名を呼ぶ
夜の見張り台。ナギとセリアが並んで座っていた。
灰嶺の方角に、微かな炎の光が見える。竜の息遣い。夜空に赤い筋が走り、消えた。
「あんた、本気なの」
セリアが膝を抱えたまま言った。風が赤銅色の髪を揺らしている。
「本気だ。偵察部隊の前で竜の名を呼ぶ」
「王国に戻れなくなるわよ」
「元から戻る気はなかった」
「嘘。あんた、追放された時、悔しかったんでしょ。認めてほしかったんでしょ。王国に」
ナギは黙った。セリアの言葉は正確だった。
「悔しかった。だが今は違う」
「何が違うの」
「名前を呼んでくれる奴がいる。ゴルドも、ボルガも、ファングも、スライムは名前を呼ばないが記録してくれた。お前も」
セリアの肩が小さく動いた。
「……あたしの名前も、ちゃんと呼んでよね」
「呼んでるだろ」
「ううん。あんたは『お前』ばっかり」
ナギは口を開きかけて、閉じた。言われてみれば、そうだ。セリアの名前を声に出したことが、いつだったか思い出せない。
「セリア」
名前を呼んだ。ただそれだけのことが、妙に緊張した。
セリアが顔を上げた。緑色の目が月明かりに光っている。
「……何よ、急に」
「呼んでほしいって言っただろ」
「言ったけど、こんな夜に……」
セリアが言葉を切った。頬が暗がりの中でも赤くなっているのがわかった。
「変な人」
「魔物と話す男だからな」
「それは関係ないでしょ」
二人の間に沈黙が落ちた。不快な沈黙ではなかった。灰嶺から竜の寝息のような低い振動が伝わってくる。虫の声が草むらから響いていた。
「ナギ」
セリアが名前を呼んだ。
「明日の会議、あたしも出るから」
「人間は俺とトルクだけでいい」
「あたしも橋守の里の人間よ。出る権利がある」
反論の余地はなかった。ナギは小さく笑った。
「わかった」
セリアが立ち上がった。風が止み、月が雲の切れ間から顔を出した。見張り台の上に銀色の光が落ちる。
「もう一つ」
「何だ」
「あたし、弓を引く前に父さんのことを思い出す。弦に指をかける瞬間、父さんの手が重なる。あんたも何か思い出すことがある? 魔物語を使う前に」
ナギは考えた。
「音だ。最初に魔物の声が聞こえた時の音。五歳くらいだったと思う。裏庭で虫を追っていたら、草むらからゴブリンの声が聞こえた。怖かったけど、意味がわかった。『腹が減った』って言ってた。それだけの言葉が、俺にだけ聞こえた」
「それが始まりだったの」
「ああ。それ以来、ずっと聞こえる。聞こえるから、ここにいる」
セリアが微笑んだ。月明かりに照らされた横顔。赤銅色の髪が銀色に光っている。
「いい話ね。おやすみ」
「ああ。おやすみ」
* * *
翌朝。四者会議。
広場にゴルド、ボルガ、スライムの出張所、ファングが集まった。ナギが中央に立ち、全種族に状況を伝える。
【王国の偵察部隊が近づいている。30名の武装兵だ。目的は橋守の里の実態調査】
ゴルドの白い眉が寄った。
【人間の兵が来るのか。隠れた方がよいのではないか】
ボルガが鼻を鳴らした。
【隠れてどうする。戦えばよい。30の人間など取るに足りぬ】
「戦えば大義名分を与える。『獣語りの乱の再来』として、本格的な討伐軍が来る」
ボルガの口が閉じた。
スライムの出張所が脈動した。ナギが手を触れると、概念が流れ込んだ。
【状況を分析した。武力衝突は不利。情報戦を推奨する。偵察部隊に「脅威ではない」と判断させることが最適解】
「だが竜が条件を出した」
全員の視線がナギに集まった。
「偵察部隊の前で、竜の名を呼べと。人間の軍の前で、魔物の側に立つことを示せと。それが竜との同盟の条件だ」
沈黙が広場を支配した。
ゴルドが杖を突いた。
【それは、お前が人間の世界を捨てるということではないか】
「そうだ」
【お前は、それでよいのか】
「俺は追放された時に、もう半分は捨てている。残りの半分を捨てるだけだ」
ボルガが腕を組んだ。
【竜を味方につければ、人間の30人など問題ではない】
「戦うためじゃない。竜を味方につけるのは、交渉のためだ。偵察部隊に『この集落を潰せば竜が怒る』と理解させる。それが最大の抑止力になる」
ファングが低く唸った。
【人間の嘘を嗅ぎ分けることはできる。だが30人の剣は嗅覚では止められぬ。竜がいれば、確かに止められる】
スライムの概念が流れ込んだ。
【竜の抑止力を計算に入れると、偵察部隊との武力衝突の確率は3%以下に低下する。合理的な判断と認める】
「つまり全員の同意が必要だ。俺が竜の名を呼ぶことに、反対する者はいるか」
沈黙。
ゴルドが手を上げた。
【ワシは賛成じゃ。名を呼ぶ者がいるということは、我らに架け橋がいるということじゃからな】
ボルガが頷いた。
【鍛冶の神と竜の名が同じ根を持つなら、竜との同盟はオーク族にとっても名誉じゃ】
ファングが遠吠えを上げた。短く、鋭い。賛同の声。
スライムが脈動した。
【全会一致を記録した】
ナギは深く息を吐いた。四種族の同意。あとは竜だけだ。
* * *
会議の後、セリアがナギを呼び止めた。広場の隅。誰もいない石壁の陰。
「ナギ」
「どうした」
「あたし、昨日言いそびれたことがある」
セリアの目が、まっすぐナギを見ていた。緑色の瞳に、炎のような光。
「あたしね、最初はあんたのこと、頭がおかしい人だと思ってた。魔物と話すなんて。でも今は——」
セリアの声が小さくなった。
「あんたが竜の前で名前を呼ぶ時、あたしもそこにいたい」
「危険だ。竜の前で……」
「うるさい。あたしの里の人間に手を出すなって、あの斥候隊長にも言ったでしょ」
ナギは口を閉じた。セリアの目に涙が滲んでいた。
「あんたが帰ってこなかったらどうしようかと思った。毎回、毎回。灰嶺に行くたびに、門の前で待ってた。弓を握って、北を見てた。帰ってきたら怒鳴って、それでやっと息ができた」
「セリア——」
「あたしは狩人よ。守るべきものがあるなら、弓を引く。あんたがあたしの守るべきものになったの。いつの間にか」
ナギの胸が締めつけられた。言葉が出てこない。交渉者の口が、こういう時に限って動かない。
セリアが目を拭った。乱暴に、手の甲で。
「返事はいらない。ただ、生きて帰ってきて。それだけ約束して」
「約束する」
「軽い」
「軽くない。俺が約束を破ったことがあるか」
セリアが笑った。涙と笑顔が混じった、不思議な表情。
「ないわね。魔物にもヴェルクにも、約束は守ってる」
「お前にも守る」
ナギはセリアの名前を呼んだ。竜語の深い層ではなく、人間の言葉で。ただの名前。だが意味を込めて。
「セリア。ただいま」
「……まだ行ってないでしょ」
「先に言っておく。帰ってきた時に忘れないように」
セリアが拳でナギの胸を叩いた。軽く。だが手が離れなかった。拳がそのまま、ナギの胸に留まっている。
「ばか」
小さな声だった。ナギはセリアの拳の上に、自分の手を重ねた。
温かかった。
* * *
三日後。ガリクが蒼白な顔で走り込んできた。
【ナギ! 南から人間の集団が来る! 三十以上! 鎧を着ている!】
偵察部隊。ついに来た。
ナギは広場に立った。ゴルドが杖をつき、ボルガが腕を組み、ファングが唸り、スライムが脈動している。セリアが弓を背負い、トルクが大剣の柄に手をかけた。
「門を開けろ」
ナギの声に、迷いはなかった。
「俺は橋守の里の架け橋だ。逃げも隠れもしない」
門が開いた。南の道の向こうに、鎧の光が見えた。
そして北の空に、翡翠色の影が動いた。ヴァルナザドールが灰嶺から飛び立つ。翼が空を覆う。
竜が見ている。試練が始まる。




