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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
竜の名前

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取引

四度目の灰嶺。


 今度はナギだけではなかった。セリアが弓を背負い、トルクが大剣を携え、ガリクが偵察役として先行する。ファングが森の切れ目まで案内し、そこで足を止めた。


【ここまでだ。竜の匂いの壁がある。群れの者は越えられぬ】


「いつもすまない」


【礼はいい。生きて戻れ】


 四人で灰嶺を登る。枯れた木と焼け焦げた岩。乾いた熱気。魔素の圧力が、登るほどに強くなる。


 セリアが息を荒くした。


「空気が……重い」


「魔素だ。慣れていない人間には堪える。辛かったら戻れ」


「戻らないわよ。あんたの大事な交渉でしょ」


 洞窟の入口に立った。ナギはセリアとトルク、ガリクを入口に残した。


「ここで待っていてくれ。竜の前に四人で行くと、警戒される」


 トルクが頷いた。ガリクが潅木の陰に身を隠した。セリアだけが不服そうな顔をしている。


「一人で行くの? また鼻血だらけで帰ってくるんでしょ」


「今日は鼻血じゃ済まないかもしれない」


「冗談に聞こえない」


「冗談じゃない」


 ナギはセリアの目を見た。緑色の瞳が揺れている。


「大丈夫だ。名前の意味がわかった。今度は対等に話せる」


 セリアが唇を噛んだ。何かを言いかけて、飲み込んだ。代わりに弓を強く握り直した。


「早く帰ってきなさいよ」


 ナギは洞窟に入った。


* * *


 冷気が体を包む。松明の灯りが壁を照らす。竜の鱗の破片が足元に散らばっている。暗翡翠色の欠片が、炎に照らされて深い緑を放った。


 奥に進む。壁のような鱗が見えた。呼吸の振動。洞窟全体がゆっくりと膨張し、収縮する。


 竜は目を閉じていた。だがナギの足音に反応して、片目が開いた。金褐色の光。


【来たか。繋ぐ者】


 呼ばれた。自分の名の意味で呼ばれた。まだ伝えていないのに。


「お前、俺の名の意味を知っているのか」


【我は千年を生きた。この山から、多くのものを見てきた。お前が村で人間と話す声も、山の麓で狼と話す声も、風に乗って届いていた】


 ヴェルクとの会話を聞いていたのか。ナギの背筋に冷たいものが走った。竜の知覚能力は想像を超えている。


【繋ぐ者。良い名だ。お前の母は賢い人間だったのだろう】


「会ったことがない。だが、そうだと信じたい」


 ナギは一歩踏み出した。竜の目から五歩。前回より近い。


「等価交換の対価を持ってきた。俺の名の意味は『繋ぐ者』。古い辺境の言葉だ。俺の母が、俺が生まれる前に死んだ母が、遺言でつけた名前だ」


 竜が沈黙した。夕日に似た色の瞳がナギを映している。


「俺は人間と魔物を繋ぐために生まれた。少なくとも、母はそう願った。そして俺は、その名の通りに生きている。ゴブリンと人間を繋いだ。オークとゴブリンを繋いだ。スライムと森狼族を、橋守の里という場所で繋いだ」


【そして今、竜と矮小な種族を繋ごうとしている】


「そうだ」


 竜の目が動いた。ゆっくりと、ナギの全身を舐めるように見る。品定めではない。確認だ。


【等価交換を認める】


 竜の声が洞窟を満たした。深い振動。骨に響く低音。


【我の名はヴァルナザドール。意味は『灰嶺を見守る永き者』。お前は既に知っている。だが正式に交換する。我の名の意味と、お前の名の意味を】


「受け取った」


【ならば——我の名を呼べ。正しく。完全に】


 ナギは深く息を吸った。


 体幹を振動させる。魔物語の最も深い層。肋骨が鳴り、頭蓋骨が共鳴する。大気が揺れる。額から汗が流れ、こめかみが脈打った。


【ヴァルナザドール】


 完全な名前。完全な発音。五つの音素が洞窟に反響し、壁を震わせ、天井の岩を揺らした。


 竜の鱗が震えた。暗翡翠色の鱗の一枚一枚が光を放つ。琥珀色の目が完全に開いた。両目が。巨大な瞳の中に、小さな人間が映っている。


【よい】


 竜の声が柔らかくなった。千年の孤独を溶かすような、静かな声。


【二百年ぶりに、正しく我の名を呼ぶ者が現れた。繋ぐ者よ。お前の名もまた、我が記憶に刻む】


 ナギの膝が震えた。こめかみを万力で挟まれた。だが意識は明瞭だった。竜が自分の名を「記憶に刻む」と言った。千年の記憶に、ナギの名が加わる。


 交渉の第一段階が完了した。名と名の交換。等価交換の成立。


 だがこれは始まりに過ぎない。


「ヴァルナザドール。名を交換した以上、話を聞いてほしい」


【聞こう】


「お前が魔素を吸い上げ続けている。森が枯れ、沼地が干上がりつつある。全種族が影響を受けている。このままでは」


【わかっている】


 竜が遮った。声に苛立ちが混じっていた。


【我とて好きで吸い上げているわけではない。備えが必要なのだ】


「何への備えだ」


 竜が口を閉じた。巨大な顎が噛み合わさる音が、岩のように重い。


 長い沈黙。


 ナギは待った。交渉者の忍耐。相手が口を開くまで、沈黙に耐える。


 やがて竜が、ゆっくりと口を開いた。


【北の果て。大陸の端に、古い穴がある】


 竜の声が低くなった。洞窟の温度がさらに下がった。


【千年前、そこから——あれが来た。我が同胞の多くが死んだ。それ以来、穴は塞がれていた。だが最近、魔素の流れが変わった。穴が開き始めている】


「それが、お前が目覚めた理由か」


【そうだ。我は備えている。魔素を蓄え、体を万全にし、あれが来た時に戦えるようにしている。そのために、周囲の魔素を吸い上げている。他に方法がない】


 ナギの頭の中で、交渉の歯車が回り始めた。竜は自分勝手に魔素を吸い上げているのではない。脅威に備えている。だが備えの代償として、周囲の生態系が壊れつつある。


「一つ提案がある」


【聞こう】


「お前一人で備える必要はない。俺たちがいる」


 竜が鼻で笑った。冷気が吹き付けた。


【ゴブリンとオークとスライムと人間が? 何ができる】


「名前を呼べる」


 竜の笑いが止まった。


「お前の名を正しく呼ぶ者がいる。それは一人じゃないということだ。お前の食事を管理するんじゃない。一緒に備えるんだ。お前が魔素を必要とするなら、効率よく集める方法を考える。森を枯らさずに」


 竜の目が揺れた。かすかに。千年の知性が、ナギの言葉を吟味している。


【……条件がある】


「聞こう」


【我は試す。お前の同盟が本物かどうか】


 竜の目が入口の方角を向いた。洞窟の向こう。山の向こう。南の方角を見ている。


【人間の軍が来る。お前はそれを知っているだろう。空から見た。鎧の集団が南から近づいている】


 ナギの血が冷たくなった。偵察部隊。マルコが警告していた。


【あの者たちの前で、お前は我の名を呼べるか。人間の軍に囲まれて、魔物の側に立てるか】


 竜の目がナギを射抜いた。


【それが試練だ】


 洞窟の冷気が、ナギの全身を包んだ。


 偵察部隊の前で竜の名を呼ぶ。それは王国に対して「魔物の側に立つ」と宣言することだ。獣語りの乱の再来。二百年前の汚名を、自ら被ることになる。


 ナギは二度と王国に戻れなくなる。


「……考えさせてくれ」


【考える時間はある。人間の軍が来るまでに】


 竜の目が閉じた。会話は終わった。


 ナギは洞窟を出た。日差しが目を刺した。岩に手をついて体を支える。頭痛は前回ほどではない。体が竜語に慣れ始めているのかもしれない。


 セリアが駆け寄ってきた。


「どうだった」


「名前の交換は成功した。交渉の席にはついてもらえる」


「じゃあ、良かったじゃない」


「だが条件がある」


 ナギは山の下を見た。南の方角。森の向こうにハグレ村がある。その先から、兵士たちが近づいている。


「偵察部隊の前で、竜の名を呼べと言われた」


 セリアの顔が強張った。トルクが腕を組んだ。ガリクが耳を立てた。


「それは……」


「王国に対する宣戦布告と同じだ。魔物の側に立つと、公に示すことになる」


 沈黙が山の風に乗って散った。


 トルクが口を開いた。


「で、どうする」


 ナギは灰嶺の頂を見上げた。竜の洞窟がある方角。


「やるしかない。ここまで来て、引き返す選択肢はない」


 セリアがナギの横に並んだ。


「あたしも一緒に立つわ」


「お前まで王国に」


「あたしの里でしょ。あたしが決める」


 セリアの緑色の目に、迷いはなかった。


 山を降りた。橋守の里に向かう道。ファングが合流し、五人と一匹の足音が森に響いた。


 偵察部隊が来るまで、あと何日あるかわからない。だがナギには、準備することがある。


 四者会議を開く。全種族に伝える。竜の試練と、王国の接近を。


 そして決断する。人間の世界を捨てて、魔物の側に立つ覚悟を。


 ナギの足は震えていなかった。だが胸の奥で、何かが軋んでいた。

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