将軍の眼
王都セルディオン。将軍府の書斎。
ガレス将軍は机の上に広げられた二通の報告書を交互に見つめていた。一通はヴェルクの。もう一通はレイスの。同じ集落について書かれた二通の報告が、食い違っている。
ヴェルクの報告書は淡々としていた。『橋守の里と協定を締結。辺境の自治集落として監視下に置いた。竜一体を含む五種族が同盟を形成。集落の戦力は推定で正規軍200名相当。制圧は不合理と判断した』。
レイスの報告書は、もう少し踏み込んでいた。『追放者ナギは魔物語のスキルにより五種族の通訳と仲裁を担っている。集落の経済基盤は三者循環型の自給体制。辺境の村ハグレとの交易も開始。竜は推定全長30m。単体での戦闘力は正規軍一個師団に匹敵する可能性がある。ナギの統制下にあると推測されるが、竜が独自の意思を持つことは確実であり、統制の限界は不明』。
将軍は顎を撫でた。白髪交じりの短髪が窓からの光に照らされている。鷹のような目が報告書の行間を読んでいた。
「レイス」
書斎の隅に立っていたレイスが一歩前に出た。
「はい、将軍」
「この追放者ナギ。お前はどう見る」
レイスの表情は変わらなかった。羊皮紙の束を手にしたまま、淡々と答えた。
「有能です。魔物語のスキルだけではなく、交渉能力が高い。100名の兵を前にして、ヴェルク隊長を交渉の席に引きずり出しました。戦闘力はありませんが、そもそも戦闘を必要としない男です」
「討伐すべきか」
「不合理です。討伐すれば竜が敵対する。竜が敵対すれば辺境の村が壊滅する。王国は辺境を失います」
将軍が椅子の背にもたれた。木が軋む音。
「では利用するか」
「利用の方が得策です。ナギの集落が辺境の魔物を統制している限り、辺境は安定します。監視を続けながら、必要な時に協力を求める形が最も合理的かと」
「ヴェルクを辺境監視官に任命する。あの男は追放者ナギに恩義がある。その負い目を利用できる」
レイスが僅かに眉を動かした。だが口を開かなかった。
「何か言いたいことがあるなら言え。レイス」
「恩義ではありません、将軍。ヴェルクがナギに対して抱いているのは負い目です。五年前にナギを追放したことへの。その負い目は、利用できる一方で、制御が難しい。ヴェルクが独断で行動する可能性があります」
「独断?」
「ナギに同情して、王国の指示に背く可能性です」
将軍の目が鋭くなった。
「ヴェルクはそこまで愚かではないだろう」
「愚かさの問題ではなく、感情の問題です。追放した相手が成功している。それを監視しろと命じられる。ヴェルクの自尊心がどう反応するか、予測が難しい」
将軍は黙って報告書を閉じた。
「もう一つ。レイス、この報告書の末尾に書いた『要注意事項』について聞く」
レイスが頷いた。
「橋守の里に出入りする商団を確認しました。小規模な行商に見えますが、旗に紋章がありました。紺色の布に銀の紋章。円形の中に牙と角が交差したデザインです」
将軍の手が止まった。顎を撫でていた指が固まる。
「それは牙の紋章か」
「ご存じですか」
将軍が立ち上がった。書棚に向かい、奥の段から古い革装丁の記録簿を引き出した。二百年分の埃が舞った。
「獣語りの乱。二百年前の記録だ。辺境で魔物と意思疎通できる者たちが反乱を起こした、とされている。だが記録を精査すると、不自然な点が多い。反乱の原因が明確に記されていない。そして記録の余白に、牙の紋章に類似した家紋を持つ軍務省の記録管理官の名がある」
レイスの目が僅かに見開かれた。
「獣語りの乱に、牙の紋章を持つ勢力が関わっていた、と」
「関わっていた、どころではない。暗躍していた可能性がある。儂が若い頃に先代の将軍から聞いた話だ。『牙の紋章を見たら警戒せよ。あれは王国の味方ではない』と」
将軍が記録簿を机に置いた。
「レイス。この商団の動きを調べろ。橋守の里での目的、構成員、蟲人族との関係。ヴェルクには伝えるな。あの男は感情に揺れやすい」
「了解しました」
レイスが一礼して書斎を出ようとした。
「レイス」
将軍が呼び止めた。
「あの追放者ナギ。お前の報告書に書いてあった一文が引っかかる。『交渉は対等でなければ成立しない。ナギはそう言った』。あの男は本気でそう思っているのか」
「本気です。魔物に対してもそうです。ゴブリン、オーク、スライム、森狼族。すべてに対等な立場で交渉している。だからこそ五種族が同盟したのだと思います」
「対等な交渉者か。面白い男だ」
将軍が窓の外を見た。王都の尖塔の向こうに、辺境の山並みが霞んでいる。
「討伐で解決するなら二百年前に終わっている。頭を使え、ということだ」
独り言のように呟いて、将軍は記録簿に目を戻した。
* * *
橋守の里。商団の滞在三日目。
グリムがナギを石卓に呼んだ。三日間の交渉猶予の最終日。ゴルドとボルガも同席している。ファングは里の外から監視していた。
「ナギ殿。三日間、お時間をいただきありがとうございました。いかがでしょう。条件にご納得いただけましたか」
ナギは椅子に座ったまま、グリムの片目を見つめた。
「条件そのものは悪くない。だが一つ聞きたいことがある」
「何なりと」
「あんたは本当に商人か」
グリムの笑顔が揺れなかった。だが片目の奥で何かが動いた。
「商人ですよ。それ以外の何に見えますか」
「仲介者に見える」
間。
グリムの笑顔が変わった。口元だけの笑いが消え、片目の光が鋭くなった。ほんの一瞬。だがナギはそれを見逃さなかった。
「ナギ殿は鋭いですな」
グリムが姿勢を正した。杖を膝の上に置き、ナギを正面から見つめた。
「実は、そのとおりです。我々は単なる商人ではない。大陸各地の魔物集落と人間社会を繋ぐ仲介者です。あなたと同じ志を持つ者だ」
同じ志。ナギの胃が冷えた。
この男が「同じ志」と言う時、その言葉は何を意味しているのか。
「仲介者だというなら、あの旗の意味を教えてくれ」
ナギの声が低くなった。
「ヴァルナザドールは、あの紋章を『裏切り者の印』と呼んだ。竜があの旗を見て激昂した。千年前に竜の同胞を殺した者たちの旗だと」
グリムの笑顔が消えた。
完全に。
右目の眼帯の下、傷跡が引きつるのが見えた。頬の筋肉が緊張し、左目の瞳が収縮した。
「竜がそう呼ぶのも無理はない」
グリムの声が変わっていた。穏やかな商人の声ではない。低く、硬い声。
「千年前、我らの先祖は竜族同士の戦争に加担した。片方の竜族に味方し、もう片方を滅ぼす手助けをした」
ゴルドとボルガが動いた。二人ともナギの通訳を待っている。だがナギは通訳を止めていた。この言葉は、まず自分が受け止めなければならない。
「それが『裏切り』の始まりです。千年前の罪を、我々は今も背負っている」
千年前の竜族同士の戦争。ヴァルナザドールが言った「同胞の多くが死んだ」出来事。あの竜が灰嶺で千年の孤独を過ごすことになった原因。
牙の商団は、その戦争の当事者の末裔だった。
ゴルドが杖を突いて立ち上がった。
【ナギ。何を言っておるんじゃ、この男は。顔色が変わっておるぞ】
「後で話す。今は黙っていてくれ」
ゴルドは口を閉じたが、骨飾りを握る手が白くなっていた。長老の勘が警告を発しているのだ。
「ナギ殿。我々は償いのために活動しています。だからこそ、あなたのような存在を探していた。魔物と人間を繋ぐ者を」
ナギは答えなかった。
償い。千年前の罪の償い。
本当か。
スライムの分析が脳裏に蘇った。条件が良すぎる。利益率が不自然。
そして、蟲人族の声。「女王の命」。「報告対象の確認中」。
償いを語る男の馬車の底に、毒が隠されている。
「グリム。今日のところは持ち帰らせてくれ。仲間と相談する」
「もちろんです。お急ぎにならず」
グリムが笑顔に戻った。口元だけの笑い。
ナギは立ち上がった。背を向けた瞬間、グリムの視線が刺さるのを感じた。品定めの視線だ。獲物を測る目。
ナギは振り返らなかった。
振り返れば、自分の手が震えていることを見られる。




