蟲の言葉
「スライム。昨夜の分析結果は出たか」
朝靄の中、ナギはスライムの出張所に手を置いた。冷たい粘液が指先に纏わりつく。概念が流れ込んできた。
【分析完了。荷台の下部に二重底を確認。通常の積荷の下に密閉された容器がある。内容物の化学組成は不完全だが、魔素に干渉する成分を含む。詳細な特定には直接接触が必要】
やはり。リーナの嗅覚は正しかった。
だが今のナギには、もう一つ気になることがある。蟲人族だ。魔物語が通じない理由を突き止めなければ、あの護衛に対して何もできない。
「スライム。昨夜、蟲人族の護衛に接触したか」
【試みた。群体の末端を地中経由で護衛の足元まで伸ばし、化学的分析を実施。結果、興味深いデータが得られた】
「聞かせてくれ」
【蟲人族の体表から微量の化学物質が放出されている。組成は複雑だが、パターンがある。これは情報伝達物質と推定される。蟲人族は音声や振動ではなく、化学信号で意思疎通している。フェロモン体系だ】
フェロモン。化学物質による情報伝達。
ナギの魔物語は、音声と概念の領域に特化している。ゴブリンの甲高い声、オークの低い振動、スライムの概念通信、ファングの獣の息遣い。すべて「聞こえる」か「感じる」ものだった。
だがフェロモンは「嗅ぐ」ものだ。ナギの魔物語の回線には載らない。言語の壁ではなく、通信方式そのものが違う。
トルクが横で腕を組んでいた。
「化学信号、というのは要するに匂いか」
「匂いに近い。だが人間の鼻では嗅ぎ取れないレベルの化学物質だ」
「厄介だな」
「ああ。かなり厄介だ」
「だから接続できなかったのか」
【正確には、接続の経路が異なる。音声・概念の経路では到達できないが、化学信号の経路でならば接触可能。ただし、ナギの魔物語は化学信号を直接処理できない】
「つまり、俺一人では蟲人族と話せない」
【そのとおり。だが群体知性を中継すれば、間接的に意味を拾える可能性がある。群体知性は化学信号を処理できる。蟲人族のフェロモンを群体知性が受信し、概念に変換し、ナギに伝達する。三段階の中継だ】
三段階の中継。精度は落ちるだろう。だが何も聞こえないよりはましだ。
「やれるか」
【可能。ただし条件がある。群体知性の出張所を蟲人族の近くに配置する必要がある。フェロモンの到達距離は限られている】
ナギは考えた。蟲人族の護衛は門の外にいる。スライムの出張所を門の近くに移動させれば、射程に入るかもしれない。
「リーナ」
薬師見習いが振り向いた。
「スライムの粘液サンプルを採取したいと言ってたな。門の近くでやってくれ。自然な理由で出張所を門の外に出す」
リーナの目が光った。
「はい! ちょうど蟲人族の体表からも成分を採取したいと思ってたんです。商人さんに許可を取ってきます」
「許可は俺が取る。お前は準備だけしてくれ」
セリアが弓を手入れしながら声をかけた。
「また危ないことするつもりでしょ」
「危なくない。スライムが中継するだけだ」
「あんたの『危なくない』は信用できないのよ。前回も『話を聞くだけ』って言って100人の軍と対峙したじゃない」
「あれは結果的にうまくいった」
「結果的に、ね」
セリアが弓弦を弾いた。乾いた音が響く。
「あたしは屋根の上にいるから。何かあったら矢を撃つ」
「商人に矢を撃つな」
「護衛の方よ。あの蟲みたいなやつ。動きが気持ち悪い」
ナギは苦笑した。セリアの感覚は直感的だが、大抵正しい。
* * *
グリムは快く応じた。
「薬師殿が研究熱心とは、良い集落ですな。どうぞ、護衛に触れていただいても構いません。彼らは温順ですから」
温順。ナギは内心で首を傾げた。あの黒い複眼の生き物を温順と呼ぶ感覚は、普通の人間のものではない。
リーナが門の外に出て、蟲人族の護衛の一体に近づいた。スライムの出張所が瓶の中で脈動している。リーナの腰に下げられた瓶。その中の群体知性が、蟲人族の体表から漂うフェロモンを受信し始めた。
ナギは門の内側で壁にもたれていた。手を石壁の隙間に差し込み、壁を這うスライムの薄い膜に触れている。出張所との接続。
信号が来た。
ノイズだらけだった。蟲人族のフェロモン信号を群体知性が化学的に分析し、パターンを抽出し、概念に変換する。三段階の処理を経て、ナギの脳に届く情報は断片的で、ぼやけている。
だが、意味の断片が見えた。
【我ら】
ナギの体が強張った。聞こえた。蟲人族の「声」が。
【我ら 契約 遵守】
単語の間に大きな空白がある。文脈を補完できない。だが「契約」と「遵守」。蟲人族は何かの契約に従っている。
【女王の命】
女王。蟲人族には女王がいる。群れを統率する上位の存在。
ナギは額の汗を拭った。頭が痛い。三段階の中継は脳への負荷が大きい。長くは持たない。
【報告 対象 確認中】
報告。対象。確認中。何の対象を確認しているのか。ナギの心臓が速まった。
その時、蟲人族の護衛が一斉に触角を震わせた。四体が同時に。フェロモンの放出量が急増したのか、群体知性が一瞬過負荷を起こした。ナギの手のひらにスライムの膜が熱を持つ感覚。
【傍受検知。通信遮断】
切れた。蟲人族がフェロモンの組成を変えたのだ。傍受されていることに気づいた。
ナギは壁から手を離した。指先が震えている。額に脂汗が浮いていた。
門の外でリーナが蟲人族の護衛から離れた。気づかれたか。ナギはリーナの方を見たが、薬師見習いは平然とサンプル瓶を振っている。演技がうまい。
足音。グリムが笑顔で近づいてきた。
「ナギ殿。我々の護衛に興味がおありですか」
ナギは表情を変えなかった。
「珍しい種族だからな。里にいない魔物は気になる」
「ご安心ください。彼らは蟲人族。大陸北東部の種族です。言葉は通じませんが、忠実な護衛でしてね」
大陸北東部。
ナギの背筋を冷たいものが走った。
北東。北の果て。竜が恐れる「古い穴」がある方角だ。ヴァルナザドールが語った、千年前の脅威の根源。
「北東部か。遠いな」
「ええ、遠いです。だからこそ珍しいのですよ」
グリムの片目が笑っている。だがその奥にある光は、笑いではなかった。
ナギはグリムの顔を見つめた。この男は知っている。蟲人族が何者か。北東部に何があるか。そして、この里に何があるか。
「グリム。あんたは商人だと言ったな」
「ええ。商人ですよ」
「なら、三日後にまた話そう。条件を詰める。それまでは、お互い相手のことを知る時間だ」
「結構です。ナギ殿のやり方に合わせましょう」
グリムが一礼して馬車に戻った。蟲人族の護衛が主人の周囲に寄った。触角が揺れている。ナギには聞こえないが、フェロモンで何かを報告しているのだろう。
ナギは門の内側に戻った。壁にもたれて息を吐いた。
蟲人族の断片的な声が、頭の中で反響している。
「女王の命」。「契約の遵守」。「報告対象の確認中」。
報告の対象は、おそらくナギ自身だ。
そして、蟲人族の出身地は北東部。竜が恐れる方角。千年前の脅威に繋がる土地。
グリムの笑顔の裏に、何が隠されているのか。三日で暴けるか。
ナギは拳を握り、広場に向かった。まずファングに報告だ。狼の鼻なら、フェロモンの変化も嗅ぎ取れるかもしれない。




