報告
偵察部隊は隊列を崩さずに近づいてきた。
先頭を歩く男は、背が低いが肩幅が広い。黒髪を短く刈り込み、革鎧の上に軍の外套を羽織っている。腰に長剣。歩き方に無駄がない。訓練された軍人の足運びだった。
副官レイス。ガレス将軍の目。
その後ろに三十名の兵士。槍と剣で武装し、盾を背負っている。行軍の疲労は見えるが、目は鋭い。
橋守の里の門前で、隊列が止まった。
「ナギとかいう男はいるか」
レイスの声は低く、抑揚がなかった。感情を排した報告者の声。
「俺がナギだ」
ナギが門の前に一人で立った。背後にゴブリンとオークの気配がある。レイスの目が一瞬だけ、ナギの後ろに動いた。
「ガレス将軍の命により、この集落の実態を調査する。協力を求める」
「拒否する理由はない。ただし、武器は門の外に置いてもらう」
レイスの眉が僅かに上がった。
「30名が丸腰で魔物の集落に入れと?」
「俺たちは300のゴブリンと80のオークと一緒に暮らしている。30本の剣が何の意味も持たないことは、あんたもわかるだろう」
レイスは数秒間、ナギの目を見た。嘘を探すような視線。だがナギの目は動かなかった。
「……わかった。全員、武器を置け。ただし私だけは帯剣を許可してもらいたい。将軍の代理として」
「構わない」
兵士たちがざわめいた。武器を手放すことへの抵抗。だがレイスの一言で黙った。統率が取れている。
門が開いた。
* * *
レイスは冷静だった。
ゴブリンの農地を見ても顔色を変えなかった。キノコの栽培棚が整然と並び、灌漑用の水路が砦の井戸から引かれている。ゴブリンの子供たちがレイスの足元を走り抜けた。兵士たちは身構えたが、レイスは羊皮紙に書き留めるだけだった。
「農地面積は推定どのくらいだ」
「ゴルド、長老に聞いてくれ。俺が代わりに聞き取る」
ゴルドが杖をついて前に出た。レイスの目が、小さなゴブリンの長老を捉える。
【ナギ、あの人間は危険か】
【今のところは大丈夫だ。質問に答えてくれ】
ゴルドが答え、ナギが置き換えた。農地面積、収穫量、住居数。レイスは淡々と記録を取っていく。
オークの鍛冶場に来た。ボルガが鉄を叩いている。火花が散り、金属の音が響く。レイスの歩みが初めて止まった。
「この鍛冶場の技術は、相当なものだな」
「オーク族は千年以上の鍛冶の歴史を持っている。人間の鍛冶師より腕が良い」
レイスが羊皮紙に書き込んだ。ペンの動きが速くなっている。
スライムの処理施設。半透明の塊が有機廃棄物を溶かし、浄化された水が排出されている。リーナが嬉々として説明した。
「スライムの粘液は防水加工に使えるんです! しかも有機物の分解能力は……」
「リーナ。聞かれたことだけ答えろ」
ナギが小声で制した。リーナが口を押さえた。
森狼族の巡回路を案内した。ファングが森の切れ目で待っていた。銀灰色の毛並みが木漏れ日に光る。体高百二十五センチ。額の蒼い紋様がレイスの目を捉えた。
「あれは、森狼族か。野生種とは違うな」
「知性がある。言葉も通じる。嘘は通じないが」
ファングがレイスの匂いを嗅いだ。鼻が動き、耳が立つ。
【この人間からは、剣の油と紙の匂いがする。戦士と記録者。二つの顔を持つ男だ】
「何て言ってる」
「お前は戦士であり記録者だと。二つの顔を持つ男だ、と」
レイスの目が僅かに見開かれた。初めて、冷静な仮面にひびが入った瞬間だった。
「……興味深い」
レイスが里の中央広場まで来た。羊皮紙は既に三枚目だ。全てを書き留めている。
「見事な運営だ」
レイスが言った。抑揚のない声。だが「見事」という言葉は出た。
「だが、魔物と人間の共存は、王国法に違反する」
「辺境に王国法は届いていない。ここは誰の領地でもない」
「ならば無法地帯だ。将軍の管轄に……」
空が暗くなった。
全員が見上げた。
翡翠色の影が空を覆っていた。翼が広がり、太陽を遮る。巨大な体が里の上空を旋回している。
ヴァルナザドール。
兵士たちがパニックを起こした。剣のない手が虚空を掴む。叫び声が上がり、隊列が崩れた。三人が逃げ出し、五人が地面に伏せた。
レイスだけが動かなかった。顔を上げ、竜を見上げている。額に汗が浮いていた。唇が白い。だが足は地面から動いていない。
「あれが、竜か」
「ヴァルナザドール。灰嶺を見守る永き者」
「知っているのか」
「俺が名付けたわけじゃない。竜自身の名だ。俺は呼んでいるだけだ」
竜が旋回しながら降下してきた。風圧が地面の砂を巻き上げる。ゴブリンの子供たちが泣き出した。オークの戦士たちが身構えたが、ボルガが片手を上げて止めた。
竜が里の外の広場に向かっている。着陸するつもりだ。
ナギの足が震えた。
セリアが横に来た。弓を背負ったまま。
「震えてるの?」
「ああ」
「あたしも震えてる。でも——あんたが呼ばなきゃ、誰が呼ぶの」
ナギは息を吸った。
これが試練だ。三十名の王国兵が見ている。レイスが見ている。この瞬間を報告書に書く男が見ている。
ここで竜の名を呼べば、ナギは二度と王国に戻れない。人間社会から完全に切り離される。「獣語りの乱の再来」と書かれる。
だが橋守の里の全種族が、ナギの背後にいる。
ナギは門を出た。広場に向かって歩いた。竜が降下してくる。翼の風圧が顔を打った。
胸骨から声を押し出した。魔物語の最も深い層。肋骨が振動し、頭蓋骨が共鳴し、大気が鳴った。
【ヴァルナザドール!】
声が空に響いた。
【我はナギ! 繋ぐ者! お前と人の間に立つ者だ!】
竜が翼を畳んだ。
大地が揺れた。
三十メートルの巨体が、里の外の広場に降り立った。衝撃波が走り、兵士たちが転倒した。砂煙が舞い上がり、視界が白くなった。
砂煙が晴れた。
竜がそこにいた。暗翡翠色の鱗。暗い蜂蜜のような両目。ナギを見下ろしている。
レイスの記録用の羊皮紙が風に飛ばされた。だが拾おうともしなかった。竜から目を離せない。
【合格だ、架け橋】
竜の声が響いた。ナギだけに聞こえる声。だが振動は全員に伝わっている。地面が震え、空気が唸り、兵士たちの鎧がびりびりと鳴った。
ナギの目から涙が流れた。額の奥が軋んだせいだ。そう思いたかった。
レイスが一歩、二歩、後ずさった。初めて見せた後退。だがすぐに足を止め、背筋を伸ばした。軍人の矜持が、恐慌を押しとどめている。
「ナギ。お前は——何者だ」
「橋守の里の架け橋だ。それ以上でも以下でもない」
レイスは竜を見上げ、ナギを見下ろし、もう一度竜を見た。羊皮紙を拾い上げる手が震えていた。だがペンを握り直し、書き始めた。震える字で。
竜が首をもたげた。空に向かって咆哮した。
洞窟の中の声とは比較にならない。大気が裂けるような音圧。里の木々が揺れ、鳥の群れが一斉に飛び立った。地平線の向こうまで、声が届いていく。
その声が、辺境全域に響き渡った。
ハグレ村で、ヴェルクが空を見上げた。竜の咆哮。机の上の報告書が風圧で吹き飛んだ。ペンを持った手が凍りついている。
もう、報告書を送らないわけにはいかない。




