ハニーベル・ハルディンの表明 二
お母さん、お母さん。小さな子供の声が聞こえてくる。
ねぇ聞いて、見て、お話して、読んで、わかって、笑って、傍にいるって言って、どこにも行かないって約束して、おいていかないで。
随分勝手なことばかり聞こえてくる。お母さんを困らせていったい何がしたいのだろう。か細い神経質そうな声がねぇ、ねぇ、ねぇ、と断続的に聞こえてくる。
気が狂いそうだ。毎日それを聞かされているこちらの身にもなってほしいが、幼い子供にはそんなことはわからないだろう。自分のように賢くなければ。
あたしは違う、そんなワガママばかり言わない。お母さんを困らせたりしない。
だいたいあんたのせいでお母さんは。
ハニーベルは跳ね起きるように悪夢から目を覚ました。
家から持ってきた寝間着には汗がぐっしょりとしみこんでいる。ベッドは乱れておらず綺麗なままだが、背中の部分は少し湿っている。
使用人に頼んで綺麗にしてもらわないと、と仕事を増やしたことを悔やむ。
酷い夢を見た。
多少は事実だが誇張された内容だった。
確かに妹は病床の母に毎日会いに行き、彼女の療養を邪魔した。死が何かもわからずとも母が消えていくのを本能的に察知したのか、賢明に繋ぎ止めようとしていた
それが父の機会と姉の時間を奪い、母の独り占めになるとは考えられないほど子供だった。
……いや、あたしならちゃんと気づいていた。弁えていた。ハニーベルは何より自分にその考えが浮かぶことを恥じていた。
ハニーベルは尋常ではなく”デキる”子供だった。なんだってコツを掴めばできたし、物覚えは早いし、運動神経もよかったためどんなスポーツも楽しめた。
言われなくても理解できたし、実践できたし、配慮できたし、それが苦痛じゃなかった。
だから言われてもできない妹の、ミネオラのことを愚鈍だと思っていた。
嫌いなわけではない、むしろ大切な妹で愛している。それとは違い、純然たる事実として愚鈍だと思っていた。だから姉の自分が助けてやらねばならないと思っていた。どうせできないだろうから、と最初から答えを用意してあげて、難易度を下げた問題を与える。
そういう接し方をいつだってしてきた。それは結局のところいつも正確だった。彼女はデキる姉だったので。
ミネオラはいつもハニーベルの「ここだろうな」というポイントやタイミングで失敗した。家庭教師との勉強、友達との付き合い、親戚とのあいさつ、使用人との不和、二次性徴による戸惑い、学校でのポジション設定。
『よくもまぁ学習もせずに』
ハニーベルは心底そう思いながら、愛を持って妹を助けた。果敢に挑戦するなら応援したのに、力量を見極めた撤退なら褒めたのに。
ただ俯いて災難が通り過ぎるのをひたすらに待つだけなものだから、とくに何か言うことは無い。
ただ助けて彼女についた汚れを払ってあげたら、後は自分の足で帰ってくるように願うだけで先に帰る。
それが妹と決定的に合わないとわかったのは、去年のことだった。
『そんなに私、かわいそうですか?』
か細い震えた声だった。
『かわいそうと思ったことは無いわよ。ただ一人で何もできないと知っているだけ』
ミネオラは暗くて静かで自己主張が苦手な子だった。違う、そういう子になるべくしてなった
母がまだ存命の時、心無い親戚がまだ幼い彼女に言った。
「ミネオラちゃんを産んで身体を壊してしまったんだよ」
その時から明るい彼女は消えてしまった。
ずっと家族三人にごめんなさい、ごめんなさい、と泣き続けた。両親も姉も必死に彼女を慰めたが、どうにもならなかった。
母は気力を無くしていき、父は余裕を無くしていき、姉は必要なことではないと結論付けた。
いくら慰めても幼い妹には届かない、だから下手に慰めたりしないで彼女が落ち着くのを待った。
そうするとミネオラは落ち着いたように取り繕うのが上手くなった。この姉妹はそういうことの繰り返しで十年も過ごしてしまった。
自分のせいで母や家族を苦しめた、と内罰的になり、母と必死に喋ろうとする自分を見る姉の”うるさいなこいつ”という視線に気づいて喋るのが怖くなり、パニックを起こし泣きじゃくって周囲を対応に追わせた幼い自分を思い返し、自分の内心を一切言わなくなった。
ハニーベルは強い女だった。だから、本当に苦しかったら自分から言うだろうと思い、下手に干渉しなかった。その癖妹の失敗は見えていたものだから、彼女がつまづいた瞬間に駆け寄り、あらかじめ用意していた対応策で一瞬で解決してみせる。
『私を惨めにするのが好きなんですね』
ミネオラが昔のようにその場でしゃがみこんでわぁわぁと泣いたものだから、ハニーベルはやっと自分のせいで妹が愚鈍な生き物になるしかないのだと気がついた。
学習の機会を奪い、自己肯定力を奪い、自尊心を奪う。失敗した記憶だけ植え付けて成功するための時間を一切与えないそのやり方で賢くなれという方が無理だった。
ハニーベルはできた女だったために、気がついてしまった。
できた女という自負が、彼女の目を曇らせていた。
”妹を守ることが出来ていない”のは自分だということにやっと気がついた。
そうとわかれば彼女は早かった。父に学校の寮に入ると宣言し、あっという間に転居した。中途の入寮など前代未聞だったが優等生で貴族の彼女だから誰も咎めなかった。そして後は騎士になって家を出るという目標を叶えるだけ。そうすれば妹を縛るものは何もなくなる、彼女は自由になれる。そう思いハニーベルはひたすらに勉強して修士課程を全て終了させ、卒業式にさえ出れば騎士承認試験を受けられるという段階まで過ごした。
過ごしたところで、ミネオラが同じ学校に入学してきたとやっと気がついた。
話しかけられなかったから、本当に一切妹が後輩になっていたことに気がつかなかったのだ。
ハニーベルは恥じた。やはり自分に姉の才能だけは無かった。極力妹の情報はシャットダウンしていたのだ、また手を貸してしまわないように。
それでも普通は気がつくだろうという常識が彼女自身を責めた。
そうしてすぐに、調査隊の話を聞いた。レウカの騎士になりたい、その夢にさらに近づける上に、妹から距離をとり彼女を一人にしてやれる。
一石二鳥だと今度は寮を飛び出して黄昏館へと赴いた。学校も父も文句は言えなかった。彼女は優等生で貴族だったので。
そしてやってることが姉の真似事とは!!!!
ビカラやラティーに殊更優しくしていたつもりはない。だが、それを他人に指摘されたのであれば話は別だ。つまり自分は無意識に年下の少女に姉のように接していたという証左だろう。
それも妹にしてやれなかった”興味のあることを汲んで勉強の機会や環境を整える”だとか”余暇と交友のための身なりを整えてやる”などだ。余所のお嬢さんには一般的に言う姉らしい行動を無自覚で行えていた自分に気味の悪さが込みあがる。
二度寝などできるはずがない。ハニーベルはすぐさま寝間着から訓練着に着替え、ベッドのすぐ横にいつも立てかけてある蛇腹剣を手に取り部屋を出た。
時間は早朝。まだ空は暗くかすかに星が見えているが、空の端は明るくなってきていた。鳥は静かなままで人の気配も感じられない。音を立てないように中庭に到着する。
剣を伸ばす時にさほど音は出ない。だが鞭として振るう時の風切り音と戻る時の独特の巻取り音は早朝にはうるさいだろう。伸ばさないように真っすぐ剣を振り下ろし、素振りの稽古を始めた。
この蛇腹剣は母から渡された。だが、それはハニーベルからすると意図せぬものであった。大人になり立派になった自分を認めた母が授けてくれるものだと思っていたからだ。だが実際は、全てを諦め病に屈し死を受け入れた母が、仕方なしに渡したものだ。
ハニーベルの本当に幼い頃……まだミネオラが赤ちゃんだった頃の記憶が彼女にはうっすらとある。リハビリに努めていた母を覚えていた。
母は何一つ諦めていなかった。いつかはまた巡回騎士として平原を愛馬と共に駆け巡り不穏分子やムドラを一掃し愛する国と家族のため戦うことを母は諦めていなかった。
『だからこの剣はまだベルにはあげられないなぁ』
にやにや笑った母を覚えている。ベッドの上で剣を操り器用に遠くのものをとったり廊下で転びそうになった父を助けたりして、妹と一緒に目を輝かせてみていた日々が確かにあったのだ。
だがある日、糸が切れたように。
『はい、これはもうベルのものだよ』
困惑する娘を見て母はへにゃりと笑った。
『まだ持てないよね。ごめんね』
ベッドサイドに置かれた剣は、支えを失って床に倒れた。ガシャン!という大きい音を立てて倒れた愛剣を、母は虚ろな目で見ているだけだった。ハニーベルは慌てて、まだ幼い少女には重い剣を立たせて母が持てるようにした。
『もういらないの』
緩やかな拒絶で、母が壊れてしまったのだと賢いハニーベルは理解してしまった。
無理に奮い立たせてはいけない、その場限りの励ましは無駄、本当に辛かったら自分から言うはず。
かつては母に向けて考えていたそれらは、次は妹に向いた。でも始まりは、自分の心を守るためだったように思える。
何もできない自分を見たくなくて、向こうがそれを望まなくて、自分はそれを叶えてやっているのだとして自分を守ろうとしていたのかもしれない。
自分は何も変わっていない。幼い頃夢見た自分を追いかけ続ける強さは健在だ。
自分は何も変われていない。幼い頃蓋をして追いやった全てが未だしがみついている。
「鬼気迫る素振りじゃの」
突然聞こえた声に振り向きざまに剣をふるう。ありえない失態だった。反射的に武器をふるうなど、という思考は後からついてきた。その切っ先が声の主にいとも簡単に掴まれているとわかってから。
「……ごめん」
声の主は、ガラクテアはにぱっと笑った。
「妾は寛大じゃからの、許してやろう。そも、今の妾に掴めてしまう程度の刃じゃ。か弱き命しか傷つけられんじゃろうから安心せい」
「それが一番怖いじゃないの」
「守れぬことより傷つけることを恐れるのか」
「……それもおかしな話ね」
ハニーベルは強く握りしめていた手に気がつき、その手を緩めて剣を下ろした。
「珍しいものじゃ。お主は揺るがぬ命だと思っとったぞ」
「あたしもあたしをそう定義していたわよ。でもそうじゃないみたい」
ため息をついて、ふと目の前のガラクテアを見る。シトロンもビカラもコウジロウも、妹と弟だ。一人っ子のアナトやグロッグに、真ん中っ子のレウカ。第一子の立場を知っているのは自分だけだと思っていたが、そういえばと気がついたのだ。
「ねぇ、あんたもお姉ちゃんなんでしょ?弟と話しづらい気持ちとかってあるの?」
ガラクテアはぽかんとした顔でその問いを聞き、やっと脳まで届いたのか「お、おう」と呟く。
「姉?弟?」
「研究塔でソラール様と会ったのよ」
それだけで色々と理解したようでガラクテアは大きな星空の瞳を見開いて驚いた。
「……あやつが妾との関係を、まさか」
「姉と弟って言ったわ」
「はぁ??????あぁ、うむ、人間の理解の及ぶ概念を当てはめてやればそう言えんこともないが、あやつが?自分から?……そうかぁ」
彼女は最初こそ多少馬鹿にした様子だったにもかかわらず、次第に感慨深そうに静かに彼の発言やその他諸々を飲み込んだ。そうしてじっと考えるそぶりを見せてから、かすかに笑った。
「我々は人間ではない。お主の疑問にはそもそもあてはまらないというのに適当に応えるなど礼を失する行為ではあるが、まぁ主が望んでおるのはそういうことではあるまい」
ハニーベルは彼女の顔を見て驚いた。突然導く者の顔をしていたからだった。威厳と慈愛を兼ね備えた銀河の女王の顔に魅入られるようであった。
「うむ、妾を姉とあのドラゴンが呼ぶのであれば……話しづらいことこの上ないわ!」
それでいていつもと似たようなことを同じテイストで言うものだから。
「やっぱり!?」
二人は顔を見合わせて笑ったのだった。
「妾からお主に言ってやりたいことは一つあるぞ」
「なによ」
「姉と妹である前に一人と一人になるがよい」
それってどういう、と聞く前に、ガラクテアはふよふよと館に戻ろうとしていた。
「今日は久々の調査じゃ。きびきび働いて妾とレウカを守るがよい」
それだけ言って彼女はとっとと帰ってしまった。
一人残されたハニーベルは、目が覚めた時とは違いその姿が完全に見えている朝日を眺めた。赤い長い髪が風に揺れている。
「そんなの、当たり前じゃないの」
だがそう在れていたのか、となると話は別だった。
ハニーベルは蛇腹剣を再び手に取り空に掲げた。そして、進みたい道へ進むことにした。
とうに夜は明けている。
そういえば、太陽とはもう出会っていたのだから。
次は明日の20時以降に更新予定




