千年の因縁
「グリムさん。灰嶺に行きませんか」
朝の石卓。ナギは穏やかな声で切り出した。四者会議の前に、先に手を打つ。
グリムの片目が瞬いた。笑顔は崩れないが、眼帯の下の傷跡が微かに引きつった。
「灰嶺、ですか。竜の棲む山と聞いていますが」
「ああ。ヴァルナザドールに会ってほしい。この里の守護者だ。取引相手として信用するなら、竜にも挨拶するのが筋だろう」
「なるほど。ぜひお願いしたい」
迷いがなかった。竜と聞いて怯む素振りもない。普通の商人なら顔色が変わる。グリムは変わらなかった。ナギはそこを見ていた。
トルクが大剣を背負って同行した。セリアは里に残る。朝一番で北の森の偵察に出ている。
* * *
灰嶺への山道。岩肌に暗翡翠色の爪痕が刻まれている。竜の通り道の目印だ。
グリムは杖をついて登っている。足取りは安定し、息も切れない。蟲人族の護衛二体が無言で後に続く。
「ナギ殿。竜と話ができるのですか」
「ああ。契約がある」
「契約。興味深いですな」
声の質が変わった。微かに。商人の口調から、探る者の声に。ナギは気づいていたが、振り返らなかった。
洞窟の前に出た。ヴァルナザドールが待っていた。暗翡翠色の鱗が午前の光を受け、深い緑に輝いている。全長三十歩。頭部だけでナギの身長を超える。
グリムが足を止めた。
笑顔が消えた。
だが浮かんだのは恐怖ではなかった。認識だ。この竜を知っている目。見たことがある目。
ヴァルナザドールの琥珀の瞳がグリムを見下ろした。千年の記憶を持つ目が暗く沈んだ。
【牙の末裔がよくも我の前に来られたものだ】
竜の声が洞窟に反響した。岩が震える。
ナギはグリムの方を向いた。
「グリム。ヴァルナザドールがあんたに聞きたいことがあるそうだ。俺が通訳する」
「結構ですよ。何なりと」
薄い笑み。だが目が笑っていない。
「竜が言っている。『お前たちが千年間やってきたのは仲介ではなく支配だ。魔物の集落に入り込み、経済を握り、意のままに操る。それがお前たちの仲介だ』と」
グリムの笑顔が凍った。完全に消えた。眼帯の下の傷跡が蒼白になる。口元が一文字に結ばれた。
「支配、ですか」
声は静かだった。低く、感情を押し殺した声。
「竜がそう言うのなら、否定はしません。千年前の先祖は確かに、自分たちの利益のために魔物と人間の関係を管理した」
「管理じゃない。竜を殺した。契約の竜を。架け橋の一族を追い詰めた」
グリムの片目がナギを射抜いた。商人でも仲介者でもない。戦う者の目。
「千年前の先祖の罪は否定しない。だが我々は変わった。この交易がその証明だ」
ヴァルナザドールが低く唸った。洞窟の壁が震え、岩の破片がパラパラと落ちる。
【嘘だ。変わったのは手段だけ。目的は変わっていない】
ナギはその言葉を通訳しなかった。代わりに自分の言葉で切り込んだ。
「グリム。一つだけ答えてくれ。あんたの護衛の蟲人族が昨夜、北の森で光通信を行った。応答は北方3から5キロの地点から来た。商団は四人と護衛四体だけじゃないだろう。北に何がいる」
グリムの顔が変わった。片目の奥に冷たい光が灯った。
「ナギ殿。あなたは思った以上に厄介だ」
穏やかな商人の仮面を脱いだ声。硬く、低く、刃物のような声。
トルクが大剣の柄に手をかけた。蟲人族の護衛二体が同時に前に出た。ヴァルナザドールが首を持ち上げ、口の奥で炎が揺れた。
「動くな」
ナギが両手を上げた。全員に向けて。
「ここで戦闘になったら全員死ぬ。竜の前で蟲人族が動けば、ヴァルナザドールが焼く」
長い沈黙。竜の呼吸だけが洞窟に響いている。やがてグリムが右手を上げた。護衛が後退した。
「次にお会いする時は、もう少し丁寧にしていただきたいものだ」
グリムが背を向けた。杖をつきながら山道を下りていく。
ナギは動かなかった。ヴァルナザドールの琥珀の瞳がグリムの背を見送っている。
【あの男は竜を恐れていない。恐れていないということは、竜を倒す手段を知っているということだ】
「ああ」
【そして繋ぐ者よ。あの男は末端だ。牙の商団を動かしている者は別にいる】
ナギの足が止まった。
「別に?」
【千年前、我が同胞を殺した戦争の後、牙の者どもは一つの誓いを立てた。架け橋の血を絶やし、魔物語を永久に封じると。お前の先祖はその追跡から逃れた。だが逃げ切れたわけではなかった。200年前の獣語りの乱。あれは牙の者どもが仕組んだものだ】
竜の声が低くなった。千年の記憶の底から、重い言葉が這い出す。
【架け橋の一族を裏切り者に仕立て上げるための陰謀だった。証拠の偽造、証人の買収。イルザはそれに気づいたが、もう遅かった】
獣語りの乱が陰謀だった。ナギが追放された根拠となった歴史そのものが、作られたものだった。
ナギの拳が白くなるほど握りしめられた。
「俺の追放も、元を辿ればそこに繋がるのか」
【そうだ。お前を追放した軍人も改竄された歴史を信じている。牙が千年かけて作り上げた嘘の上に、お前の不遇は立っている】
「ヴァルナザドール。力を貸してくれ」
【我は千年前に同胞を失い、200年前にイルザを失った。三度目は許さぬ。だが忘れるな。竜の力は炎だ。焼くことはできるが、繋ぐことはできぬ。それはお前の仕事だ】
* * *
山を下りた。トルクと並んで獣道を歩く。木漏れ日が足元に斑模様を描いている。
「あの商人、腹が据わってるな。竜を前にして退かなかった」
「ああ。竜を殺した一族の末裔だ」
「そういう連中が一番厄介だ。竜を前にして退かない奴は、死なないと止まらない」
「止める。殺さずに。それが交渉者の仕事だ」
「お前らしい答えだ」
「どうする、って顔してるな」
「してるさ。で、どうする」
「会議で全部出す」
里の門が見えてきた。セリアが門の前に座っていた。赤銅色の髪に枯れ葉がついている。朝から森を走り回った痕だ。
「見つけた。北の森の渓流手前に野営跡。蟲人族の足跡、少なくとも六体分」
「六体」
「足の圧痕の大きさが微妙に違う。個体が六ついる」
グリムの護衛が四体、北に六体。計十体。商団の規模を遥かに超えている。
ナギはセリアに灰嶺での出来事を話した。砦の廊下を歩きながら。窓から午後の光が差し込んでいる。牙の誓い。獣語りの乱の真相。グリムが末端であること。
セリアは黙って聞いていた。
廊下の角で、セリアの手が伸びた。ナギの右手を両手で包み込んだ。
猟師の手だ。弓弦を引き続けた指の硬さ。だがその硬い指が、今はナギの手を温めるように握っている。
「あんたは一人で抱え込みすぎ。あたしにも背負わせて」
声が低かった。緑の目がナギを見ている。
「……正直、怖い。架け橋の末裔なんて言われても、俺はただの追放者だ。千年の因縁を背負える器じゃない」
初めて弱音を吐いた。セリアの目に怒りも同情もなかった。ただ真っ直ぐに見ている。
「追放者だったから、ここにいるんでしょ。器が足りないなら、あたしが横で支える。トルクもファングもリーナもいる。一人の器で足りなきゃ、全員で合わせればいい」
ナギはセリアの手を握り返した。冷たかった指先に、少しずつ熱が戻っていく。
「ありがとう」
「お礼は全部終わってからにして」
セリアが手を離した。頬に色が差していた。窓からの光だけではない色。
「会議の準備、手伝う。ファングに伝令出してくる」
セリアの背中が廊下の角に消えた。握られた手の温もりが残っている。
ナギは窓の外を見た。ファングの群れの遠吠えが響いている。
会議まであと数時間。同盟の命運が、そこで決まる。




