共有の夜
「千年前に竜を殺した、か」
ナギは砦の応接間で壁にもたれていた。グリムの告白から一晩が経った。千年前の竜族同士の戦争。牙の商団の先祖は、片方の竜族を滅ぼす手助けをした。ヴァルナザドールが「裏切り者」と呼んだ紋章の意味。それがようやく繋がった。
トルクが腕を組んで座っている。大剣を壁に立てかけたまま、黙って聞いていた。
「で、どうする」
「千年前の罪で今の商団を裁くのか。正直、筋が通らないと思う」
「同感だ。だが今のこいつらが何をしようとしてるかは別の話だろ」
正論だ。ナギは頷いた。
「泳がせつつ、試す。条件付きの試験取引を持ちかける」
「条件は?」
「小規模な交易を一度だけ。品目はこちらが指定する。ゴブリンのキノコとオークの小型ナイフ。見返りは鉄鉱石と中部産の布」
トルクが眉を上げた。
「わざと利幅の小さい品を選ぶのか」
「ああ。利益が出なくても構わない。見たいのは、こいつらが取引の過程で何をするかだ。品物に細工がないか。運搬の経路に不審な動きがないか。護衛の蟲人族が商品に触れるかどうか」
「観察するための取引ってことか」
「そう。交渉者にとっての試験取引は、情報を買うための投資だ」
トルクは鼻を鳴らした。
「相変わらず回りくどいな。だが嫌いじゃない」
ナギはゴルドとボルガにも伝えに行った。ゴルドは耳の骨飾りを揺らしながら首を傾げた。
【試験取引じゃと? わざわざ儲からん取引をするのか】
「信用の値段を計るためだ。最初から大きく張る必要はない」
【ふむ。人間の商売は回りくどいのう。じゃが、損が出ぬなら構わん】
ボルガは片牙を見せた。
【小型ナイフ10本か。半日で打てる。問題ない】
四者の了承を取り付けた。ファングの群れには、取引の間の警戒強化を頼んだ。スライムの群体知性には、商団の馬車周辺のデータ収集を継続するよう指示した。
* * *
午前中にグリムを呼んだ。
「グリムさん。条件を出す」
グリムは柔和な笑顔で椅子に座った。右目の眼帯が松明の光に照らされている。傍らに蟲人族の護衛が一体、微動だにせず立っていた。
「おや、もう結論ですか。早いですね」
「試験取引をやりたい。まず一度だけ、小規模で。品目はこちらが決める」
「構いませんよ。何を?」
「キノコ20束と小型ナイフ10本。見返りに鉄鉱石1箱と布10反」
グリムの目が一瞬だけ細くなった。利幅が小さいことに気づいたのだろう。だがすぐに笑顔に戻った。
「結構です。信頼は小さなところから積み上げるもの。ナギ殿の慎重さは美徳ですな」
握手。グリムの手は乾いていて、指の皮が硬かった。商人の手ではない。何かを握り続けてきた手。剣か。筆か。
「準備に二日いただきます。荷を整えますので」
「わかった。二日後に交換する」
グリムが部屋を出ていく。蟲人族の護衛が無言でその後に続いた。護衛の硬質な肌が松明の光を鈍く反射する。
ナギは握手した右手を見つめた。グリムの体温を思い出す。冷たくはなかった。だが温もりも感じなかった。
* * *
夕方。砦の裏手にある井戸のそばで、セリアがナギを待っていた。
弓の弦を張り替えながら、足を投げ出して座っている。赤銅色の髪が夕日に染まって、普段より赤く見えた。背後では広場からゴブリンの子供たちの笑い声が聞こえる。祝宴の余韻がまだ残っている。
「商人との話、どうだったの」
「試験取引を受けてもらった。二日後に交換する」
「ふうん」
セリアは弦の張りを確かめ、何度か指で弾いた。乾いた音が井戸の石壁に跳ね返る。
「ねえ」
「何だ」
「あんたの母さんのこと。もっと調べないの?」
ナギの手が止まった。
「繋ぐ者って名前の意味は聞いた。でも、母さんがなんでその名前をつけたのか、なんであんたに魔物語が出たのか。わかってないんでしょ」
「……ああ」
「調べないの」
ナギは黙った。母ハルナのことは覚えている。幼い頃に死んだ。顔はぼんやりとしか思い出せない。だが声は覚えている。低くて、穏やかで、少しだけ寂しそうな声。
「ナギ、お前は人の言葉だけじゃなくて、もっとたくさんの声が聞こえる子だよ」
幼い頃に言われた。その意味を理解したのは、ずっと後のことだった。
セリアが弓を膝に置いた。緑色の瞳がナギを真っ直ぐに見ている。
「あたしは父さんのこと、最後まで調べた」
三年前。セリアの父は魔物に殺されたとされている。だが真相は違った。人間の密猟者が魔物を挑発し、その巻き添えで命を落とした。セリアはその真相を自分で掘り起こした。
「村の人たちは誰も教えてくれなかった。あたしが一人で猟場跡を歩いて、密猟者の痕跡を見つけて、狩人仲間に問い詰めて。半年かかった」
「辛かっただろ」
「辛かったよ。途中で何度もやめようと思った」
セリアの声が少し低くなった。
「知るのが怖かった。父さんが実は悪い人だったらどうしようって。でも」
セリアの緑の目がナギを見た。
「知らないままの方がずっと怖い」
風が吹いた。井戸の滑車がきしんだ。遠くでファングの群れが夕暮れの遠吠えを上げている。
「あんたの母さんが何者だったか知ったところで、あんたが変わるわけじゃないでしょ。ナギはナギだし」
「……そうだな」
「でも知らないままだと、ずっと引っかかる。あたしがそうだったから。知った後は、ちゃんと前を向けた」
ナギはセリアの横に腰を下ろした。石壁が背中に冷たい。だがセリアの隣は、不思議と温かかった。肩が触れそうで触れない距離。
「調べてみるよ」
「うん」
「お前が背中を押してくれるなら」
セリアの頬に赤みが差した。夕日のせいだけではなかった。
「べ、別に背中を押したわけじゃ。事実を言っただけだから」
「事実が一番効くんだ。交渉者としてはよく知ってる」
「うるさい」
セリアが肘でナギの脇腹を突いた。ナギは笑った。二人の間に、温かい沈黙が落ちた。
夕日が丘陵の向こうに沈みかけている。空が赤から紫に変わる。セリアの赤銅色の髪が薄暗がりの中でもほのかに光っていた。
「ありがとう」
ナギが小さく言った。セリアは何も答えず、ただ少しだけナギの方に肩を寄せた。
* * *
深夜。砦の地下。
石板のある部屋に、ナギは一人で降りた。松明を一本だけ持って。足元の石段が湿っていて、靴底が滑る。
石板は以前スライムの粘液で洗浄した。表面の文字は読み取り済みだ。二百年前の架け橋が刻んだ記録。裏面も粘液で洗浄済みだったが、目立った刻印は見つからなかった。
ナギは石板の裏に回った。松明を正面から当てる。
やはり何もない。灰色の石の表面がのっぺりと広がっているだけ。
ふと、松明を下から斜めに当てた。光が石の表面を舐めるように這った。
文字が浮かんだ。
極小の刻印。爪先で引っ掻いたような細さ。松明を正面から当てると影が消えて見えないが、斜めに光を当てると微かな凹凸が文字になる。意図的に隠された刻印だ。
ナギは膝をつき、松明の角度を保ちながら一文字ずつ読んだ。
『我が名はイルザ。架け橋の一族の最後の一人』
架け橋の一族。ナギの胸が早鳴りした。
『この砦を次なる架け橋に託す』
次なる架け橋。二百年前のイルザは、いつか自分の後に架け橋が現れることを信じていた。
『もし読んでいるのが我が血を引く者なら』
ナギは唾を飲んだ。
『北の間に隠した箱を探せ』
北の間。砦の北側の部屋。何度も通っている場所だ。倉庫として使っている部屋。壁には棚を置き、ゴブリンのキノコの干物やオークのナイフの在庫を並べている。
その裏に、二百年間誰にも見つかっていない箱がある。
ナギの指が震えた。松明の炎が揺れ、影が壁を這った。地下の冷たい空気が首筋を撫でる。
『我が血を引く者なら』
ナギは自分の手を見た。この手で魔物の言葉を紡いできた。ゴブリンと握手し、オークと腕を交わし、スライムに触れ、狼の首を撫でた手。この血に、何が刻まれているのか。
母の声が蘇った。「お前は人の言葉だけじゃなくて、もっとたくさんの声が聞こえる子だよ」
松明を掲げ、地下から階段を上がった。足音が石壁に反響する。
北の間。今夜はまだ行かない。明日、トルクと一緒に調べる。一人で開けるには重すぎる扉かもしれないし、罠があるかもしれない。二百年間隠し続けた箱だ。簡単には開けさせないだろう。
ナギは自室に戻り、寝台に横になった。天井の石が松明の残り火で赤く揺れている。窓の外から夜風が吹き込み、遠くでフクロウの声がした。
セリアの言葉が頭に残っていた。
「知らないままの方がずっと怖い」
ナギは目を閉じた。明日、箱を開ける。母のことを、知りに行く。




