古き声
洞窟の入口に立った時、ナギの手は震えていなかった。
二度目の灰嶺。今度は一人だ。セリアもトルクも里に残した。ファングが山の麓まで案内し、金色の目で見送った。リーナの薬が二瓶、懐にある。
ナギは一瓶目を飲んだ。苦味が舌の裏側まで染みる。頭のもやが晴れた。
洞窟に入る。冷気が体を包む。前回と同じだ。暗闇の中を松明の灯りだけで進む。足元に竜の鱗の破片が落ちている。暗翡翠色が松明に照らされて、深い緑の光を弾く。
奥に進んだ。前回より深く。壁のような鱗が見えてきた。呼吸のリズムが空気を揺らしている。
竜は目を閉じている。眠っているのか、起きているのか。ナギには判断がつかない。
足を止めた。息を整える。
全種族の知識を集めた。ゴルドの子守唄。ボルガの鍛冶祈り。スライムの記憶データ。リーナが洗浄した石板の追加情報。断片を繋ぎ合わせ、名前の骨格を組み上げた。
だが、完全ではない。末尾が欠けている。それでも来た。不完全な名前で挑む。
ナギは全身の骨を震わせた。魔物語の最も深い層。ゴブリン語でもオーク語でもスライムの概念言語でもない。もっと古い、もっと根源的な音の体系。骨の振動が大気を共鳴させる。
【ヴァルナザ】
末尾が欠けている。音が途切れた。洞窟に反響が走り、消えた。
竜の片目が開いた。
金褐色の光が闇を裂く。前回とは違う。瞳の焦点がナギに合っている。見ている。認識している。
竜が声を発した。
今度はゆっくりだった。前回の暴風のような情報の奔流ではなく、一つ一つの概念を丁寧に並べるような速度。ナギに「聞かせるため」に速度を落としている。
リーナの薬が脳を守っている。それでも額から汗が流れた。こめかみが脈打つ。だが意味が取れた。前回より、はるかに多くの意味が。
【不完全だ】
そうだ。わかっている。
【だが、前よりは近い】
ナギの目が見開かれた。竜が返事をしている。会話だ。
【お前は努力した。その程度のことは、認めてやろう】
竜がナギと「会話」をする意思を示した。ナギの膝から力が抜けそうになった。だが踏ん張った。ここで倒れたら、次はない。
【お前は、何者だ】
竜が問うた。ゆっくりとした振動。洞窟の壁が細かく震える。
ナギは答えた。骨を震わせ、大気を鳴らす。
【俺はナギ。橋守の里から来た。ゴブリンとオークとスライムと人間が暮らす集落の、通訳だ】
【通訳。矮小な種族どもの通訳が、我の名を知ろうとしている】
【知ろうとしている。お前の名を呼ぶために来た】
竜の目が細くなった。光が柔らかくなった、とナギは感じた。気のせいかもしれない。だが、敵意ではなかった。
【……二百年ぶりだ】
ナギは耳を疑った。
【我の名を尋ねる者が現れたのは。架け橋。お前も架け橋か】
「架け橋」。竜がその言葉を知っている。二百年前の架け橋と会っているのだ。
【はい。俺はこの砦の地下にあった石板を読みました。二百年前の架け橋が残した記録です】
【あの男か。名を聞いてきて、途中で死んだ。我の名の半分を覚えたところで、寿命が尽きた。人間は短命だ】
二百年前の架け橋は、竜の名前を完成させる前に死んだのか。ナギの胸が痛んだ。同じ場所に立っていた先人の無念が、石板の文字に込められていた。
【小さき架け橋よ。お前の名を完全に呼ぶには、あと何が足りないか、わかるか】
【末尾の音です】
【そうだ。我の名の末尾。それは教えてやってもいい。だが等価交換だ】
等価交換。スライムと同じ原理だ。知的存在の普遍的な価値観。
【お前の名を、我に教えよ。ただの名ではない。お前の名の意味を】
名前の意味。
ナギは黙った。
ナギ。自分の名前。意味は知らない。名前をつけたのは母親だ。だが母は物心つく前に亡くなっている。父の記憶もない。孤児として軍に拾われ、斥候として育てられた。
名前の由来を聞いたことがない。
【……わからない。俺は、自分の名前の意味を知らない】
竜が沈黙した。長い沈黙。洞窟の中で竜の呼吸だけが響いている。
【知らぬか。ならば調べて来い。次に来る時は、お前の名の意味を持って来い。等価交換。名と名の交換だ】
竜の目が閉じた。
会話は終わった。竜の巨体が微かに動いた。寝返りだ。洞窟が震えた。冷気が一段強くなる。
ナギは後ずさりした。松明はとうに消えている。竜の閉じた目の残光だけが、暗闇に薄い琥珀色を残していた。
手探りで壁を辿り、出口に向かう。途中で二瓶目の薬を飲んだ。こめかみの圧迫が少し和らいだ。だが体力の消耗は激しい。竜の言語を受信するだけで、全身が搾り取られる。
* * *
洞窟の外に出た。岩に背をつけて座り込んだ。頭が割れそうだ。鼻血がまだ止まらない。だが頭の中は明瞭だった。
竜は会話に応じた。名前の交換を求めてきた。交渉の余地がある。だが条件がある。
自分の名前の意味。
知らない。知る方法も思いつかない。
ファングが山の麓で待っていた。ナギの顔を見て鼻を鳴らした。
【血の匂いがする。だが死の匂いはしない。また生きて戻ったな】
「ああ。竜と話した」
【話したのか。で、どうだった】
「名前を交換しろと言われた。俺の名前の意味と、竜の名前の末尾を交換する」
【お前の名の意味か。ワシは知らぬぞ、人間の名前の意味など】
「俺も知らない。だが調べる方法が一つだけある」
ナギは立ち上がった。足がふらつく。ファングが体を寄せてきた。ナギは狼の背に手を置いて体を支えた。
山を降りる。森を抜ける。橋守の里に戻る。
セリアが門の前で待っていた。弓を抱えて立っている。ナギの姿を見た瞬間、走り出した。
「ナギ!」
セリアがナギの前で止まった。鼻血の跡と汗にまみれた顔を見て、目が大きくなった。
「ばか。一人で行くから」
「生きて帰ったぞ」
「当たり前でしょ。帰ってこなかったらどうしようかと思った」
セリアの声が震えていた。怒りではない。ナギは手を伸ばした。セリアの肩に触れた。
「お前がいるから、帰ってこられる」
セリアが顔を伏せた。赤銅色の髪が顔を隠した。肩が小さく揺れている。
「……あんた、血だらけの顔でそういうこと言わないでよ」
「すまない」
「謝るな。顔洗ってきなさい」
ナギは笑った。顔を洗いに井戸に向かう途中で、トルクが水桶を差し出してきた。
「で、どうする」
「名前を調べる。俺の名前の意味を」
「お前の名前の意味?」
「竜が、名と名の交換を求めてきた。俺の名の意味を伝えれば、竜の名の末尾を教えると」
トルクが水桶を置いた。
「お前の名前の由来を知っている奴は、いるのか」
「一つだけ心当たがある。軍の入隊記録だ。俺の身元引受書にある情報が必要だ」
「軍の記録? それは」
「ヴェルクの管轄だ」
トルクが黙った。
ナギは顔を洗った。冷たい水が血と汗を流した。拭いた布が赤く染まっている。
竜の名の末尾を知るために、追い出した男に頭を下げなければならない。竜より、人間との交渉の方が難しいかもしれない。
ナギは北を見た。灰嶺が夕日に照らされて、赤く燃えている。あの山に竜がいる。名前を待っている。
そして南に、ヴェルクがいる。
二つの交渉を同時に進める。




