名の欠片
橋守の里に戻ったナギの鼻血は、翌朝まで止まらなかった。
リーナが枕元で薬を調合している。すり鉢の中で何かの根を潰す音が、規則的に響いていた。
「血が止まらないのは、脳が腫れているからです。竜の言語は情報密度が高すぎて、受信するだけで血管に負荷がかかるんですよ」
「わかりやすく言ってくれ」
「頭を使いすぎました。三日は安静にしてください」
ナギは石壁にもたれたまま、天井を見上げた。三日。竜は待ってくれるだろうか。
窓から差し込む光が、石壁に斜めの線を引いている。砦の部屋は狭いが、リーナが薬草を吊るして乾かしているせいで、独特の香りがこもっていた。苦い草と、甘い樹液の混じった匂い。
ゴルドが朝一番に見舞いに来た。小さな体を揺らしながら、石段をよじ登り、ナギの顔を覗き込む。骨の飾りが耳元でかちかちと鳴った。
【顔色が悪いぞ、ナギ。死にかけの魚みたいな顔じゃ】
「褒め言葉か」
【褒めてはおらぬ。で、竜は何と言った】
ナギは体を起こした。頭がずきりと痛む。だが報告は待てない。
「竜の名前の末尾がわかれば、交渉の席につける。だがそのために、俺の名前の意味を差し出さなきゃならない」
ゴルドの白い眉が上がった。
【お前の名の意味? 人間にはそういうものがあるのか】
「あるらしい。ただ、俺は知らない」
【知らぬのか。ゴブリンは生まれた時に名の意味を唱える。名は存在の証じゃ。意味を知らぬ名は、空の器と同じ】
空の器。ナギは苦笑した。二十年間、空の器で生きてきたということか。
ゴルドが杖を膝の上に横たえ、目を閉じた。しわだらけの口が動く。
【子守唄がある。婆さまが歌っておった。灰嶺の主のことを歌った古い唄じゃ】
「覚えているか」
【忘れるものか。ゴブリンは文字を持たぬ。全ては唄で伝える】
ゴルドが唄い始めた。甲高く、抑揚のない声。人間の耳には不快な金切り声にしか聞こえないだろう。だがナギの魔物語が、旋律の中に意味を拾った。
灰嶺の主。その名は「ヴァル」で始まる。山を焼き、雲を裂き、千年の眠りにつく者。名を呼ぶ者なく、名を忘れる者なく、灰の中で待ち続ける。
唄が終わった。ゴルドの目が開いた。
【これだけじゃ。名の全体はわからぬ。だが『ヴァル』で始まることだけは確かじゃ】
「充分だ。ありがとう、ゴルド」
【礼を言うな。情報には対価を。キノコ酒を一杯もらおうか】
リーナが既に杯を用意していた。ゴルドが満足そうに受け取る。
午後、ボルガが来た。石造りの部屋の入口に立つと、天井に頭が届きそうだった。
【人間よ。竜と話したのは本当か】
「話した。名前の交換を求められている」
【名の交換。竜は礼儀を重んじるのだな。ワシらの古歌にも、竜は名を尊ぶとある】
「その古歌、もう少し詳しく聞かせてくれないか」
ボルガが腕を組んだ。巨体が部屋の明かりを遮る。
【鍛冶の祈りの歌じゃ。『灰嶺の主よ、炎を授けたまえ。汝の名の一片、鉄に宿せ』。鍛冶の神と竜は、オークの伝承では同一の存在とされておる】
「その歌の中に、竜の名の音は含まれているか」
【含まれておる。歌の中に『ザ』の音がある。『ヴァルナザ』の『ザ』と同じ根じゃろう】
ナギはリーナに目配せした。リーナが羊皮紙に書き留めている。
* * *
翌日。ナギは安静の言いつけを破って広場に出た。リーナが渋い顔をしたが、止めなかった。止めても無駄だと知っているからだ。
広場にはゴルドとボルガ、そしてスライムの「出張所」が集まっていた。水たまりのような半透明の塊が、地面の窪みで微かに脈動している。
ナギはスライムに手を翳した。触れた瞬間、概念が流れ込む。こめかみが脈打ったが、竜語に比べれば軽い。
【データ要求を受信。竜の名称に関する音素情報を提供する。等価交換として、魔素含有鉱水の追加供給三日分を要求する】
「了解した。三日分出す」
ナギが手を離した。額を押さえる。スライムの概念言語も、長く触れていると頭に響く。
「リーナ、スライムの記憶にある音素は三つ。ヴァル、ナ、ザ。順序は不確定だと」
リーナが石板と羊皮紙を広げた。目が輝いている。研究者の顔だ。
「ナギさん、石板に残っている文字と照合しますね。石板の配置だと、『ヴァル』が先頭で『ザ』が三番目の位置にあります。スライムの『ナ』は二番目に入るはずです」
「つまり、ヴァル・ナ・ザ。ここまでは確定か」
「はい。でも末尾がまだわかりません。石板の末尾は完全に風化していて——」
リーナが石板を裏返した。スライムの粘液で洗浄した裏面。薄く浮かび上がった文字を、ナギが読み上げる。
古い魔物語だ。文体が現代とは違う。だが意味は拾える。
「『竜の名は音にあらず。心にあり。名の最後の音は、竜自身に聞け』」
全員が黙った。
ゴルドが頭を掻いた。
【竜に聞けと言われても、竜は名を知らぬ者とは話さぬのじゃろう。矛盾ではないか】
ボルガが鼻を鳴らした。
【矛盾ではない。不完全な名で挑み、残りを竜から勝ち取れということじゃ。鍛冶と同じだ。完全な刃は、最後の一打で決まる】
「最後の一打を、竜自身に打ってもらう」
ナギは石板を見つめた。二百年前の架け橋が遺した言葉。同じ砦に立ち、同じ竜に会い、同じ壁にぶつかった先人。あの人は名前を完成させる前に死んだ。
今度は完成させる。
だが方法がまだ見えない。不完全な名で竜の前に立ち、残りの一音を引き出す。竜は「等価交換」を求めている。ナギの名の意味と、竜の名の末尾を交換する。
ナギの名の意味。
「俺の名前の由来を知っている人間は、いるか」
声に出した。セリアとトルクが広場の隅にいた。セリアが首を振った。
「あたしが知るわけないでしょ。ハグレ村の出身じゃないんだから」
トルクが腕を組んだ。
「軍の記録に身元引受書がある。入隊時に提出する書類だ。親の名前や命名の由来が書かれていることがある」
「軍の記録か」
ナギの声が低くなった。軍の記録は斥候隊の管轄だ。斥候隊長の管轄。
「ヴェルクの手元にあるってことか」
トルクが黙って頷いた。
リーナが石板を抱えたまま、不安そうにナギを見ている。ゴルドの白い眉が寄った。ボルガの腕が組み直される。
竜の名の末尾を知るには、自分の名の意味が要る。自分の名の意味を知るには、軍の記録が要る。軍の記録を持っているのは、自分を追放した男。
三重の壁。
ナギは空を見上げた。北に灰嶺が霞んでいる。南にハグレ村がある。
「まず竜にもう一度会いに行く。不完全な名で挑む。そのあとでヴェルクに会う」
セリアが眉を上げた。
「順番、逆じゃないの。先にヴェルクから記録をもらえば——」
「竜に会って、反応を見たい。不完全な名をどう受け取るか。それで交渉の組み立てが変わる」
交渉者の勘だった。相手の出方を見てから、手札を整える。竜が完全に拒絶するなら、ヴェルクに頭を下げる価値があるかどうかも変わる。
トルクが水桶を持って立ち上がった。
「で、いつ行く」
「明後日。リーナ、頭痛止めをもう二瓶頼む」
「三日安静って言ったのに」
「二日で充分だ」
リーナが深いため息をついた。だがすり鉢に手を伸ばしている。薬師は患者の無茶を止められないことを、もう知っている。
ゴルドが杖をついて立ち上がった。
【ナギよ。名は存在の証じゃと言った。お前の名の意味が見つかった時——お前は、何者になるのかのう】
「さあな。話してみないとわからないだろ」
ゴルドが歯のない口で笑った。ナギも笑った。頭痛が少しだけ和らいだ気がした。




