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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
裏切りの牙

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牙の旗

「あんたの名は」


 商人は馬車から降り、両手を広げて笑った。武器を持っていない、という意思表示。だが笑顔が目に届いていない。口元だけで笑う男だった。


「グリムと申します。商人です。東方から辺境を巡って参りました」


 中年の男。背丈はナギと同じくらい。黒髪に白い筋が混じっている。右目に眼帯。左目だけで相手を見つめる癖がある。残った片目は鋭く、商人というより刃物を思わせた。


 ナギは門の前に立っていた。右手側にセリア、左にトルク。門の内側にゴルドとボルガが控えている。ガリクが屋根の上から見張っていた。


 祝宴の酒が抜けきっていない朝だった。五族同盟が成立し、ヴェルクの軍が去ってまだ一日。ゴブリンの子供たちは森の奥に避難させた。オーク戦士が静かに武器を握っている。


 セリアが小声で言った。


「馬車は二台。荷物は多い。長旅の装備ね」


「護衛の方が気になる」


 トルクが顎で指した。


「交易を申し込みたい。橋守の里には珍しい産品があると聞いておりましてな」


「誰に聞いた」


「辺境の噂ですよ。魔物と共に暮らす人間の集落。ゴブリンのキノコ、オークの鍛冶製品、スライムの粘液。どれも大陸中部では高値がつく」


 グリムの声は穏やかだった。手の動きも柔らかい。だが護衛の魔物たちは、石のように動かなかった。


 馬車の両脇に立つ四体。二足歩行。体高は人間と同じだが、肌は硬質で青灰色の光沢がある。額に触角のような突起が二本。顔は平坦で、表情がない。目は黒い複眼。見つめられると、虫の標本にされたような気分になる。


 ナギは意識を集中した。魔物語で接触を試みる。


 ゴブリンの時は、最初の一瞬で甲高い声が頭に流れ込んできた。オークの時は、低い振動が腹に響いた。スライムの時は、概念が直接脳に浮かんだ。ファングの時は獣の息遣いが耳に流れた。どんな魔物でも、最初の接触には何かしらの手応えがある。


 だが今は何もない。


 静寂。完全な静寂。ナギの意識が護衛に向かって伸び、何にも触れずに空を掻いた。頭痛すら起きない。ゴブリン語でもオーク語でもスライム語でもない。未知の言語体系があるのか、それとも魔物語そのものが通じない存在なのか。


 どちらにせよ、初めてだった。五族との交渉で積み上げてきた自信が、足元から揺らぐ感覚。ナギの指先が冷えた。


 護衛の一体が、こちらを見た。黒い複眼に感情の色はない。見ているのか、見ていないのか。額の触角が一瞬だけ傾いた。


 セリアが弓の弦に指をかけた。ナギが首を振って止めた。


「あの護衛は何族だ」


 声を平静に保つ。動揺を見せるわけにはいかない。


「蟲人族と呼ばれております。大陸の東方に棲む種族でして。おとなしい連中ですよ。言葉は通じませんが、忠実な護衛です」


 蟲人族。聞いたことがない。ゴルドの知識にもなかったはずだ。


 ナギの脳裏に、ヴァルナザドールの声が響いた。灰嶺の頂から、山を越えて届く竜の思念。


【繋ぐ者よ。あの旗をもう一度見ろ】


 馬車の幌に掛けられた旗。紺色の布に銀の紋章。円の中に牙と角が交差している。千年前の紋章。竜が「裏切り者の印」と呼んだもの。


「グリム。あの旗の紋章は何だ」


 グリムは旗を振り返り、肩をすくめた。


「ああ、これですか。古い家紋でしてな。千年前の遺物です。骨董品のようなものですよ」


 笑っている。だが片目の奥に、笑いとは違う光が走った。


「ヴァルナザドール」


 ナギは小声で呟いた。竜の思念が返った。


【あの紋章は牙の一族のものだ。千年前、我が同胞の多くを殺した者どもの旗。忘れるはずがない。繋ぐ者よ、あの男を中に入れるな】


 竜の声に怒りが滲んでいる。千年の記憶が揺り起こされたのだ。


 だが、ナギは考えた。追い返すのは簡単だ。だが千年前の紋章を掲げる商団が、なぜ今この辺境に来た。ヴェルクの軍が去った直後のタイミングで。偶然ではないだろう。


 追い返せば情報は得られない。泳がせれば、敵の尻尾を掴めるかもしれない。


「中に入れ。話を聞こう」


 トルクがナギを見た。セリアが眉を寄せた。


「正気? 竜が危ないって言ってるのに」


「だからこそだ。何が危ないのか、見極める必要がある」


 セリアは唇を噛んだが、弓から手を離した。トルクは何も言わず、大剣の柄を確認しただけだった。


 グリムが一礼した。


「ありがたい。交易の話をしに参っただけですから」


 ナギはグリムを広場の石卓に案内した。四者会議に使う場所だ。蟲人族の護衛は門の外に残された。グリム自身も武装していない。杖を一本持っているだけだった。


 ゴルドが杖を突いて近づいてきた。白い眉の下の目が、グリムを品定めしている。


【ナギ。こやつ、何者じゃ】


「まだわからない。これから聞く」


【ワシも同席する。ゴブリンの産品を勝手に売り買いされては困る】


「頼む。だが怒鳴るなよ」


【ワシが怒鳴ったことがあるか】


「三日に一度はある」


 ゴルドが骨飾りをじゃらりと鳴らした。反論はしなかった。


 トルクが門の横に立ち、セリアが屋根の上に移動した。弓の射程内にグリムの席がある。ボルガが鍛冶場の入口から腕を組んで見ている。片牙が光っていた。


* * *


 グリムが座った瞬間、ガリクがナギの袖を引いた。


 小さなゴブリンの偵察兵は、体を震わせていた。長い耳がぴくぴく動いている。


【ナギ。あの蟲の護衛のこと。嗅いでみたんじゃが】


「何かわかったか」


【わからないことだらけじゃ。嗅いだことのない匂い。森にも草原にも山にもない匂いじゃ。土の下、もっと深いところの匂いがする】


「地下の魔物か」


【それだけじゃない】


 ガリクの声が震えた。


【あいつら、体の中に何かいる。一匹じゃない。体の中に、もう一匹いるような匂いがするんじゃ】


 体の中にもう一匹。


 ナギはグリムの背中を見つめた。商人は石卓の前で待っている。穏やかな笑顔。片目。杖。


 蟲人族の護衛は門の外で微動だにしていない。触角が僅かに揺れている。風を読んでいるのか、それとも別の何かを感じ取っているのか。


 ナギは拳を握った。


 この男は何かを隠している。護衛の魔物も、旗も、商団の目的も。


 だが今すぐ暴くべきか。それとも泳がせるべきか。


「ガリク。護衛の動きを見張っていてくれ。何か変わったことがあれば、すぐに知らせろ」


【わかった。でもナギ、気をつけろよ。あいつの匂い、人間の部分も嘘くさいんじゃ】


 嘘の匂い。ゴブリンの鼻は、時に真実を突く。


 ナギは広場に戻った。グリムが待っている。笑顔のまま。ゴルドが杖をつきながら石卓の端に座った。グリムの片目がゴルドに向いた。


「おや。ゴブリンの長老殿ですか。ご同席いただけるとは光栄です」


 ゴルドの骨飾りが揺れた。グリムの言葉は人間語だ。ゴルドには意味がわからないはずだが、長老の目は商人の顔を離さなかった。


「お待たせした。それで、交易の話を聞こうか」


「ええ、ええ。まずは我々が提供できるものからお話ししましょう」


 グリムが懐から革袋を取り出し、石卓の上に並べた。香辛料。乾燥肉。布の見本。鉄釘の束。どれも辺境では手に入りにくいものだ。


「大陸中部の産品です。これらを定期的にお届けできます。代わりに、こちらの里の特産品をいただきたい」


 ナギは向かいに座った。間に石卓。距離は腕一本分。交渉の距離だ。


 グリムの指が布の見本を広げた。染色が美しい。上等な品だった。だがナギの頭の中では、ガリクの言葉が消えなかった。


 体の中にもう一匹。


 この商人も、何かを隠している。

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