偵察
王都セルディオン。軍務省の奥、将軍執務室。
ガレス将軍は報告書を二枚並べて読んでいた。一枚はヴェルクから。もう一枚はレイスから。同じ事象を、二人の目が別々に書いている。
ヴェルクの報告書は短かった。
『辺境の追放者ナギ、ゴブリン・オーク・スライム・森狼族と同盟を結び集落を形成。竜が出現。集落の上空に竜が降り立つのを目撃。詳細は偵察部隊の報告に譲る』
レイスの報告書は十二枚に及んだ。農地面積、住居数、種族構成、鍛冶技術の水準、衛生管理の状態。そして最後の二枚に、こう書かれていた。
『追放者ナギは竜の名を口にし、竜はそれに応じて着陸した。竜とナギの間に意思疎通が成立しているものと判断する。当該集落は周辺の村落に経済的利益を提供しており、即時討伐は辺境経済を毀損する恐れがある。提言: 監視を継続し、外交的接触を試みるべき』
ガレスは報告書を机に置いた。白髪交じりの顎髭を撫でる。
「竜と話す男、か」
窓の外を見た。王都の喧騒。石畳の道を馬車が行き交い、商人たちの声が響いている。この平和は、辺境の兵士たちが魔物を押さえ込んでいるから成り立っている。
だが辺境で魔物を押さえ込む代わりに、魔物と取引をする男が現れた。
「使えるか。あるいは危険か」
ガレスは独り言を呟いた。答えは出ない。だが一つだけ確かなことがある。竜を敵に回す余裕は、王国にはない。
執務室の壁に、辺境の地図が貼られている。ガレスは立ち上がり、地図の前に歩いた。指で辺境の位置を辿る。ハグレ村。深緑の森。赤土の丘陵。そして北方の山脈。灰嶺。
「レイスの報告では、竜はこの山に棲んでいる」
ガレスの指が灰嶺の位置で止まった。爪が地図に食い込む。
「二百年前の獣語りの乱。あの時も竜の噂があった。だが確認されなかった。今回は違う。三十名の兵士が目撃している」
振り返った。執務室の隅に控えていた書記官に告げた。
「レイスを呼べ。それと、辺境部隊の増援について、計画を立てさせろ。討伐ではない。まだだ。だが準備だけは整えておく」
書記官が走った。ガレスは再び地図を見つめた。辺境の小さな点。追放した斥候が、竜を従えた。
「ヴェルク。お前が追放したのは、とんでもない男だったかもしれんな」
* * *
橋守の里。竜が降り立った翌日。
偵察部隊は撤退していた。レイスが最後にナギに告げた言葉が、まだ耳に残っている。
「報告は正直にする。将軍は賢明な方だ。すぐに討伐とはならないだろう。だが、時間の問題だ」
時間の問題。ナギはその言葉を噛み締めていた。
ヴァルナザドールは里の外の広場から動いていない。巨体を丸めて、目を閉じている。時折鼻先から白い蒸気が漏れる。竜の周囲だけ、空気の温度が違った。
ナギは竜に近づいた。十歩の距離。以前は七歩まで近づいたが、今は十歩で立ち止まった。竜が里にいる時の距離感を、体が覚え始めている。
【ヴァルナザドール】
竜の片目が開いた。
【繋ぐ者よ。何を持ってきた】
「提案だ。お前の魔素の問題を解決する方法を考えた」
竜の目が少し大きくなった。興味の表現だ。
【聞こう】
「お前が魔素を吸い上げると、森と沼地が枯れる。だが魔素を蓄えなければ、北の脅威に備えられない。なら、魔素を効率よく集める方法を作ればいい」
【どうやって】
「スライムの群体知性が、地中の魔素の流れを感知できる。どこに魔素が溜まっているか、地図を作れる。その中で、森にも沼地にも影響しない場所を特定し、そこから優先的に吸い上げる」
竜の目が細くなった。
【矮小な者の知恵にしては、悪くない。だが足りぬ。地中の魔素だけでは、我の備えには不足だ】
「わかっている。だからもう一つ。ゴブリンとオークの鍛冶で、魔素を凝縮する炉を作る。オークの鍛冶技術と、ゴブリンが知っている魔素含有鉱石の産地を組み合わせれば、炉を作れる」
【鉱石を溶かして魔素を抽出するのか。古い手法だ。千年前にもあった】
「知っているなら話が早い。炉の設計を教えてくれ。お前の記憶にあるはずだ」
竜が低い笑い声を上げた。洞窟の中で聞くのとは違い、空の下で聞くと、山から反響が返ってきた。
【我の知識を使うと。それも等価交換か】
「そうだ。お前は炉の設計を提供し、橋守の里は炉を建造して魔素を凝縮する。凝縮した魔素はお前に提供する。お前は森を枯らさずに備えられる。全員が得をする」
【全員が得をする。お前はいつもそう言う】
「交渉の基本だからな。誰かが損をする取引は、長続きしない」
竜が首をもたげた。琥珀色の目が空を見た。北の方角。
【……あれが来た時、我一人では止められぬかもしれん】
初めてだった。竜が弱さを口にしたのは。
「だから一人じゃなくていい。ゴブリンの偵察力、オークの鍛冶と戦闘力、スライムの情報処理、森狼族の哨戒能力。そして俺が全部を繋ぐ。お前は最後の切り札だ。全部を一人で背負う必要はない」
竜の鱗が微かに震えた。風のせいかもしれない。だがナギには、別の理由に見えた。
【千年を生きた。千年の間、一人で見守ってきた。同胞はいなくなった。我だけが残った。灰嶺を見守る永き者。見守るだけで——誰にも見守られなかった】
「今は違う」
【……そうか】
竜が目を閉じた。巨体がゆっくりと沈み込む。大地が軋む。
【条件を受け入れる。魔素の炉の設計を提供しよう。だが、我を里の一員とは呼ぶな。我は灰嶺の主だ。同盟はする。だが従属はしない】
「同盟だ。対等な。ゴブリンとの同盟と同じだ」
【ゴブリンと同格か。気に入らぬな】
「竜のプライドは承知している。だが等価交換の前では、全員が対等だ」
竜の口の端が上がった。笑い。嘲りではなく、認めた時の笑い。
【二百年前の架け橋は、我を説得する前に死んだ。お前は、生きたまま、我を説得した。認めよう。繋ぐ者ナギ。お前は架け橋としての資格がある】
ナギの拳が握られた。竜が「認めた」。千年の孤独を抱えた存在が、人間の提案を受け入れた。
ゴルドが広場の端で見ていた。白い眉が上がっている。ボルガが腕を組んで頷いた。ファングが遠吠えを上げ、スライムの出張所が脈動した。
五種族の同盟が、形を成し始めていた。
ゴルドがナギの袖を引いた。小さな手が、ナギの手首を掴んでいる。
【ナギよ。ワシは三百のゴブリンの長老じゃ。多くの声比べを見てきた。だが竜を説得した声比べは、初めてじゃ】
「声比べとは違う。交渉だ」
【同じじゃ。声を出し、相手を動かす。ゴブリンのやり方も、お前のやり方も、根は同じ。声の力じゃ】
ゴルドの手が離れた。小さな長老が、杖をついて広場を去っていく。背中が小さい。だがその背中に、三百の命がぶら下がっている。
ボルガが鼻を鳴らした。
【ゴブリンの老いぼれが珍しく良いことを言う。声の力か。ワシらオークは、鉄を叩く音に力を込める。お前は声に力を込める。やり方が違うだけじゃ】
「ボルガ、竜の炉の設計。引き受けてくれるか」
【愚問。鍛冶の神の知恵を受け継ぐ機会を、断るオークはおらぬ】
ボルガの片方の牙が上がった。
* * *
その夜。ハグレ村。
ヴェルクは宿舎の机に向かっていた。蝋燭の炎が揺れている。
報告書は既に送った。短い文面。事実だけを書いた。竜の出現。ナギの集落の規模。嘘は混ぜていない。ナギに言われた通りだった。
だが報告書には書かなかったことがある。
竜が降り立った時の空気。ナギが竜の名を叫んだ時の声。あの声は人間の声ではなかった。大地を震わせ、空気を鳴らす、魔物の声。
ヴェルクの手がペンを握りしめた。
「なぜだ」
低い声が漏れた。
「なぜ、追放した男が——ここまで」
ペンが折れた。木の軸が真ん中から裂けた。インクが指を黒く染めた。
ヴェルクは折れたペンを見つめた。長い間、動かなかった。




