った。


「では、対等にしよう」


 グリムが右手を挙げた。蟲人族の護衛が一歩前に出る。


 護衛の肩が裂けた。


 音はなかった。硬い殻が横に割れ、中から白い蟲が這い出してくる。人の手のひらほどの大きさ。複数の目がナギを見つめていた。甘い腐臭が漂う。


「これが蟲人族の本体だ。外殻は器にすぎない。この幼蟲が魔物の体内に入ることができる。ゴブリン、オーク、森狼族。中から操れる。宿主の意識はあるが、身体が言うことを聞かない。自分の体の中で、ただ見ているだけだ」


 白い蟲が殻に戻っていく。裂け目の痕跡すら残らなかった。


 ナギの拳が握りしめられた。爪が掌に食い込む。


「脅迫じゃないか」


「いや、これは情報提供だ。三日後に、お前の仲間の誰かがおかしな行動を取る。止められるかどうかは、お前次第だ」


 ナギは一歩踏み出した。グリムとの距離が詰まる。崖の縁が近い。


「繋ぐ力を舐めるな。俺が五族を繋いだ。お前たちが千年かけてもできなかったことを、俺は半年でやった」


 グリムの唇が歪んだ。笑みではない。歯を噛みしめた痕だ。


「三日だ」


 グリムは踵を返した。蟲人族の護衛が影のように続く。崖を下りていく三つの影が赤土に長く伸びた。


 ナギが一人残された。夕日が丘陵を燃やしている。拳を開くと、爪の跡が掌に赤い三日月を描いていた。


 寄生。操作。内側から壊す。


 リーナが解読した手記の言葉が頭を巡った。「第二に内部に離反者を作る」。その方法が、これだった。


 セリアが見張り台から降りてきた。赤銅色の髪が風に揺れている。


「グリムと何話してたの。顔色、悪いよ」


「厄介なことになった」


 ナギはセリアに全てを話した。蟲人族の本体。寄生能力。三日後の脅迫。


 セリアの緑の目が大きく見開かれた。弓を握る手が白くなっている。


「追い出すべきじゃない?」


「追い出しても、もう手遅れかもしれない。商団が里にいた間に、既に仕込まれている可能性がある」


 セリアの顔から血の気が引いた。唾を飲み込む音が聞こえた。


「じゃあ、あたしたちの中にも?」


「わからない。だからまず、ファングに嗅いでもらう」


 ナギは空を見上げた。赤い残照が消えかけている。灰嶺の向こうに星が一つ、白く光っていた。


 三日。三日で何ができる。


 答えはまだ見えなかった。だが、立ち止まっている暇はない。

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