旗印
ヴェルクは眠れない夜を過ごしていた。
ハグレ村の宿舎。元は穀物倉庫だった建物を、部下たちと間仕切りして使っている。壁の隙間から夜風が入り込み、蝋燭の炎が揺れた。
机の上に、書きかけの報告書がある。
『辺境監視任務報告。追放者ナギは依然として魔物との接触を継続。集落の規模は拡大傾向。推定戦力……』
ペンが止まる。ヴェルクは金色の髪を掻き上げた。指先が微かに震えている。
推定戦力。数字を書けば、将軍は動く。討伐か、偵察か。いずれにせよ、兵が来る。兵が来れば、橋守の里は終わる。
ヴェルクの口の中が渇いた。
窓の外。村の通りを、子供が走り抜けた。手にゴブリンのキノコを持っている。乾燥させたキノコは保存が効き、冬の備蓄に重宝される。去年まで、この村に冬の備蓄などなかった。
オークの鍛冶ナイフが村の猟師に行き渡り、獣の解体効率が上がった。スライムの粘液で防水加工した革は、雨季の作業着として村人に引っ張りだこだ。
全て、ナギが始めたことだ。
追放した男が作った集落が、辺境を変えている。
部下のクルツが仕切りの向こうから声をかけた。
「隊長。報告書、まだですか。将軍からの催促が三度目です」
「わかっている」
「書けないのですか」
ヴェルクの背筋が強張った。クルツの声には、探るような響きがあった。
「書いている。明日には仕上げる」
クルツが黙って引き下がった。足音が遠ざかる。
ヴェルクはペンを握り直した。先端のインクが乾いて固まっている。新しいインクに浸した。黒い液体がペン先に吸い込まれる。
書け。お前は斥候隊長だ。軍の命令に従え。報告書を書き、真実を伝えろ。追放者が魔物と同盟を結び、集落を形成した。竜が目覚めた。辺境が変わろうとしている。
だが真実を書けば、ナギは潰される。橋守の里は焼かれる。村の子供がキノコを食べる日常が消える。
ヴェルクの手が止まった。
「……くそ」
低い声が漏れた。誰にも聞かれていないことを確認して、ヴェルクは報告書を裏返した。
* * *
翌朝。ナギはセリアとトルクを連れて、ハグレ村に向かった。
森を抜け、南へ半日。村の入口に着いた時、日が傾き始めていた。
村人たちの視線がナギに集まる。以前ほどの敵意はない。だが警戒はある。魔物と暮らす男。異端だが、村に利益をもたらしている。複雑な感情が視線に混じっていた。
「ナギさん!」
リーナの声がした。リーナは週に一度、村に薬を届けに来ている。橋守の里と村を繋ぐ細い糸だ。
「ヴェルクはどこにいる」
「村の南端の宿舎です。でもナギさん、あの人、最近ずっと機嫌が悪くて」
「知ってる。行ってくる」
宿舎の前に、兵士が二人立っていた。ナギの顔を見て剣に手をかけた。
「何の用だ。追放者が軍の施設に近づくな」
トルクが一歩前に出た。大剣の柄が陽光を弾く。兵士たちの目が泳いだ。トルクの体格は兵士を上回っている。
「用があるのは俺だ」
ナギが前に出た。トルクを手で制する。
「ヴェルクに会いたい。個人的な用件だ。戦いに来たわけじゃない」
兵士が顔を見合わせた。奥から声が聞こえた。
「通せ」
ヴェルクの声だった。低く、硬い。
宿舎の中は薄暗かった。窓が一つ。机と椅子と寝台。壁に剣が立てかけてある。報告書が裏返しで置かれていた。
ヴェルクが椅子に座ったまま、ナギを見た。端正な顔に疲労が滲んでいる。目の下に隈があった。金色の髪が乱れている。以前のヴェルクなら、髪一本の乱れも許さなかったはずだ。
「何の用だ、ナギ」
「取引がしたい」
ヴェルクの目が細くなった。
「追放した男が、取引を持ちかけに来た?」
「そうだ。俺の入隊時の身元引受書を見せてほしい。それだけだ」
「身元引受書?」
ヴェルクの眉が上がった。想定外の要求だったらしい。
「なぜ今さらそんなものが必要だ」
「俺の名前の由来が知りたい」
ヴェルクが黙った。ナギを見つめている。嘘を探すような目。だが嘘はない。
「名前の由来? それが何の役に立つ」
「竜との交渉に使う」
ヴェルクの体が微かに揺れた。椅子が軋む。竜という言葉に反応している。
「竜。あの地鳴りの正体は……本当に竜なのか」
「本当だ。俺は竜と話した。名前も知っている。だが交渉を完了するには、俺の名前の意味を竜に伝えなければならない。身元引受書にそれが書いてある可能性がある」
ヴェルクの指が机を叩いた。規則的なリズム。考えている時の癖だ。ナギは斥候隊にいた頃から、この癖を知っていた。
「なぜ私がお前の頼みを聞く」
「あんたはまだ報告書を送っていないだろう」
ヴェルクの指が止まった。
「送れないんだ。橋守の里を潰したら、辺境の魔物問題は悪化する。あんたの仕事が増える。将軍への報告も書きづらくなる」
「……読まれているな」
「交渉者だからな」
ヴェルクの目に、複雑な光が浮かんだ。嫌悪と、どこか別の感情。認めたくない何か。
「取引だ。俺の記録を見せてくれ。代わりに、辺境の魔物動向の情報を定期的に提供する。あんたの報告書に書ける情報だ。将軍に送っても問題のない内容にする」
「……お前は、私に嘘の報告書を書けと?」
「嘘じゃない。魔物の動向は事実だ。俺の集落のことを書くか書かないかは、あんたの判断だ」
長い沈黙。壁の向こうで兵士たちの足音が聞こえる。窓から夕日が差し込み、机の上のインク壺が赤く光った。
ヴェルクが引き出しを開けた。束になった書類の中から一枚を抜き出す。黄ばんだ紙。軍の紋章が押された公文書。
「五年前の入隊記録だ。身元引受人は——孤児院の院長。備考欄に一行だけ」
ナギは書類を受け取った。手が震えた。竜の前でも震えなかった手が。
備考欄。院長の筆跡。
『母親の遺言により命名。「ナギ」は古い辺境の言葉で「繋ぐ者」の意。母親名: ハルナ。父親不明』
繋ぐ者。
ナギの目が熱くなった。文字が滲んだ。
「……ハルナ」
母の名前。初めて知った。ハルナ。古い辺境の言葉で「繋ぐ者」と名付けた母。
「繋ぐ者、か」
ヴェルクの声が聞こえた。低い声。嘲りはなかった。
「皮肉だな。軍から追放された男が、本当に繋ぐ者だったとは」
ナギは書類を返した。文字は頭に焼きついている。
「取引は成立だ。魔物動向の報告は、リーナが毎週届ける」
「……わかった」
ナギは立ち上がった。出口に向かう。背後でヴェルクの声がした。
「ナギ」
振り返らなかった。
「報告書を送る時は、正直に書け。嘘を混ぜるな」
足を止めた。ヴェルクに背中を向けたまま言った。
「ファングの群れは、嘘の匂いを嗅ぎ分ける。あんたの部下が森で何をしても、俺は知る」
ヴェルクの息を呑む音が聞こえた。
ナギは宿舎を出た。夕日が赤い。セリアとトルクが待っていた。セリアの目が、ナギの顔を見て変わった。
「泣いてるの?」
「泣いてない。日が眩しいだけだ」
「嘘。目が赤い」
ナギは空を見上げた。赤い空の向こうに、灰嶺が霞んでいる。
「名前の意味がわかった。ナギは——繋ぐ者、だってさ」
セリアが目を丸くした。
「繋ぐ者……」
「母さんがつけた名前だった。ハルナって名前の人だ。会ったことはない」
セリアが何かを言いかけて、やめた。代わりにナギの腕を軽く叩いた。
「いい名前じゃない。あんたにぴったり」
トルクが背を向けた。肩が小さく揺れている。笑っているのか、別のことなのかはわからなかった。
帰路。森の中を歩きながら、ナギの胸の中で一つの言葉が響いていた。
繋ぐ者。母がつけた名前。人間と魔物を繋ぐ者。
ヴァルナザドール。灰嶺を見守る永き者。
二つの名前の意味が、交渉のテーブルに並ぶ。等価交換の最後の一手。
竜が待っている。




