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灰色の夜はすでに遠く・後


「お兄ちゃんが、どうして……」

「トートが国外に逃げるかもしれないと思って事前に通達しておいたんすよ。その時万が一のことがあるかもって若い兵士はシフトから外したと聞いてたんすけど」

 立ち竦んでいる少女にコウジロウは説明をした。じゃあどうして、と聞くほどパンフェルは幼くはなかった。彼が知らないでいたことは明白だったからだ。


「……職人さんだから」

 その時、息も絶え絶えのか細い声が治療を受けている青年から聞こえてきた。

「お兄ちゃん!」

 パンフェルはやっと彼に近寄ることができた。出血は酷いが致命傷ではないようで、ただ血を失い意識が朦朧としているだけのようだった。


「……パンフェルのために……本当のこと、知りたくて……」

 呼吸だけでも体力を多大に消費しているようで疲れ果ててはいるが、しっかりと傷はふさがってきている。老医者は優先的に彼を診て少女たちに笑顔を送る。

「傷は深いけど死にゃあしませんよ。みなさんきちんと防護魔法や防刃服などで備えていたようですの。すぐに馬車に乗せて首都へ送りましょうや」


 パンフェルは少しだけホッとして青年の手を握った。かすかに握り返してくれる感覚がこんなに嬉しいなんて、と初めて気がついた。

「この国は嘘ばっかりだ……オレもそうなんだ。本当は、知ってたんだ、両親はもう死んでるって」

 青年は突然その心内を打ち明けた。シトロンとガラクテアは港を調査している時にパンフェルから聞いた話を思い出した。戦争で行方不明になった青年の両親と彼女の母親がいつか帰ってくるのではないかという少女の悲しい願いを。


 空に広がる重たそうな雲を憎々し気に見つめている青年にパンフェルは何も言えなかった。

「でも君が、お母さんはいつか帰ってくるかもしれないって、言うから、オレも、君に寄り添った……そういうことの積み重ねなんだ、この国は。小さな嘘が、大きな嘘を覆い隠している……。優しさとか愛情とか、そういう綺麗で美しい思いやりが、邪悪なものの蓋になっている」

 途切れ途切れでも、それでも伝えなければいけないというように彼は話を続けている。


「その邪悪で誰かがまた傷つけられて、その人を守るために優しさで蓋をするから、いつまでたっても根底を流れる邪悪な真実は誰にも知られない。みんなで団結して抜け出さないといけないのに、みんな勝手に身の丈にあった祈りだけ持つようになった。この国は、そういう国になってしまった」

 青年はそうして固く瞼を閉じた。


「……君はいくつになったんじゃ?」

 誰も言葉を発せられない重苦しい空気の中、医者が尋ねた。

「今年で、十八です」

 青年は目を瞑ったまま答えた。医者は、手にも顔にも深い皺が刻まれ真っ白な髪になってしまった老人は、大きな大きなため息をして膝の上で拳を握った。

「若者にここまで言わせてしまうとはふがいない限りじゃて。わしらがもっと早く、雲のように太陽を、真実を遮り覆いかぶさる者たちと戦わねばならんかったっちゅうに。今更かもしれんがの……」

 彼もまた空を見た。夜から続いている灰色の空は依然変わりない。この空はずっとこの色だった。


「いいえ、遅いということはありません。太陽は出ますわ」

 レウカは治療を続けながら立ち上がった。

「太陽は、出ます。どんなに雲が分厚くても、邪悪な企みがこの世界に満ち溢れていても、きっと再びこの世界のありのままの姿を照らすでしょう」

 レウカの瞳は空ではなく、地に生きる人々に向けられていた。


「だからその時までに、その光が世界に満ち満ちるまでに、愛する隣人たちに見せたい美しい世界に近づけましょう。この国の人々の本当の笑顔が見たいわ」

 迷いのない彼女の言葉に、ガラクテアはなんだか海の中に放り出された小石のような気分になった。ガラクテアは正直、この国はこのままでもいいと思っていた。

 だって、人が選んだのだから。

 いいじゃないか苦しくても嘘ばかりでも誰も救われなくても。人がそれを選んだのだ。大貴族に政治を任せることも明らかに怪しい外国人に立場を与えることも才覚ある王子を追放することも王の暴走を止めないのも、全部自分たちで選んだのだ。


 そんな選択をする命はいらないじゃないか。だから、このまま滅んでもいいじゃないか。


 だというのにレウカという女は、これからでもいいから正しく生きようといつだって言ってみせるのだ。ガラクテアはそれが気に入らなかった。非効率的だった。一度間違えた命はどうせまた間違える。彼女には途方もないほどの多くの経験則があった。だからこういった根底から腐ってしまった国は廃棄することが望ましいと知っている。


 あぁどうか、誰か早くレウカを否定してほしい。

 ガラクテアは自分の立場を忘れて”何か”に祈った。自分より上の存在などいないと知っていながら、”何か”にすがった。

 だが同じくらい彼女を否定する者を許せない気がする自分にも戸惑っていた。


「この国の……本当の……」

 パンフェルは無意識に自分にすら聞こえないほどの小さな声で呟いた。

「確かに、僕ももっと本当のブルトーヌのことが知りたいな。首都の美しい異国の建築じゃなくて、君たちの好む詩や表現や感覚を。きっとその中の一つが銀細工なのだろうね」

「流氷のない海も見たいですぅ!」

「観光客向けの料理とか買い物とか全然知れないままだものね、それはちょっと興味あるわ」


「オレらももっとこの国ぶらぶらしたいよな、ガラちゃん。非常時の調査だったとしても、見知らぬ街をみんなで歩くのは楽しかったし」

 シトロンはいつも通り、自分の思ったことを素直に言った。ガラクテアの葛藤は表に出ない。彼女自身思い至らない。しかしこの場には、レウカを否定するような人間はいない。だからガラクテアの祈りは肯定も否定もされないままだった。

「……気が向いたらの」


「あぁ追加の馬車が来てくれたみたいだ。みんなを乗せる準備をしよう」

 街から続く一本道をデン家の馬車が登ってきているとグロッグが気がついた。馬車には兵士たちを乗せるつもりであったが、数が少ない。とくに横にしたまま運びたい関所の兵士を運ぶには難しい。

「ならば王家の馬車も貸し出します。怪我人はそちらに乗せましょう」

 レウカは屋敷から乗ってきた家族用の馬車の貸し出しを進言する。


「いいの?壊れるかもしれないわよ?」

 避難のどさくさに紛れて何が起こるわからないというハニーベルの気遣いに姫は笑顔で答えた。

「構わないわ。家族の思い出はなにもあれだけではないもの」

「流石です姫様……!」とアナトは勝手にときめいている。


「そうだ。俺はカジミール隊長に関所とトートのことを報告しに行こうと思う。みんなはワイヤンのところに調査報告を聞きに行ったり逃げ遅れた人がいないか街を見たりしてほしい」

「妥当ね。じゃあ振り分けはどうする?」

 話し合いはすぐに終わった。賢者に勉強の成果を報告したいビカラはグロッグと一緒に行き、キノトとコウジロウはワイヤンの元へ赴く。残りは街の見回りということになる。


 馬車に兵士たちを収容し終えて一段落していると、ふとシトロンはこの道を通る馬車が全くないことに気がついた。

「そろそろ学生たちの馬車が見えてもいい頃合いだと思うんだけどな」

 朝方には学生六人とセドラの乗った馬車がこの国を出ていく予定だった。

「そうですわね。もしもし兵士様、トートより前に国を出て行った馬車などはありまして?」


「いえ、自分は昨日の夕方から勤務しておりましたが、誰も」

 兵士の車中からの返答に、全員の顔がこわばった。

「は?あの馬鹿、まだ逃げてないわけ?」とハニーベルは険しい顔で港を睨む。

「ミネオラちゃんたちなら、今船の引き上げの手助けをしてるかも……」

 パンフェルが叱られた子犬のような表情をしてそう告げた。


「実は家族が帰ってくるまで避難しないっていう人たちが港に集まって、船の引き上げをしていたの。避難誘導の時それを知ったミネオラちゃんたちは少しお手伝いしようって言ってて、それで何人かのご遺体を見つけてあげて避難させてたんだけど、もしかしたらまだやってるのかも」

「セドラが一緒にいる。あの女がそんな割に合わないことをするはずがない」

 後方幼馴染面をしているシトロンを、ブーシュカはすぐさま否定する。


「そうでございましょうか……。セドラちゃまは情に厚いですもの。ブチギレあそばせながら手伝っているかもでございます」

「まぁ確かに。あいつほんと寿命縮める生き方してんな……オレは港に行く」

「では私もそちらへ。もし船を引き上げることが必要なら力を貸せるかもしれないもの」


「ってかあたしらなら住民引っぱたいて避難させられるわ」

 無理やり避難させる気満々のハニーベルを、アナトが高笑いで煽った。

「おほほほほ野蛮ですわねベル!力づくで事を為しては心を残していくことになりますわ!そんなことをしては、普段どんなに聡明な方でもシェルターを飛び出して高波の中へ走り出してしまうかもしれません。

 人は心の片割れを拾いに行くものですわ。誰しも、欠けた心のまま生きることは難しいですもの」


 ハニーベルはあんぐりとして彼女を見ている。

「あんたが力づくを否定するですって!?」

「おほほほほ喧嘩なら後でたっぷりを買いますわ!姫様、参りましょう」

 二人に挟まれたレウカはくすっと笑ってから何かを考え込んでいるパンフェルに声をかけた。

「パンフェル、大体の場所を教えてもらえないかしら。あなたはこのまま馬車で」

「案内する!パパもご近所さんのために参加してるんだ。だからあたしが案内する!」


 予想外の言葉に一行は困ってしまった。でもさぁ、や、あのさぁ、と彼女を説得しようとする年上たちに対し、パンフェルはかぶりを振ってそれを受け入れない。

 彼女はこの灰色の空が当たり前だと思っていた。だが子供の頃の当たり前は少し違った。母はいつまでも一緒にいてくれて、一人前になるまでトートが導いてくれるというものだった。でもそれは彼女が一人で思い込んでいたことでしかなかった。

 当たり前なんてないのだ。だから、この空だってもしかしたら。


「トートさんのこと、まだショック。全然受け入れてないからまだあの人のこと信じてるよ。だけど……だからこそ、本当のことが知りたいの。海竜だって本当は何を求めているのか知りたい」

「海竜を?」

 またもや思ってもみなかった言葉が飛び出してきてシトロンは聞き返してしまった。

「海竜が怒っているのって毒だけのせいなのかな、帝国とかと取引したのかな、本当は人が変わることを信じてくれていたりするのかな、って気になってたの。ずっとこの海を見守ってくれてたのに、って思っていたから。街のみんながギリギリまで逃げなかったのは、海竜が怖いだけのものじゃなかったからなんだ。あたしたちは海竜と共存できてたって感じてるからなの」


 ブルトーヌ人から見た海竜は、恐怖だけの対象ではないのだ。この場所に彼がいたからこそ、帝国や西側諸国が易々と攻め込んでこれないし、ワジェンデイクも直接統治しようとしてこなかった。彼のおかげで自分たちが自由でいられたことを知っていたのだ。

「あたしたち、あのドラゴンとなんにもお話してない!あれだけお話したトートさんには嘘ばっかりつかれてたかもしれないし、ドラゴンも何も答えてくれないかもしれない」


 パンフェルは身体から湧き上がっている衝動を飼いならそうともせず、身を任せた。

「でもあたし、知りたい!知らなかったこと、知ろうともしなかったこと、知っていたのに目を逸らしていたこと。知りたいの!

 今だけあたしも調査隊に入れてよ!この事件のこと、この国の本当を知りたいの!」


 それを否定できる者はいなかった。その気持ちは調査隊にいる誰もが持っていたものだった。そしてガラクテアも彼女の言葉を聞いて何も言えなくなってしまった。

 唇を噛みしめながらも目は逸らさないパンフェルを見て、レウカは微笑んだ。

「わかりました。一緒に行きましょう」

「いいの?やったー!」と彼女は目を輝かせてその場で飛び跳ねた。

 

「私が責任を持ちます。パンフェル、決して私から離れないで」

「はい!」

 元気よく返事をしたパンフェルを見ていたシトロンは、なんとなくその場が晴れてきたと感じて空を見た。雲の向こうの太陽がしっかりと昇ってきたのか、明るくなっていたのだった。昨日だってそうだった。日中に灰色の空と感じた覚えはなかったと思い出していた。

 この国が、本格的に朝を迎えたのだ。



次は木曜日の20時以降に更新予定

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