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魔物交渉者 〜「気味が悪い」と追放された斥候は、魔物と交渉するだけで最強の領地を築き上げる〜  作者: 景都 (けいと)
竜の名前

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再訪

三度目の灰嶺。洞窟の入口に立った時、ナギの足は止まらなかった。


 三度目の灰嶺。今度も一人だ。ファングが麓まで送り、金色の目で見送った。


【死の匂いはしない。だが、無茶の匂いはする】


「無茶と挑戦は紙一重だ」


【人間はよくわからぬ】


 ファングの尾が一度だけ揺れた。心配の表現だ。ナギは狼の額を撫で、山を登った。


 灰嶺の斜面は生き物の気配がない。枯れた木の幹が白く曝され、岩の表面に焼け焦げた跡が点在している。魔素の濃度が肌を刺す。息を吸うたびに、肺の奥が痺れた。


 洞窟に入る。冷気が纏わりつく。前回の記憶を頼りに、暗闇を進んだ。松明の炎が壁に揺れる影を描く。


 奥に竜の鱗が見えた。暗翡翠色の壁。呼吸のリズムが空気を震わせている。


 ナギは足を止めた。リーナの薬を一瓶飲む。苦味が喉を焼いた。頭が冴える。


 肋骨の底から音を絞り出した。魔物語の最も深い層。胸骨が振動し、大気が共鳴する。喉ではなく、体全体で音を紡ぐ。


【ヴァルナザ】


 末尾が欠けている。音が途切れ、洞窟に反響して消えた。


 竜の片目が開いた。琥珀色の光が闇を裂く。瞳の焦点がナギに合った。


 前回より近い位置にいる。竜の目まで十歩。巨大な瞳の中に、松明を持つ小さな人間の姿が映っていた。


【……また来たか、小さき者よ】


 竜の声。ゆっくりとした振動。前回と同じように、ナギに「聞かせるため」に速度を落としている。だが今回は一つ、違う感触があった。


 声の奥に、微かな温度がある。


 怒りでも嘲りでもない。興味だ。


【不完全だ。前回と変わらぬ】


「わかっている。末尾はまだ見つけていない」


 ナギは人間語で答えた。竜語で返す力を温存するためだ。竜はナギの人間語も理解する。千年の知性は、矮小な種族の言葉程度は拾える。


【ならばなぜ来た。足りぬものを持たずに、我の前に立つ意味があるか】


「ある。お前に聞きたいことがある」


 竜の目が細くなった。


【聞きたいこと。矮小な者の問いに答える義理はない】


「義理じゃない。等価交換だ。お前が俺に問うたように、俺もお前に問う」


 竜の呼吸が止まった。一瞬だけ。洞窟の空気が凍りついた。


 ナギの心臓が跳ねた。踏み込みすぎたか。だが退くわけにはいかない。


【……面白い。問え】


 許可が出た。ナギは膝の震えを押し殺した。


「二百年前の架け橋は、お前の名を半分まで知った。そして寿命が尽きた。あの人は、お前に名の意味を聞いたか」


 竜が沈黙した。暗い琥珀の瞳の中で、何かが動いた。記憶を辿っているのだ。千年分の記憶の中から、二百年前の一つを掘り起こしている。


【聞いた。あの男は我の名の意味を尋ねた。だが答える前に、死んだ】


「お前は、答えるつもりだったのか」


 竜の目が見開かれた。今までで最も大きく。洞窟に琥珀色の光が満ちた。


 長い沈黙。


【……そうだ。答えるつもりだった。あの男は、正しく我の名を呼ぼうとした。それだけで、答える価値があった】


 ナギの胸が熱くなった。二百年前の架け橋。竜の名を呼ぼうとして、届かなかった人。竜は覚えていた。答えようとしていた。


「お前は寂しかったんだな」


 口を突いて出た言葉だった。交渉者としては最悪の一手。感情を読み取ったことを直接告げるなど、相手のプライドを傷つける。


 竜の鱗が逆立った。洞窟が軋んだ。冷気が刃のように肌を裂く。


【矮小な者が。我を——憐れんでいるのか】


「違う」


 ナギは一歩踏み出した。竜の目から七歩。


「理解している。お前の名を呼ぶ者がいなかった。千年の間、名を正しく呼ばれなかった。名は存在の証だと、ゴブリンの長老が言っていた。名を呼ばれない存在は」


【黙れ】


 竜の声が洞窟を揺らした。松明が消えた。暗闘の中で、古い蜂蜜のような瞳だけが燃えている。


 上唇を温かいものが伝った。竜語の圧力。だが倒れなかった。


「俺も同じだった」


 暗闘の中で、ナギは語った。人間語で。静かな声で。


「魔物語が聞こえる子供は、気味悪がられる。名前を呼ばれなかった。『あいつ』『あの子供』。軍に入っても『魔物憑き』。俺の名を呼んでくれたのは、マルコだけだった。追放された日、マルコが最後に俺の名を呼んだ。それだけで、少しだけ、救われた」


 竜が沈黙した。洞窟の中で、竜の呼吸だけが響いている。ゆっくりとした、深い呼吸。


 どれだけの時間が経ったかわからない。


 やがて、竜が口を開いた。前よりも静かな声で。


【小さき架け橋よ。二百年ぶりだ。我に名を尋ねる者が現れたのは】


 ナギの目が大きくなった。「架け橋」。竜がその言葉を使った。


【あの男も架け橋と名乗った。お前もか】


「俺は……まだわからない。自分の名の意味を知らない」


【知らぬか。ならば調べて来いと言ったはずだ】


「調べる。だがその前に、もう一つ聞かせてくれ」


 ナギは血を拭いながら、竜の目を見上げた。


「お前の名、ヴァルナザの後に続く音。それは、お前にとってどんな意味がある」


 竜の目が揺れた。千年を生きた存在の目が、揺れた。


【『ドール』。見守る者という意味だ。我はヴァルナザドール。灰嶺を見守る永き者】


 名前の末尾。竜自身の口から出た。


 ナギの全身が震えた。等価交換の条件を満たす前に、竜が名の末尾を明かした。なぜだ。


「等価交換は」


【まだ終わっていない。お前の名の意味を、我はまだ受け取っていない。だが、前払いだ】


 竜が低い笑い声を上げた。洞窟が揺れた。


【二百年前の男は、我の名を尋ねて死んだ。お前は、死ぬ前に答えを聞け。前払いの利息として、我の名を正しく呼べ。今ここで】


 前払い。利息。竜が商取引の概念を使っている。千年を生きた知性は、あらゆる種族の価値観を吸収しているのだ。


 ナギは深く息を吸った。全身の骨を震わせる。魔物語の最も深い層。肋骨が振動し、頭蓋骨が共鳴する。額から血が滲む。喉が焼ける。


【ヴァルナザドール】


 洞窟が鳴った。岩壁が震え、天井から砂が落ちた。


 竜の鱗が波打った。暗翡翠色の鱗の一枚一枚が、微かに光を放つ。琥珀色の目が完全に開いた。両目が。千年ぶりに、両目を開いたのかもしれない。


【——よい。二百年ぶりに、正しく我の名を呼ぶ者が現れた】


 ナギの膝が折れた。視界の端が白く滲んだ。だが聞こえた。確かに聞こえた。竜の声に、温度があった。


 怒りでも嘲りでもない。


 歓びだ。


* * *


 洞窟を出たナギは、岩に背をつけて崩れ落ちた。


 鼻腔の奥で何かが切れたまま塞がらない。リーナの薬の二瓶目を飲んだ。頭の芯が軋んでいる。だが意識は明瞭だった。


 ヴァルナザドール。竜の完全な名前。灰嶺を見守る永き者。


 等価交換の債務が残っている。ナギの名の意味。それをヴァルナザドールに返さなければ、取引は完了しない。


 ファングが麓から駆け上がってきた。血の匂いを嗅ぎつけたのだろう。


【生きているか】


「生きてる。竜の名がわかった」


 ファングの耳がぴくりと立った。


【名がわかったのか。で、何という】


「ヴァルナザドール。灰嶺を見守る永き者」


 ファングが遠吠えを一声、上げた。山に反響し、森に消えていく。


【群れに伝える。竜の名を知った者が現れたと】


「大袈裟だな」


【大袈裟ではない。千年で誰も成し遂げなかったことだ】


 ナギは立ち上がった。足がふらついた。ファングが体を寄せ、ナギは狼の背に手を置いて山を降りた。


 橋守の里が見えた時、門の前にセリアが立っていた。前回と同じだ。弓を抱えて、北を見つめている。


 ナギの姿を見て、セリアが走り出した。


「ナギ! また血だらけじゃない」


「名前がわかった」


 セリアが足を止めた。


「竜の?」


「ヴァルナザドール。見守る者って意味だ。残りの借りを返すために、次はヴェルクに会いに行く」


 セリアの表情が硬くなった。


「ヴェルクに? 何のために」


「俺の名前の意味を調べるためだ。軍の記録にある」


 セリアが唇を噛んだ。緑色の目が揺れている。


「あたしも行く」


「危険だ」


「危険じゃないわよ。あんた一人でヴェルクに会う方が危険。あたしがいれば、あいつも馬鹿なことはしない」


 反論できなかった。セリアの目は本気だった。


 トルクが水桶を持って近づいてきた。


「竜の名がわかったって?」


「ああ。次は人間との交渉だ」


「そっちの方が厄介だな」


 ナギは顔を洗った。冷たい水が血を洗い流す。赤い水が地面に染み込んだ。


 北を見た。灰嶺の頂が夕日に照らされて赤く燃えている。ヴァルナザドールがあそこにいる。名前を呼んだ。覚えている。


 南を見た。ハグレ村の方角。ヴェルクがいる。


 竜との交渉は、名を呼ぶことで前に進んだ。人間との交渉は、何で前に進むのか。


 答えはまだ見えない。だが動くしかない。

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