竜の恐怖
マルコが来たのは、竜が降り立ってから五日後だった。
軍服姿。前回の私服とは違う。顔が険しく、額に汗が浮いていた。馬を乗り潰す勢いで走ってきたらしく、脚が泥だらけだった。
「ナギ」
門の前でマルコが呼んだ。息が荒い。
「中に入れ。水を……」
「時間がない。聞いてくれ」
マルコの目が血走っていた。唇が白く、額に脂汗が浮いている。だが視線は逸れない。裏切りの匂いはしなかった。
「ヴェルクの報告書が将軍に届いた。レイスの報告と合わせて、将軍は判断を下した」
「討伐か」
「偵察部隊の追加派遣だ。だが今度は30人じゃない。100人。指揮官はレイスじゃなく、ヴェルクだ」
ナギの背筋が冷えた。
「ヴェルクが100人の兵を連れてくるのか」
「そうだ。将軍の命令は『集落の実態調査と、必要に応じた制圧』。制圧の権限がヴェルクに与えられている」
制圧。穏やかな言葉で包んでいるが、意味は明白だ。抵抗すれば武力行使。
「いつ来る」
「10日後。今の駐留兵に加えて、王都から70名が合流する」
ナギは唇を噛んだ。百名の武装兵。橋守の里のゴブリンとオークを合わせれば数は上回るが、正規軍の訓練を受けた兵士との正面衝突は避けなければならない。
「マルコ。お前がこれを知らせに来たってことは……」
「軍規違反だ。バレたら処刑される」
マルコの声が震えた。だが目は真っ直ぐだった。
「お前を追放した時、何もできなかった。今度は——少しだけ、借りを返す」
ナギはマルコの肩を掴んだ。骨ばった肩だった。五年前、斥候隊で隣に座っていた頃は、もう少し肉がついていた気がする。
「ありがとう。すぐに戻れ。バレないうちに」
「ナギ。一つだけ」
マルコが馬に片足をかけたまま、振り返った。
「ヴェルクは変わった。お前を追放してから、ずっと焦っている。辺境に左遷されてからは尚更だ。追い詰められた人間は何をするかわからない。気をつけろ」
「わかった」
「それと、お前の集落の噂は王都にも届いている。魔物と暮らす男の話。酒場で笑い話にする奴もいれば、興味を持つ商人もいる。世界は思ったより狭いぞ」
マルコが馬に飛び乗った。砂埃を上げて南へ走り去る。小さくなっていく背中を見送り、ナギは門の中に戻った。
拳を握りしめていた。十日。たった十日で、百人の軍に対する備えをしなければならない。
* * *
緊急の四者会議。
広場にゴルド、ボルガ、ファング、スライムの出張所。セリアとトルクが隣に立っている。リーナが羊皮紙を構えていた。
「王国軍100名が、10日後に来る。指揮官はヴェルク。制圧の権限を持っている」
沈黙。
ゴルドが杖を強く突いた。
【100人の人間。ゴブリンの子供たちが……】
「戦わない。戦えば、全てが終わる」
ボルガが立ち上がった。石畳が軋む。
【100人など! オークの戦士50と竜がいれば勝てる】
「戦えばの勝てる。だが勝った後が問題だ。王国軍を撃退すれば、次は千人が来る。辺境全域が戦場になる」
ボルガの牙が軋んだ。だが座り直した。ナギの言葉の正しさを理解している。
ファングが低く唸った。
【戦わず、逃げず。ならばどうする】
「交渉する」
【100人の兵を前にして?】
「100人の兵を前にして、だ」
ナギはスライムに触れた。概念が流れ込む。
【状況分析。100人の兵力に対し、竜一体の抑止力は計算上十分。ただし竜が敵対行動を取った場合、王国は全面戦争と判断する確率87%。推奨: 竜の抑止力を『見せる』が『使わない』戦略】
「その通りだ。竜を見せる。だが攻撃はさせない。ヴェルクに『この集落を潰そうとしたら竜が怒る。だが共存すれば竜は害をなさない』と理解させる」
ゴルドが白い眉を寄せた。
【ヴェルクという人間は、それを理解できる男なのか】
「わからない。だが理解してもらうしかない」
トルクが口を開いた。
「ヴェルクは保身の男だ。自分が不利になる行動は取らない。竜を怒らせたら自分が死ぬとわかれば、制圧はしない」
「そうだ。ヴェルクの保身を利用する。竜の存在を見せつけて、制圧のリスクを理解させる」
セリアが手を上げた。
「でも、竜がそれに協力してくれるかどうか……」
「聞いてくる」
* * *
ナギは広場のヴァルナザドールの元に向かった。竜は目を閉じて丸まっている。だがナギの足音に反応して、片目が開いた。
【繋ぐ者よ。慌ただしいな】
「人間の軍が来る。100人だ。10日後に」
【知っている。空から見た。南の道を、鎧の集団が動いている】
「協力してほしい。戦ってくれとは言わない。ただ、そこにいてくれ」
竜の目が光った。
【そこにいろと。我を——脅しの道具に使うのか】
「脅しじゃない。抑止力だ。お前がいるだけで、人間は手を出せなくなる。血を流さずに済む」
【血を流さずに。お前はいつもそう言う】
「俺は交渉者だ。血を流すのは最後の手段だ」
竜が長い息を吐いた。白い蒸気が空に立ち上り、渦を巻いて消えた。
【いいだろう。我はここにいる。だが一つ聞く。もし人間の軍が我を攻撃してきたら、お前はどうする】
「攻撃させない。それが俺の仕事だ」
【できるのか。100人の人間を、言葉だけで】
「やるしかない」
竜の目が細くなった。
【面白い男だ。二百年前の架け橋も、こういう男だったのかもしれぬ】
「あの人は死んだんだろう。俺は死なない」
【自信家だな】
「自信じゃない。約束だ。生きて帰ると、約束した相手がいる」
竜の目がナギの背後を見た。門の前にセリアが立っている。弓を握り、北を見つめている。
【あの雌か】
「余計なことは言わなくていい」
竜が鼻から蒸気を吹いた。笑い。千年を生きた竜が、人間の恋愛模様を笑っている。
* * *
十日間。ナギは準備を進めた。
ゴルドにゴブリンたちの避難経路を確保させた。最悪の場合、子供と非戦闘員は深緑の森の奥に逃がす。
ボルガにオーク戦士の配置を相談した。見える位置に立ち、武器は持つが抜かない。威圧だけで充分だ。
ファングの群れを里の周囲に展開した。嗅覚で百人の兵の動きを追える。逃げ道の確保と情報収集を兼ねている。
スライムに魔素の供給を増やし、群体知性の処理能力を上げた。リアルタイムの状況分析を四者会議に提供する体制を作った。
リーナが治療用の薬を大量に調合した。「使わないことを祈ります」と言いながら。
トルクは大剣を研いでいた。無言で。質問はしない。ナギが戦うと言えば戦い、交渉すると言えば待つ。
セリアは毎日、弓の弦を確認していた。予備の矢を束ねている。ナギが「戦わない」と言っても、準備は怠らない。狩人の本能だ。
九日目の夜。ナギは見張り台に立っていた。南の道を見つめている。明日、ヴェルクが来る。
背後から足音。セリアだった。
「眠れないの」
「眠れない」
「あたしも」
セリアがナギの隣に立った。肩が触れた。どちらも避けなかった。
「明日、うまくいくかな」
「わからない。だがやるだけのことはやった」
「ナギ」
「ん」
「あたし、明日あんたの隣に立つから。最前列で」
「危険だ」
「知ってる。でも、あんた一人で立たせない」
ナギはセリアの顔を見た。月明かりに照らされた横顔。緑色の目が、真っ直ぐに南を見ている。
「ありがとう」
「お礼はいらない。あたしがそうしたいからそうするの」
二人は並んで南を見ていた。明日が来る。百人の兵と、一人の交渉者。
そして竜が、里の外で眠っている。




