五族の里
協定が結ばれた翌日。ヴェルクの隊は南へ撤退した。
百人の兵士が隊列を組んで去っていく。その背中を、オーク戦士たちが黙って見送った。ゴブリンの子供たちが森の奥から戻ってきて、広場を走り回っている。
日常が戻りつつあった。
ナギはヴァルナザドールの前に立っていた。竜は体を起こしている。昨日から初めて、完全に目を開いていた。
【繋ぐ者よ。人間の軍は去ったか】
「去った。協定を結んだ。しばらくは安全だ」
【しばらく、か。人間の約束は短命だ。お前の寿命と同じように】
「それでもないよりましだ」
竜が鼻から蒸気を吐いた。
【我との同盟の件。正式に応じよう。魔素の炉の設計は、お前たちの鍛冶の者に伝える。我の記憶にある古代の設計図を、口伝えで】
「ボルガが喜ぶ。鍛冶の神から直接教わるようなものだからな」
【鍛冶の神。我を神と呼ぶか。悪い気はしないな】
竜の口の端が上がった。
【だが忘れるな。我は里の一員ではない。灰嶺の主だ。同盟者として、対等に】
「忘れない」
ナギは竜の目を見上げた。琥珀色の光。千年の知恵と孤独を湛えた瞳。
「ヴァルナザドール。北の脅威のことは、これから全種族で備える。お前一人の戦いじゃない」
【……そうだな。一人ではない。千年ぶりに、そう思える】
竜が翼を広げた。風圧がナギの髪を乱す。巨体がゆっくりと浮き上がった。
【我は灰嶺に戻る。必要があれば呼べ。お前の声は——山の上でも聞こえる】
竜が空に舞い上がった。暗翡翠色の体が青空に映え、北に向かって飛んでいく。影が里の上を通り過ぎ、小さくなり、灰嶺の頂に消えた。
* * *
夕方。広場に全種族が集まった。
ゴルドがキノコの酒を抱えてきた。ボルガがガルムの肉を焼いている。スライムの出張所が隅で脈動している。ファングの群れが里の外周で遠吠えを繰り返した。祝宴の開始を告げる声。
リーナが手を叩いた。
「お祝いですね! 五種族の同盟成立!」
ゴルドが杯を掲げた。
【橋守の里は、もう小さな砦ではない。五族の里じゃ】
ボルガが肉を裂きながら頷いた。
【五族の里。悪くない響きじゃ】
ファングの遠吠えが重なった。群れ全体が唱和する。森に反響し、丘陵を越え、灰嶺にまで届くような声。
スライムが一度大きく脈動した。ナギが触れると、概念が流れ込んだ。
【名称変更を記録した。橋守の里 → 五族の里。更新完了】
「まだ変更するとは言ってないぞ」
【合理的な名称変更と判断した。異議があれば撤回する】
「……いい。そのままでいい」
ナギは笑った。祝宴の熱気が広場に満ちている。ゴブリンの子供がオークの子供と追いかけっこをしている。体格差は三倍以上あるが、ゴブリンの子供の方が足が速い。
トルクがキノコの酒を一杯だけ飲み、静かに見張り台に登った。祝宴の最中でも、誰かが見張る。元冒険者の習性だ。
リーナがスライムの粘液サンプルを瓶に詰めながら、ボルガに質問攻めにしている。
「ボルガさん、竜の炉の設計って鍛冶場に組み込めるんですか? 魔素の凝縮効率はどのくらいに……」
【うるさい小娘だ。明日聞け】
「明日になったら忘れちゃうかもしれないので今聞きます!」
ボルガの片方の牙が上がった。笑い。
ガリクが酒に酔って踊り始めた。ゴブリンの踊りは跳ねるように足を動かし、耳を揺らす。他のゴブリンたちが手拍子で囃し立てた。
ナギは広場の隅の石壁にもたれて、その光景を見ていた。半年前、この場所は廃墟だった。苔むした石壁と、崩れた屋根と、空っぽの井戸。
今は五つの種族が笑っている。
足音がした。セリアが隣に来た。杯を二つ持っている。一つをナギに差し出した。
「飲まないの」
「飲む」
キノコの酒を一口。独特の香りが鼻に抜ける。甘くはないが、不思議と温かい。
「五族の里、か。半年前は廃墟だったのにね」
「ああ。半年でここまで来た」
「まだ足りない?」
「まだ足りない。王国は来る。北の脅威もある。それに、竜が恐れるものの正体がまだわからない」
セリアが肘でナギの脇腹を突いた。
「あんたはいつも先のことばっかり考えてる」
「悪い癖だ」
「今日くらいは、今を見なさいよ」
セリアがナギの手を取った。
小指ではなく、手全体を。
ナギの体が固まった。セリアの手は小さくて、弓の弦で硬くなっている。だが温かかった。
「お前の手は、冷たくないな」
セリアが目を丸くした。
「あたしの台詞、覚えてたの」
「忘れるわけないだろ」
赤土の丘陵からの帰り道。セリアが言った言葉。「あんたの手は、冷たくなかったわ」。あの日から、ナギの中で何かが変わった。
セリアの頬が赤くなった。月明かりの下でもはっきりとわかる。
「ずるい。あんた、こういう時だけ記憶力いいんだから」
「交渉者は、大事な言葉を忘れない」
「交渉の台詞じゃないでしょ、あれは」
「そうだな。交渉じゃない」
ナギはセリアの手を握り返した。指を絡めるほどではない。だが離さない程度に。
二人は黙って祝宴を見ていた。焚き火の炎がゴブリンの緑の肌を照らし、オークの灰色の肌に影を落とす。森狼族の銀灰色の毛並みが炎を反射している。
灰嶺の方角から、竜の咆哮が聞こえた。低く、長い。祝福なのか、寝言なのかはわからない。
二人は笑った。
* * *
翌朝。
ナギが目を覚ましたのは、ガリクの叫び声だった。
【ナギ! 起きろ! 交易路に、商人の馬車が来ている!】
ナギは飛び起きた。門に駆けつける。セリアとトルクが既にいた。
南の交易路。ハグレ村からの道に、二台の馬車が見えた。幌馬車だ。荷物を積んでいる。
だが護衛が異様だった。
馬車の両脇を歩いている護衛は、人間ではなかった。二足歩行で、体高は人間と同じくらい。だが肌は青灰色で、顔に鰭のような突起がある。見たことのない魔物だ。
ガリクが震えている。
【あれはゴブリンでもオークでもない。見たことがない。森の魔物でもない】
トルクが大剣の柄に手をかけた。
「ナギ。あの魔物は……」
「知らない。見たことがない種族だ」
馬車が近づいてきた。先頭の馬車の幌に、一枚の旗が掲げられている。紺色の布に、銀の紋章。円形の中に牙と角が交差したデザイン。
ナギの頭の中に、ヴァルナザドールの声が響いた。低い振動。山を越えて届く竜の声。
【繋ぐ者よ。あの紋章が見えるか】
ナギは北を見た。灰嶺の頂に、小さな翡翠色の点が見えた。竜が起き上がっている。
【見えるか。あの旗の紋章を】
「見える。紺色の旗に銀の紋章だ」
竜の声が変わった。怒りではない。もっと深い感情。千年の記憶の底から湧き上がる、古い痛み。
【あれは——裏切り者の印だ】
ナギの背筋が凍った。
【千年前。我が同胞を殺した者どもの旗だ】
馬車が門の前で止まった。幌の中から人間が出てきた。中年の男。商人の服装。だが目が鋭い。ただの商人ではない。
「橋守の里と聞いてきた。交易を申し込みたい」
ナギは商人を見つめた。その背後で、青灰色の魔物たちが無表情に立っている。
「あんたの護衛の魔物は、何族だ」
「知らんのか? 北方の海鱗族だ。最近、辺境に進出してきている」
北方。竜が恐れていた方角。「古い穴」がある方角。
ナギは拳を握った。北からの来訪者。竜が「裏切り者」と呼ぶ紋章。千年前に竜の同胞を殺した者たちの旗。
五族の里の門前に、新たな影が立っている。




