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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
裏切りの牙

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血の記憶

「初代が魔物の王と契約を結んだ」


 リーナが手記の中盤を読み上げた。応接間の机に広げられた革装丁の手記。イルザの文字は細かいが、丁寧だった。一文字ずつ刻むように書かれている。追われる身でありながら、記録を残すことをやめなかった人の字だ。


「『魔物語は単なるスキルではない。我が一族の血に刻まれた力だ。初代が魔物の王と契約を結び、全ての魔物の言葉を理解する力を血に受けた。代償として、一族は人間と魔物の間に立ち続ける宿命を負った。我らが架け橋と呼ばれる所以だ』」


 ナギは息を止めていた。


 魔物の王。契約。血に刻まれた力。


 リーナが顔を上げた。


「ナギさん、これって……魔物語は生まれつきのスキルじゃなくて、血統で受け継がれる契約だったんですね」


「ああ。だから俺にだけ発現した。架け橋の血を引いているから」


 セリアが壁際に立って腕を組んでいた。緑の目がナギを見ている。


「魔物の王って、誰のことだろ」


「わからない。手記にはそれ以上の記述がない。リーナ、他に何か書いてあるか」


 リーナがページをめくった。


「『初代の契約相手は竜だったと伝えられている。竜族の中で最も古い個体。それ以上のことは、我が一族にも伝わっていない。口伝が途絶えたのだ。追われ続ける中で、多くの知識が失われた』」


 契約相手は竜。ナギの脳裏にヴァルナザドールの琥珀色の瞳が浮かんだ。


「竜に聞けばわかるかもしれない」


 トルクが顎を引いた。


「灰嶺に行くのか」


「ああ。手記を持って。ヴァルナザドールは千年を生きている。初代の架け橋を知っているかもしれない」


* * *


 午後。ナギは灰嶺に向かった。セリアとトルクが同行する。手記を革袋に入れて背負い、腰にはイルザの短剣を差していた。


 灰嶺の麓から頂上までは半日の道のりだが、ナギは根源的魔物語で呼びかけた。声は山を越えて届く。ヴァルナザドールが応じた。


【来い。洞窟の前で待つ】


 山道を登る。岩肌に暗翡翠色の爪痕が刻まれている。竜の通り道の目印だ。


 洞窟の前に出た。ヴァルナザドールが体を起こして待っていた。暗翡翠色の鱗が午後の光を受けて深い緑に輝いている。琥珀の瞳がナギを見た。


【何を持ってきた】


「200年前の架け橋の手記だ。七代目イルザが書いた」


 ナギは手記を広げて竜の前に差し出した。ヴァルナザドールの巨大な目が手記に寄った。一瞥。竜が低く唸った。


【イルザか。覚えている。小柄な女だった。声は静かだが、芯は鉄のように硬かった】


「イルザに会ったことがあるのか」


【ある。200年前、この洞窟に来た。北の穴が開いた時だ。我に助けを求めた。我は炎で穴を焼いた。だがイルザは、その後すぐに消えた。死んだのだろうと思っていた】


「砦で死んだらしい。手記を残して」


 ヴァルナザドールが鼻から蒸気を吐いた。千年の記憶に新しい傷が加わったような、重い吐息だった。


「手記には、初代の架け橋が竜と契約したと書いてあった。魔物の王と」


【その記述は正しい】


 竜の声が低くなった。洞窟の壁に反響し、岩が微かに震える。


【初代の架け橋は、我が同胞と契約した。同胞の名は、もう口にしない。千年前に死んだ名だ】


「初代は、その竜と何を約束した」


【全ての魔物の言葉を理解する力を血に受ける。代わりに、一族は人間と魔物の間に立ち続ける。仲介者として。翻訳者として。争いを防ぐ架け橋として。それが契約だった】


 ナギは唾を飲んだ。


「千年前に何が起きた」


 ヴァルナザドールの琥珀の瞳が暗く沈んだ。


【牙の者どもが現れた。当時は商団ではなく、武装集団だった。彼らは人間と魔物が繋がることを恐れた。魔物と対話する人間が現れれば、魔物を一方的に利用する構造が崩れる。牙の者どもにとって、架け橋は邪魔な存在だった】


「それで」


【契約の竜を殺した。架け橋の契約相手を。殺せば契約が途絶えると考えたのだろう。だが血に刻まれた力は消えなかった。初代の血を引く者に、魔物語は受け継がれ続けた】


 セリアが息を呑む音が聞こえた。トルクは黙って立っている。大剣の柄を握る手だけが白くなっていた。


「それが『裏切り』か」


【そうだ。契約の竜を殺し、架け橋の一族を追い、魔物と人間を分断した。千年かけて、牙の者どもは魔物を人間の敵に仕立て上げた。獣語りの乱もその一環だ。架け橋を裏切り者に見せかけるための陰謀だった】


 ナギの頭の中で、断片が繋がっていった。


 千年前の竜殺し。架け橋の迫害。二百年前の獣語りの乱。そして今、牙の商団が五族の里に現れた。


「グリムは知っているのか。俺が架け橋の末裔だと」


【知っているだろう。牙の者どもが千年間追い続けてきた血筋だ。お前が魔物語を使った時点で、気づいたはずだ】


「なら、商団が里に来た理由は交易じゃない」


【当然だ。繋ぐ者よ。お前を殺すか、利用するか。そのどちらかが目的だろう】


 ナギは手記を革袋に戻した。指先が冷たい。山の空気のせいだけではなかった。


「ヴァルナザドール。もう一つ聞きたい」


【何だ】


「俺の母。ハルナという名の女だった。架け橋の血筋か」


 竜が長く沈黙した。琥珀の瞳が遠くを見ている。千年の記憶を遡っているのか。やがて、ゆっくりと口を開いた。


【200年前。イルザは子供を辺境の民に預けた。追手から守るために。その子の系譜は、我の知る限り途絶えていなかった。だが魔物語のスキルは数世代に一度しか発現しない。隔世遺伝のようなものだ。お前の母がスキルを持っていたかは知らぬ。だが血は繋がっている可能性がある】


「可能性か」


【確証が欲しければ、手記の続きを読め。イルザは自分の子をどの村に預けたか記しているかもしれぬ。それが辺境の、お前が育った村の近くであれば】


 ナギは頷いた。手記の解読を急がなければならない。


* * *


 灰嶺を降り、里に戻ったのは夕暮れ時だった。


 里が騒がしかった。普段と違う空気が広場に漂っている。ゴブリンたちが走り回り、オークの戦士が荷台から鉄鉱石を下ろしている。


 グリムの試験取引が成功していた。


 ナギが留守の間に、グリムは約束通り鉄鉱石と布を届けた。ゴブリンのキノコとオークのナイフは既に馬車に積み込まれている。品質に問題はなかった。量も契約通りだ。


 ゴルドが上機嫌でナギの前に来た。


【ナギよ、見よ! 上等な鉄じゃ。ボルガの奴、もう鍛冶場で試し打ちしておるわ】


 ボルガも満足げだった。片牙が上がっている。寡黙なオークがここまで表情を見せるのは珍しい。


【良い鉄だ。不純物が少ない。中部産の上物だ】


 グリムは馬車の脇に立ち、柔和な笑顔でナギに頭を下げた。


「お約束の品です。ご確認ください。次の取引では、もう少し規模を大きくしていただけると嬉しいですね」


 ナギは笑顔を返した。腹の中は氷のように冷えていたが、顔には出さなかった。


「ああ。良い品だ。ありがとう」


 グリムが去った後、ナギは広場を横切ろうとした。


 そこに、蒼い毛並みの影が立ちはだかった。


 ファングだ。森狼族の長。額の蒼い紋様が薄闇の中で浮かび上がっている。金色の目がナギを射抜いた。


【ナギ。あの商人から嘘の匂いがした】


 ナギは足を止めた。


「嘘?」


【小さな嘘ではない。大きな嘘だ。取引の裏に何かを隠している。品物は本物だ。鉄も布も嘘はない。だが、あの男自身が大きな嘘を抱えている。身体中から匂う。特に、お前に向けて話す時に濃くなる】


 ファングの鼻は間違えない。嘘をつく者の匂いを嗅ぎ分ける森狼族の能力。それは魔物語以上に確実な嘘発見器だ。


「どんな匂いだ」


【腐った花の匂いだ。甘くて、だが奥が腐っている。あの男は、お前に対して何か大きな嘘をついている。取引そのものは真実だ。だが取引の目的が嘘だ】


 取引の目的が嘘。交易のためではなく、別の目的のために来ている。


 ナギは握った拳の中で、イルザの短剣の感触を確かめた。腰に差した架け橋の遺産。橋と人と獣の紋章。千年前に分岐した、繋ぐ者の証。


 ヴァルナザドールの言葉が蘇った。「お前を殺すか、利用するか。そのどちらかが目的だろう」


 ファングの警告が、その言葉を裏付けた。


 ナギはファングの額の紋様を見つめた。


「ファング。もう少し泳がせる。だが群れには警戒を続けてくれ。あの商人の護衛の蟲人族にも、常に鼻を向けておいてほしい」


【わかった。だがナギ。長くは泳がせるな。腐った匂いは、放っておけば周りまで腐らせる】


 ナギは頷いた。ファングの忠告は正しい。猶予はそう長くない。


 広場では、ゴルドたちが取引の成功を祝って酒を出し始めていた。ゴブリンの子供たちが新しい布を触って歓声を上げている。ボルガの鍛冶場から金属を打つ音が響いている。


 里は潤い始めた。商団がもたらした利益は本物だ。


 だがその利益の裏に、何が隠されているのか。


 ナギは自室に戻り、手記を開いた。イルザの文字を追う。答えはこの中にある。架け橋の血の意味。母ハルナの正体。そして、牙の商団が本当に求めているもの。


 松明の炎が揺れた。窓の外で、ファングの群れの低い遠吠えが聞こえた。警戒の声だ。里を守る声。


 ナギは読み続けた。夜が更けるまで。

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