灰色の夜はすでに遠く・前
数分後、地面に正座するコウジロウとそれを囲むキノトとアナトとハニーベルとシトロンがいた。泥の周囲には駆け付けた屋敷の兵士たちやビカラたちが泥を調べており、斬られた兵士たちはレウカと屋敷の老医者が傷を見ていた。
コウジロウは四人が発する圧に耐えられず滝のような汗が止まらないでいる。
「どうしておひとりで?いえね、兵士がいたことはわかってますのよ?どうしておひとりで?」
「大きく出たわね、そんなにあたしたちって頼りなかったのかしら?逃げられておいて?」
「閣下、流石の僕もこれにはノン!と言うしかない。何故こんなエレガントの欠片もない選択を」
「まどろっこしい!全員で頭蓋骨陥没させようぜ!」
「すいやせんっした……」
叱られが発生している間も調査隊に同行した研究塔のメンバーがてきぱきと解析を進め、ビカラとグロッグは研究員の話を真面目な顔で聞いている。そして彼女の指示の下、手書きで地面に魔方陣を書き始める。それが完成すると泥がじわじわと薄くなっていく。色が薄くなっていくというか、存在が希釈されていっている、とシトロンには感じられた。
「急ごしらえだから完全には無理だ、引っ張り出してくれ」
グロッグはみんなに助けを求める。シトロンたちも「了解!」と快く返事をしてコウジロウを解放し、二・三人で組んで一人一人助けていく。感覚的には魚から骨を抜いているような感じが一番近い。
助けられた兵士たちは軽いショック状態などはあるが、重傷者はいない。
「拘束だけなのか?」
「痛いところもありません。自分はただただ悔しいです……」
壮年の兵士が重い溜息をついた。
「でも向こうのこの泥も急ごしらえだと思う。どうだビカラ、この泥の成分」
研究員の手伝いをしているビカラは、ノートにいっぱい文字や図形を描いて考えている。シトロンは最近彼女が賢者とマンツーマン授業をしていたと知っていた。
「話しかけないでもらえますかぁ!?わたし、あなたたちみたいな天才じゃないんで!いちいち全部考えないといけないんですぅ!」
「ごめんごめん」と何故かキノトが謝った。
「天才のところは否定しないのか」
「僕がそれをしたら嫌味じゃないか」
「あっそ」
「ちょっといいかしら」とレウカがみんなに話を聞くよう手を挙げているため、全員素直に傾聴の姿勢をとる。
「怪我はないけど、浸食が進んでいるわ。みんなが起き上がれなかったのは浸食のせいよ。身体が重くはないかしら。そもそも立てる?」
兵士たちは立ち上がろうと腕や足を地面に立てただけで、ぐんにゃりとその場に倒れこんだ。
「本当です……」
混乱する彼らをあまり気にせず、グロッグはするべき会話をする。
「浸食についてだけど、多少の推測ならある。バリアで受け続けた所感だけど、この泥と川の毒は同じ成分じゃないかな。そして浸食も」
「どういうこと?」
「トートがあの泥を集落にまき散らして、それが海に流れ出し、それに怒った海竜が同じ毒を浸食として人界に降り注がせている。どう?」
ガラクテアはふむ、と考えてからまだ残る泥を確認する。
「あながち間違っていないやもしれんな。ただ怒りというよりは……いや怒りもあるが。ごみを敷地に捨てられたから突き返した、かもな。さすれば庭は元に戻るじゃろ」
「あぁ、感情よりももうちょっとシステマチックに考えなきゃいけないのか」
「はいはいはい!多分泥と毒は似た成分です!」
全ての資料を地面に置いているビカラが、元気よく叫んだ。
「そうでございますね~」
「……ちょっと!もしかしてあなたわかってましたぁ!?わたしが唸ってるの見て笑ってたんでしょうそうでしょうなんてこと!?」
研究員に協力していたブーシュカは勢いよく噛みつかれ、苦笑いしながら童女の相手をする。
「落ち着いてくださいまし。魔法方面からのアプローチができませんので、元よりあなたさまの解析待ちでございますよ~」
「……嘘だよね、トートさんがこんなことしたって」
ずっと俯いて黙ったまま、関所の外からぼんやりとしていたパンフェルが言葉を発した。
「だって、こんな、まるで……!」
シトロンだって彼女のことは心配だ。だけど、彼女の情報は有益だ。心を鬼にして彼女のケアよりも質問を優先することとする。
「それで彼はどこの出身なんだ?」
「……レコメダ」
それを聞いた調査隊の面々はそれぞれ小さくため息を吐いた。
「あの国、もう親帝国って言ってもいいかもしれないな」
「昨日の晩言ってた二十年前の大きな津波ってやつ覚えてる?トートさん、当時は見習い船員で商船に雇われてたって。でもその津波で船は壊れて唯一の生き残り。そうしてこの国に取り残されたの」
今の居留通りら辺まで波が押し寄せてきた、という大きな津波の話だったか、とシトロンは思い返していた。
「夜中の津波だったから救助が遅れたし寒さもあって被害者が大勢いたの。不憫に思った先王様が全員に補助金を出したんだ。すぐ帰った人も怪我の療養をしてから戻った人、国に帰っても居場所がないから定住した人もいたんだって」
「西側の港湾都市国家ユーエントはそうだね。あの国は国土の大半が水没していて船が集合住宅なんだ。船に所属している限り家も仕事も立場もあるが、専属船の無い人々は今日の夜溺れないで眠れる場所のため奴隷のように働かされるという」
「そんなところあんのか……」
「トートさんも親も家も無くてその商人のところに住み込みで働いていたから、帰る場所なんてなかったんだって。そんな時職人議連が、私のママとかが優先的に事故の被害者を雇って仕事を斡旋してた。その縁でトートさんは職人の道を目指したんだって」
パンフェルは曇った顔で、震える身体を抱きしめている。
「津波の被害者がみんなスパイだって言うつもりじゃないよね……?」
「大勢の被害者の中に紛れ込んだたった一人だと思うわ。数が多ければ不審な点だって多くなるから他はダミー、ただの可哀そうな人たち。夜中の津波ならいくらでも巻き込まれたふりができるもの。例えばブルトーヌの港から泳いでちょっと適当な漂流物に抱きついて流れ着けば、誰も気づかない」
ハニーベルは淡々と自身の見解を述べる。
「確か港の提出書類だって出さなくていい者たちもいるもんな。その制度を悪用したなら、ってこういうの君が言ってたんだぜ」
シトロンは港でミネオラたちとしていた会話を引き合いに出した。次はグロッグが何かを思いだしたように話し出す。
「あと、二十年前の津波ならワジェンデイクにも資料がある。帝国が海竜に砲撃をしたことへの報復としての津波だったと結論付けられている。確証はないけどね」
「そこから仕込みとかマジで?」
「何よりうちとの共同政権が満了した直後の話だから、ありえなくはないと思っている」
「ワジェンデイク領じゃなくなったからスパイもぐりこませるために、か」
「昨日の話、どこまで本当なのか考えなければいけないのだけれど、時間がない。教授のお力を借りたいな」
話の速いみんなを見ていたビカラは、面白くなさそうな顔で質問する。
「つまりあの侵入者たちの仲間だったってことなんですかぁ?」
「それはそうだと思うっす」
ずっと黙っていたコウジロウがぽつぽつと、まだ緊張している様子で話す。
「荷台斬った時の話なんすけど、この国でよくみかけた型番だから下側を狙ったっす。座って乗ってる人を斬らないように。なのに縛られて寝転がった姿で無傷で出てきたから、つまりあの人は椅子に座っていて、自分のタイミングで馬車の外に出たんじゃないかって」
揺れる小型の椅子の上に成人男性が寝転がっているとは思えないし、床に転がっていたのならそのまま下に落下する形になるはずだと彼は言う。
「縛ってた縄も結び目が自分で結んだ時の物だったんす。縄抜けとか簡単にできるんすよ」
「じゃからお主、縄をずっと見てたのか」
「知らないんだが?」
「ぬははははは!妾の観察眼が優れているというわけじゃ!」
「何より……川と毒のこと知ってるだけだったら、オレら全員にやんわり魚を食べないように誘導するはずだろ?それに気がついてからオレ、ずっとあの人疑ってたんす」
「……それは確かに、まともな人間ならそうするだろう」
学生たちは三人とも微弱だが毒に侵されていた。そういった小さな違和感が積み重なるというのはよくあることだとシトロンも思った。
「昨日僕を彼に近づけないようにしてたのもそれかな?」
「うっす……」
コウジロウは悔しそうにしているままだった。シトロンは、彼が自分たちではなく兵士たちとトートの確保に向かったのは男の矜持のようなものもあるのかもしれないと感じていた。そういう奈の国の在り方に反発していながらも、彼自身そういう呪いにかかっているのだとしたらとまで考えて、今は思考の片隅に置いておくことにした。
「でも!もしかしたら兵士さんに囲まれて、怖くて暴れちゃっただけかもしれないし!」
混乱と恐怖と失意でぐるぐるとした瞳のパンフェルは、かすれた声をなんとかあげている。彼女が向き合う時が来たのだ。
シトロンは、今なおレウカと医者による治療が施されている関所の兵士たちを指さす。
「パンフェル……関所にいた兵士の中に、君の御近所さんがいる。それでも言うのか」
え、という彼女の声は風に消されて本人の耳にも届かなかった。足だけが勝手に動いているようなふらふらとした足取りで彼らの元へと赴く。
レウカはパンフェルに気がつき、老医者の肩をそっと叩いて彼女の来訪を告げる。医者は治療中の兵士たちが見えるように身体を横にどけた。地面に並べられた血だらけの兵士のの中に、一人だけ若い兵士がいて、それはパンフェルが昨日の昼に紹介してくれた”近所のお兄ちゃん”だった。
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