架け橋
朝霧の中に、鎧の音が聞こえた。
ガリクが最初に知らせた。偵察兵の速さで広場に駆け込み、ナギの足にしがみついた。
【来た! 南の道! 100人以上! 先頭の男は金髪じゃ!】
ヴェルク。
ナギは深く息を吸った。体の隅々まで空気を行き渡らせる。心臓の鼓動を数えた。速い。だが乱れてはいない。
「全員、配置につけ」
橋守の里が動いた。
ゴブリンの非戦闘員と子供たちは、既に深緑の森の奥に避難している。ゴルドだけが広場に残った。杖をつき、白い髪を風に揺らしている。
オーク戦士三十体が、里の門の両脇に並んだ。武器は腰に差しているが、抜いていない。ボルガが最前列に立ち、腕を組んでいる。
ファングの群れが里の外周を走っている。銀灰色の影が草むらを駆け抜ける。百人の兵の動きを、匂いで追っている。
スライムの出張所が脈動を速めた。情報処理モード。
トルクが門の横に立った。大剣を背負ったまま。抜いていない。
セリアがナギの右隣に並んだ。弓は背中。手は空いている。
ナギは門の正面に立った。
* * *
霧の中から隊列が現れた。
百名の兵士。四列縦隊。槍と盾を構え、革鎧の上に鉄の胸当て。訓練された歩調が地面を踏み鳴らす。
先頭にヴェルク。金髪を後ろに撫でつけ、軍服の上に鎖帷子を着ている。腰に長剣。顔は蒼白だが、目は据わっていた。
その隣にレイスがいた。前回と同じ冷静な顔。羊皮紙を持っている。記録係を兼ねているのだろう。
隊列が門の前で止まった。三十歩の距離。ナギとヴェルクの目が合った。
「久しぶりだな、ヴェルク」
「先日会ったばかりだ」
「あれは取引だった。今日は、何だ?」
ヴェルクの顎が引き締まった。
「ガレス将軍の命により、この集落の制圧権限を持って来た。ナギ。お前に二つの選択肢を与える」
百人の兵士が盾を構えた。金属が鳴る音が、空気を硬くした。
「一つ。集落を解散し、魔物との同盟を放棄する。お前は辺境の監視下に置かれるが、命は保証する」
「二つ目は」
「拒否した場合、制圧行動に移る」
ナギの背後で、ボルガが低く唸った。オーク戦士たちの体が揺れた。武器に手がかかる。
ナギは片手を上げた。背後の味方を制する。
「ヴェルク。三つ目の選択肢がある」
「ない」
「ある」
ナギは一歩前に出た。門の外。二十九歩の距離。
「この集落を攻撃すれば、何が起こるか。あんたは知っているはずだ」
ヴェルクの目が僅かに動いた。里の外の広場。竜がいる方角。だがヴァルナザドールは今、体を丸めて眠っているように見える。三十メートルの巨体。岩のように動かない。
「竜は眠っている。今なら……」
「眠っていると思うか?」
ナギの声が低くなった。
「ヴァルナザドールは千年を生きた。お前たち100人の足音を、一人一人の鎧の音まで聞き分けている。眠っているように見えるのは、まだお前たちを脅威と見なしていないからだ」
ヴェルクの額に汗が浮いた。兵士たちの間にざわめきが広がる。竜の巨体を見た者たちが盾を握り直し、足を引く。隊列が揺れていた。
「脅しか」
「事実だ。試してみるか?」
沈黙。風が霧を散らした。竜の暗翡翠色の鱗が、朝日に照らされて光った。
レイスがヴェルクの耳元で何かを囁いた。ヴェルクの肩が強張る。顔が歪んだ。
ナギはレイスの口の動きを読み取ろうとした。聞こえなかったが、おそらく「戦うべきではない」という内容だろう。レイスは前回の偵察で里の実態を見ている。ここを潰す非合理さを、将軍以上に理解している男だ。
「ナギ。私は将軍の命令で来ている。手ぶらでは帰れない」
「知っている。だから三つ目の選択肢だ」
ナギは両手を広げた。武器を持っていないことを示す。
「協定を結ぶ。橋守の里は王国に敵対しない。辺境の魔物動向を定期的に報告する。交易品も提供する。代わりに、王国はこの集落の存在を認め、干渉しない」
「王国法に……」
「辺境に王国法は届いていない。だが協定を結べば、法の枠組みの中に入れることができる。あんたの報告書にも書ける。『辺境の自治集落と協定を締結。監視下に置いた』と」
ヴェルクの目が揺れた。保身の計算が始まっている。ナギにはわかる。
「将軍が求めているのは辺境の安定だ。この集落を潰しても、散らばった魔物がまた問題を起こす。だが集落が存在し、魔物が統制されていれば、辺境は今より安定する」
「……それを証明できるのか」
「レイスの報告書に書いてあるはずだ。この集落が周辺の村に経済的利益を提供していることは」
レイスが僅かに頷いた。ヴェルクがそれを見た。
長い沈黙。百人の兵士が息を殺している。オーク戦士が微動だにしない。竜が丸まったままでいる。
ヴェルクの手が長剣の柄から離れた。
「……条件を聞こう」
ナギの肩から力が抜けそうになった。だが表情は変えなかった。交渉は、相手が「聞こう」と言った瞬間から本番だ。
「一つ。橋守の里は王国に四半期ごとに魔物動向の報告書を提出する。二つ。交易品を辺境の村を通じて王国に供給する。三つ。竜を含む魔物は、王国の領域を侵犯しない。四つ。王国は橋守の里の内政に干渉しない」
「五つ目がある」
ヴェルクが言った。
「私が駐在官として、この集落に定期的に立ち入る権利を保証しろ」
監視。ヴェルクが自分の目で確認するということ。将軍への保険でもある。
「受け入れる。ただし武装は三名まで。それ以上は門の外に置いてもらう」
「……わかった」
ヴェルクが手を上げた。兵士たちが盾を下ろした。金属の音が静かに鳴り、それきり止んだ。
レイスが羊皮紙を広げた。協定の文面をその場で起草し始めている。
ナギは振り返った。ゴルドが杖を握りしめている。ボルガの牙が見えた。笑っている。ファングの遠吠えが遠くから聞こえた。スライムが一度大きく脈動した。
セリアが立っていた。弓を背中に背負ったまま。目が潤んでいた。
「泣くな」
「泣いてない。風が——」
「風はもう止んでいる」
セリアが拳でナギの腕を叩いた。軽く。だが何度も。
「ばか。ばか。心臓止まるかと思った」
「俺もだ」
ナギは北を見た。竜が丸まっている。片目が薄く開いていた。金褐色の光。
小さく頷いた。竜に向かって。
竜の目が閉じた。
眠りに入ったのか、それとも——頷き返したのか。ナギにはわからなかった。だがどちらでも構わなかった。
協定書の署名が始まった。レイスが起草した文面を、ナギとヴェルクが確認する。
レイスの字は整然としていた。感情を排した、事実だけの文章。だが文面の端に、一行だけ余白があった。レイスが最後に書き加えた一文。
『本協定は辺境の安定に資するものと認め、双方が誠実に履行するものとする』
誠実に。レイスなりの意思表示だった。
ナギがペンを握った。ヴェルクもペンを握った。二人の名前が、同じ羊皮紙に並んだ。
追放した男と追放された男が、同じテーブルについている。五年前、ヴェルクがナギに追放の書類を手渡した。あの時も同じ机の上に二人の名前があった。だが意味が違う。あれは終わりの署名で、これは始まりの署名だ。
ヴェルクがペンを置いた。ナギを見た。何かを言いかけて、やめた。踵を返し、兵士たちの元に戻った。
「全員、撤退する」
百人の兵士が隊列を組み直した。南へ。来た道を戻っていく。ヴェルクの金髪が陽光に光り、やがて森の向こうに消えた。
世界は、まだ動いている。




