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氷雪の王  作者: 笠倉とあ
4/4

きっと、握り締めたまま堕ちていく

少年王とその最愛の友達の馴れ初めです。友達視点で。

 アルトゥール・ラシャの中にある一番最初の記憶は、この上なく汚いものでも見るかのような目で自分を見下ろす、実の家族たちの顔だった。


『色のない子供なんて』『気味が悪い』『一体誰の血が原因で』『やはり赤子のうちに殺しておいた方が良かったのでは』『今からでも遅くはないぞ』『否、使えないこともない』『外には出すなよ』『でもこんなものを間近に置かなければならないのは』『必要になる時まで飼っておけば良い』『どうせ最後は――――』


 勝手に囂囂と言い合って、当のアルトゥールの顔など誰一人見ようとなどしないまま。

 けれど、自分に投げ落とされたあらゆる言葉を、幼いアルトゥールは全部きちんと覚えていた。




※※※




 ほとんど光の届かない壁と格子に閉ざされた穴倉のような一室で、寝て起きて食べて時々小さな窓を見て睨まれて目を逸らされて舌打ちされて格子を蹴られて、そんな変わらない日々が続いて何年経った頃だろうか。土壁に囲まれた空間特有の湿った臭いとどろりと肌に纏わり付くような倦んだ空気に満たされたアルトゥールの生活に変化が起きたのは、確かアルトゥールが十六歳になった時だった。


 ある日、アルトゥールが寝起きしていた粗末な土蔵に、アルトゥールの血縁上の父親である村長(むらおさ)が、小さな子供を連れてきた。

 この村では見たことのない、黒い髪と黒い瞳をした子供だった。痩せて細身のアルトゥールよりも更に小さなその子供は、一番近い村から村長の家に買われてきたのだという。痩せた首には奴隷を示す首輪が付いていて、乱暴に腕を掴まれた子供は困惑したようにへにゃりと眉を垂れさせながら、おろおろとあちこちに視線を彷徨わせていた。


「お前の役目だ。これの世話をしておけ」


 床に放り出した小さな子供に向かって用件だけ簡潔に告げた村長は、アルトゥールに一瞥もくれないまま、身を翻して蔵から出て行ってしまった。大方今までの世話役が来なくなったから、その代わりだろう。そう考えて、アルトゥールは格子の向こうにいる子供にすうと視線を送ってみせる。


 きょとん、とこちらを見上げている子供は、アルトゥールにとってはまるで初めて見る種類の生き物のようだった。そもそもアルトゥールは自分より幼い子供など生まれてこの方見たことがなかったし、何よりこんな真っ直ぐな目で見詰められたことは初めてなのだ。今までの世話役は大体嫌そうな顔をしてアルトゥールを睨み、投げ出すように食事の皿を放り込んではさっさと立ち去ってしまうばかりだったから、こんなに長く視線を合わせていたこともない。


 ――どうすれば良いのだろう、と珍しく困惑して、アルトゥールは無表情のままことりと首を傾げた。


 子供は随分と静かな様子だ。アルトゥールに対する罵声を叫び出す気配もない代わりに、自ら動きを見せそうな気配もない。床の上からぽかんと見上げるまま目を逸らすこともしない子供に警戒心の薄い獣の仔を連想させられ、アルトゥールはますます困り果てた。


 そうしてしばらく見詰め合っているうちに、やがてアルトゥールは子供の黒がとても深い色をしていることに気付いた。明かりの少ない部屋に住むアルトゥールにとっては、何より馴染みのある色。幼い頃から血縁上の両親の代わりに優しく自分を抱き締め続けてきた、深い夜闇の色だった。


 ――そろり、と手を伸ばしたのは、果たして無意識だったのだろうか。


 格子の隙間から伸びた手は、子供の黒い髪をそうっと撫でた。艶を無くした髪はあまり手触りが良くないが、ふさふさしていてやっぱり獣の仔を想わせる。一瞬だけびくりと肩を跳ねさせた子供は、血の気のない真っ白な手を怖がる様子もなく、ただ大きな目をますます見開いてアルトゥールの顔を見詰めていた。


 ――零れ落ちてしまいそうだ、と。


 そう思って、アルトゥールは銀灰色の瞳をうっすらと細めた。もしもこの眼が零れて地面に落ちたなら、自分が貰ってしまうのも良いかも知れない。そんなことを思って緩んだ表情は奇跡的に薄い笑みの形を作ったらしく、子供の顔に、初めて僅かな朱が差した。


「――ねえ! あのさ! オレの名前、桐宮夏って言うんだ! お兄さんの名前、聞いてもいいですか!?」


 勢い込んで、けれど髪を撫でる手は振り払わないように大きく身を乗り出してきた子供の姿に。


 アルトゥールはぱちくりと目を瞬かせて沈黙し、そうしてきらきらと輝く子供の黒目を見詰めながら数十秒の黙考を挟んだ後、やがてゆっくりと口を開いた。


 長年言葉を発することに使っていなかった喉から出る第一声は酷く掠れた音をしていたが、子供は一言も聞き漏らさないようにと真面目な顔で耳を傾けていた。


 名前を聞かれたのも名乗られたのも、十六年の人生でこれが初めてだった。




※※※




 出会ってから半年も経つと、桐宮夏と名乗った子供は随分とアルトゥールに懐いていた。どうもアルトゥール以外の者たちには『桐宮』という単語が発音し辛いらしく、皆『キリミエ』になってしまうのだと言っていた。正しくキリミヤと発音できたのはアルトゥールだけらしく、ならばナツではなくキリミヤと呼ぼうかと提案したアルトゥールに、ナツはファーストネームで呼んでくれた方が嬉しいのだと笑った。


 多分、ナツがアルトゥールのことを『アルト』と呼ぶようになったのも、その時分だったのではないだろうか。

 その頃になるとアルトゥールの口数も大分増えていて、二人は色々な話をした。ナツの故郷の話、森で見つけた木の実の話、最近村に咲いた花の話、時々窓辺に来る小鳥のこと。雨が降る仕組みも、動植物の命の連鎖も、夢のような冒険活劇も、様々な思想も政治体制も、アルトゥールはナツから聞いて初めて知った。きっとこの村の誰も、町の人間も学者も大国のお偉方だって知らないような知識を、アルトゥールは気付かぬままに数え切れないほど与えられた。


「――生き物が生まれる時には、遺伝っていうものが関係あってな、」


「――ある国では、君主論っていうのを唱えた人がいてな、」


「――この図形の面積を求めるのには、便利な公式があってな、」


 ナツは賢かった。自分は本で読んだことをそのまま話しているだけだと主張していたが、その知識を出すべき所に持ち出せば、欲しがる人間には事欠かないに違いない。その全てを平然とした顔でアルトゥールに分け与え、見る見る知識を付けて行くアルトゥールを見ながら、彼自身はいつも何も知らないような顔で笑っていた。


 また、ナツは日々村長たちから言い付けられる仕事の合間にこっそり母屋に忍び込んでは、数少ない貴重な書物をアルトゥールの元に持ち出してきた。初めは簡単な絵本ばかりだったが、アルトゥールが独力で文字を解読してからは次第に読める本のレベルが上がり、やがては初級魔術の指南書なども理解できるようになっていった。ナツは自分で読むよりアルトゥールの読んだ内容を解説してもらうことが多く、アルトゥールはナツが文字を覚えるのを苦手にしているらしいことを知った。


 初めてはっきりとアルトゥールが笑った時、ナツは一瞬目を見開いてから、心底嬉しそうに笑った。硝子玉のように大きな瞳が無邪気な歓喜の色を映すのを見て、アルトゥールはその色をもっと見たいと思うようになった。ナツがアルトゥールの笑みを好むらしいと分かってからは、よりナツが気に入る笑顔を作ろうと色々試してみたりもした。ナツはアルトゥールの笑顔が優しくて好きだと言っていたが、アルトゥールはぽわりと花が咲き綻ぶようなナツの笑顔が好きだった。ナツの笑顔は、いつかナツが持ってきてくれた、玉のような小さい黄色の花を想わせた。


 大好き、アルト、オレの友達。ずっと一緒が良い。いつか一緒にここを出て、色んなものを見に行こう。


 毎日毎日、微塵も惜しまぬ好意の言葉と笑顔と温もりを与えられて。格子の隙間を縫って手を繋ぐことも、粗末な食事を一緒に摂ることも、いつしか当たり前の日常になって。


 そうしてある日不意にアルトゥールは、自分がもう誰からも忌避された子供ではなく、ナツの、ナツだけの『アルト』になっていることに気が付いた。

 ナツを通して見れば、世界は光に溢れている。けれどその代わりにアルトはもう、ナツを通さないと何一つ見ることができないようになっていた。それで良い、と思って、アルトは静かに口の端を緩めた。




※※※




 再び事態が動いたのは、アルトゥールが十八歳になった時のことだった。何の前触れもなく土蔵にやって来た村長が、あと三月の間雨が降らなかったら人柱になってもらうとアルトに告げたのだ。

 アルトのために持ち込んだ小さな木の実を慌てて懐に隠していたナツは、村長の顔を見上げたまま凍り付いたように動きを止めた。


「そうですか」


 澄んだ綺麗な声を震わせもせずに、アルトは一言だけそう言った。

 幼い頃に聞いた大人たちの言葉をしっかりと覚えているアルトは、いつか自分がそういう風に使われるんだろうということを知っていた。この村には、一年近く雨が降っていない。アルトに供される食事の量は一層減っていたし、小さなナツはますます痩せて骨が浮いていた。ナツが今日持ってきた木の実を探すためにどれだけの時間をかけたのか、賢いけれどここから出たことのないアルトには分からない。不機嫌そうに村長が鼻を鳴らして立ち去った後、ナツは格子越しにアルトに飛び付いた。


「どういうことだよ、お前が人柱って! そんな馬鹿みたいな――そんなんで解決になるわけがない!」

「落ち着いて、ナツ。ね、良い子だから」


 蒼白になって叫ぶナツに、アルトは困ったように苦笑してみせた。

 ナツの知識を分け与えられたアルトには、雨が降るのと自分の生死には何の関係もないことが分かっていた。アルトの死に意味はない。けれどそれを訴えたところで聞く者は誰一人いないのだということも、アルトにはよく分かっていた。


 アルトは疎まれている。要するに、それが答えの全てだった。ずっと昔から決まっていたことだ。雨乞いの必要が無ければ、また別のどこかで贄として使われることになっただろう。出来てしまった心残りは、ナツを遺して逝くことだけだ。そう思って、ふと胸の奥がじくりと小さな音を立てたような気がして、アルトは内心首を傾げた。


「ねえ大丈夫だよ、ナツ。ずっと分かってたことなんだ。――だからナツ、僕の大切な友達。そんなに泣かないでよ。君が泣くと、僕はどうしたら良いのか分からないんだ」


 胸の中の違和感を押し隠しながら、ナツが好きだと言っていた優しい笑顔を浮かべると、くしゃりとナツの顔が歪み、ぼろぼろと涙が零れ落ち始めた。血色の悪い肌を伝う雫を掬いながら、そう言えばナツが泣くのを見るのは初めてだな、と思って、またじくりと胸の内側を何かが刺した。




※※※




 次に事態が変わったのは、早くもその翌日のことだった。薄く朝日が射す早朝、土蔵にやって来たナツはアルトに向かって開口一番、村長と取引をしたと告げた。三月後の儀式の日までに、村全体を三年間養えるだけの金をナツが稼いできたなら、儀式を中止し、ナツとアルトの身柄を解放する。そういう約束をしたのだと。


 ――何を言っているのだ、と。


 そう思わなかったと言えば嘘になる。

 恐らく村長たちは、ナツがそれをやり遂げるなどと全く期待していないだろう。真っ白なアルトの存在と同様、真っ黒なナツのことも、彼らは負けず劣らず気味悪がっていた。奴隷の首輪をしている限り、ナツは逃亡することが出来ない。三月で戻れと指定されたなら、三月を越えて戻らなければナツは首輪に込められた術式によって殺されるだろう。小さな村とは言え、三年間食べていけるだけとなるとそれは莫大な金に昇る。どうせ村長一家の一月分の生活費にも劣る程度の値段で買われてきたのだ、アルト亡き後ナツの使い道に困るくらいなら、いっそ無理難題を押し付けて、村の外で死んでくれた方が良いと思ったに違いなかった。


 余りと言えば余りの無茶は、どちらかと言えば現実主義であるナツの選択とは思えない。流石に意表を突かれて茫然とするアルトに、ナツは笑ってこう言った。


「大丈夫! オレ、ちゃんと三ヶ月以内に戻ってくるからさ。だからアルト、待っててくれよ。戻ってきたら、今度は二人で一緒にここを出よう!」


 ――今までで一番大きく疼いた胸は、一体何を意味していたのだろうか。




※※※




 結果的に、ナツとの約束は果たされなかった。

 ナツが約束の期間に間に合わなかったわけではない。約束を破ったのは村長たちの方だった。

 ナツが出立してから二月が経った夜、アルトは何の説明もなく土蔵から出された。初めて踏み出した格子の外の世界は存外色が無く、ナツに聞いていた色鮮やかな情景とそぐわなくて内心小首を傾げた。


「――用意をせよ」


 村長が短く合図をして、白い容貌を白い衣装で覆われたアルトは村の男たちに広場へ引き出された。中央には小さな台座と篝火が設けられてあって、ぱちぱちと橙色の火花を散らしていた。


 雰囲気は如何にも物々しい。ここで自分を殺すのだろうかと思って見回してみたが、広場には刃物も、瓶や水筒の類いもなかった。そろそろだろう、と誰かの囁きが聞こえてきて、アルトは唇だけで嘲った。――嗚呼成程、夕餉に出されたあのスープか。


 静かな興奮を湛えてざわめく人の群は、近隣の村の住人も集まっているのだろう。赤い布を張られただけの粗末な台座に座らせられて、アルトは白い睫を静かに伏せた。虚ろな熱の籠もった村人たちの雰囲気も、どこか安堵したような『家族』たちの視線もどうでも良かった。あと一月後に帰ってきたあの子がどう思うだろうと、それだけを考えた。


 ――ふと、村の東側が騒がしくなった気がして、アルトは顔を上げた。怒鳴るような野太い制止の声と、負けじと張り上げる高い怒声が聞こえて、辺りに動揺が広がっていく。


(――まさか、)


 アルトは、その夜初めて目を見開いた。どんどん近付いてくる音と気配に心臓が高鳴っていく。じわり、褪せた灰色の風景に色が差したような気がした。声が聞こえる。この世で唯一、アルトの世界に色を付ける声が。


「――――アルト――――!!!!」


 勢い込んで、子犬のように。人込みを押しのけて広場に飛び出してきたナツが、人々の真ん中にアルトの姿を見つけて叫び声を上げた。粗末な旅装束に薄い外套を纏った子供はぼろぼろだったが、動けないほどの怪我は無いようだ。


「何やってんだよアルト、待ってろって言っただろ! 一緒に自由になろうって、そのために戻ってくるって言ったのに!」


 全力で飛び付いてきたナツが、初めて障害物無くアルトの体を抱き締める。ぎゅうぎゅうと締め付けるナツの腕に目を見開くアルトを見上げ、彼は背負っていた大きなザックを突き出して、あの黄色い小花のような顔でぱぁっと笑ってみせた。


「ただいま、アルト! 約束、守ったぜ!」




※※※




「ザザの町にあるダンジョンをクリアしたんだ! 他に同行者がいたから手に入ったアイテムは一部だけだったけど、それでも持って行く所に持って行けば、城でも買えるくらいの価値があるって! なあアルト、オレたちこれで自由になれるぞ!」


 二人の周囲で、どよりとざわめきが大きくなった。驚愕と動揺に揺れる村人たちを無視して、興奮したようにナツが早口で叫ぶ。真っ黒な目がきらきらと輝き、真っ直ぐにアルトを見詰めていた。


 ――ほんの一瞬、アルトは夢を見た。

 窓枠で遮られることのない青空と、土壁に吸い込まれることのない日差しの下で、旅装束を纏ったナツが満面の笑顔でアルトに笑っていた。ぽわぽわと揺れる小さな黄色い花に囲まれた彼がこちらへ差し伸べる手は、やっぱり小さかったけれど、痩せても骨が浮いてもいない、健康そうに日焼けした手だった。

 幻想の中のアルトは、ナツに手を伸ばし返そうとして――


 そうして、くしゃりと顔を歪めた。


「嗚呼――そう出来たら、良かったなぁ」


 ナツはよくやった。たった一人、できないだろうと思われていた金を稼ぎ出し、三月の約束を二月に早めて戻ってきた。逃げ出すこともなく、諦めることもなく。最短で最善の道を探し、それを掴んで差し出してみせた。


 ――けれどそれでも、遅かったのだ。


 握り締めるように胸を抑えたアルトの体が、ゆっくりとくの字に折れていった。村長は儀式の期限を三月と言ったけれど、その期間に明確な基準はなく、そうしようと思えば多分幾らでも早められるものだった。決死の思いで出て行ったナツを待つつもりなんて、彼らには端から無かったのだ。

 胸の奥から込み上げる激痛に逆らうことなく、口に手を当てたアルトは激しく咳き込んだ。ごぼりと不快な水音と共に、大量の赤がぶち撒けられる。鉄錆の混じったような濃い腐臭が、静謐な夜闇を一瞬で塗り替えた。


「――――え?」


 ぴっ、と飛んだ血飛沫が頬に貼り付き、ナツの動きが停止する。目の前で起きていることが理解できないのだろう、小さな少年は悲鳴も上げられないまま、ただ茫然と立ち竦んだ。


「……アル、ト?」

「――ナツ」


 息を呑んでこちらを注視する村人たちの視線を感じながら、アルトはナツに手を伸ばす。血で汚れた白い手がナツの頬を汚したが、ナツはそんなことにも気付いていないようだった。夜を封じ込めた色の大きな瞳が、アルトの顔を一杯に映し出している。唇から滴る熱が服を濡らすのを感じながら、アルトは嗤った。


 ――嗚呼、ようやく分かった。あの胸の奥の疼きの意味が。ナツの笑顔を見るたびに揺れていた、奇妙な感情の正体が。


 そうだ、はっきりと認めよう。アルトはナツに執着していた。それこそ、最早欠けては生きていけないほどに。二年間、共に居た。お互いしか居ない二年間だった。他に何も無かった。周りは全て敵だった。それで良かった。それでも良かった。ナツがいたから、アルトは幸せだった。自分にとってナツが全てであるように、アルトはナツにとっても、自分が全てであって欲しかったのだ。


 一緒にいようと言われた時、アルトは嬉しかった。ナツと一緒に生きたい。一緒に行きたい。僕だけを見て、僕だけに本当の笑顔を見せて、僕だけのために存在して。けれどそれが叶わないのなら――


(君の心を殺せるくらい、深い傷になりたかった)


 凍り付いたナツの視界の全てを占める自分の姿に満足しながら、全身全霊でアルトは笑った。ナツが好んだ優しい笑顔を作れていれば良い。少なくとも、今まさに腹の底でどろりと鎌首を擡げたこの真っ暗な執着が、ナツの目には決してその顔を覗かせないように。


「――大、好き」


 掠れた囁きに、ナツの目が零れ落ちそうなほど見開かれた。ナツの瞳は、二年前と変わらずアルトの心を惹き付ける。今零れ落ちたら反射的に拾って食べてしまうかも知れないと思って、アルトはくつりと喉を鳴らした。


「なに、お前、」

「大好き、僕のナツ。傍にいてくれてありがとう」

「アルト、何で、そんな、」

「ごめんね、約束、守れなくて」

「変だ、こんなの。何で、お前が」

「泣かないでナツ、良い子だから」

「なあ、オレ戻ってきたじゃん。ちゃんと言われた分だけ稼いできたぞ」

「生きてね、ナツ。僕はもう、出来ないけど」

「一緒にここを出ようって、お前もそうしたいって」

「そう出来たら、良かったなぁ。ナツが好きなサクラの花を、一緒に探しに、行きたかったなぁ」

「やれば、いいじゃん。なんでそんな言い方するんだよ」

「ねぇ、ナツ。逃げてね。君だけでも、ここから」

「苦しいのか? 医者、や、毒? 神官とか、いねぇの。確か、近くに神殿が、」


「――――本当に、ごめんね」


 ほとりと一粒流れた涙は、一体何が理由だったのだろう。アルトの目の前でゆっくりと絶望に塗り潰されていくナツの顔か、アルト自身のなけなしの良心か、それとも掴みかけた美しい未来を失ったことに対する嘆きと哀切か。


 ――――嘘だった。


 ナツに向けている穏やかな笑顔も、自己犠牲に満ちた言葉も、生きてと願う優しい祈りも、全部全部嘘だった。

 一人で生きて欲しいなんて思っていない。できれば一緒に死んで欲しいし、それが駄目なら心だけでも連れて逝きたい。


 アルトは、人の心に鎖をかける方法を知っていた。そして、どうすれば一番効率的にそれができるか分かってしまう程度には、冷静で賢い人間だった。

 ナツの心には、ここでアルトと一緒に死んでもらう。そのために、今この瞬間アルトは徹底的にナツの幸せを願う、世界で唯一の優しい人間でなければならなかった。これからナツが取り残される世界は、全ての色と温もりを失ったモノクロの世界でなければならなかった。

 最初で最後の我儘に、アルトはナツを付き合わせる。仮令ナツの記憶が偽りのアルトで埋め尽くされたとしても、アルトを忘れて他の誰かと生きられるよりは遥かにましだった。


 アルトは綺麗な笑顔で残酷な嘘をついて、ナツの心を土の下に引き摺り下ろす。けれど、ナツを想うこの気持ちと、零れ落ちた一滴の涙だけは、絶対に嘘じゃないから。


 ――だからそれだけで、どうか許してくれないだろうか。


「――――……、」


 ナツの向こうで忙しなく何事か囁き交わしていた村人たちが、ぎらぎらと目を輝かせながらこちらへ手を伸ばしてくるのが見えた。ナツの荷物を奪うつもりなのだろう、その一番前には村長の姿があった。

 そんな外界の全てを、ナツの目は認識しない。小さな少年の心が罅割れるように壊れていくのを見てとりながら、アルトは満足して目を伏せた。一度閉じればもう二度と開けられないだろう瞼に、ナツの手が縋るように伸ばされる。


 けれど。


「…………――――許さ、ない」


 ――押し殺した呟きは、奈落の底から洩れ出してくるような怨嗟と激情を含んでいた。

 俯いていたナツの顔が跳ね上がる。強く抱き締めたアルトの体に縋り付いて、ナツは叫び声を上げた。


「ふざけるなよ……! 何で! 何で! 何で何で何でお前が! アルトが! 許さないそんなこと、置いて行くなんて、オレを置いて逝くなんて、絶対に絶対に許さない――!!」


 それは一瞬のことだった。

 魂切るようなナツの絶叫が、刹那、閃光と共に弾け飛び、莫大な魔力の奔流となって天を切り裂く。理性という名の枷が砕け、小さな体に押し込められていた全てが本能のままに解放された。火山の噴火を想わせる、激烈なまでの力の爆発。火柱のように吹き上がった魔力が黄緑色の燐光を散らして荒れ狂い、ナツに触れかけていた村人たちから悲鳴と共に消し飛んだ。


「――――……ナツ……っ!!?」


 上げようとした声は咳に掻き消されて消える。アルトとてナツが人並み外れた魔力を持っていたことは気付いていたが、まさかここまでのものだとは思わなかった。余りの光景に掠れた息を吐くも、もうアルトには声を上げる力もほとんど残っていない。ただナツから迸る凄まじい魔力の渦に身を打たれながら、瞠目して見届けようとするばかりで。


「許さない許さない許さない! アルト、生きろよ、一人で逝くなんて絶対に許さない!!!!」


 ナツの叫びに応えるように、薄汚れたザックの中から何かが抜け出してきた。粗末な木製の人形の形をしたそれが、ふわりと浮かんでアルトの元にやって来る。アルトの指に触れたそれが指先からビキビキと形を変えていき、見る見るアルトの容姿を写し取っていく。

 三十秒も経たずに出来上がった顔も身長も何もかも同じもう一人のアルトが、静かに目を閉じてナツの傍らに浮いている姿が、アルトが己の瞳で見た最後の世界の光景だった。




※※※




 そうして次に目を覚ましたアルトは、荒地となった村の真ん中、己を抱き締めて茫然と座り込むナツを見て、優しく笑った。



「――良かった。僕はまだ、ナツと一緒に居られるんだね」



 その言葉こそがナツを縛る鎖に最後の鍵を掛けるのだと、アルトはよく知っていた。




※※※




「機嫌が良さそうだね、ナツ」


 とりどりの花が咲き乱れる王宮の奥庭の一角で、豪奢な衣装に身を包んだ黒髪の少年を背後から抱き締めながら、アルトはそう問いかけた。


「ん。前に持ち込んだバレイモの花が上手く咲いたって報告が来たから、割と収穫量が見込めそうでさ。あれってオレの故郷では救荒作物だった芋に似てるから、食糧難改善にも期待できるぜ」


 浮き浮きした様子で「沢山採れたら油で揚げてポテトチップ作ろう!」と宣言するナツに、アルトは楽しげに笑った。ナツが楽しければアルトも楽しい。ただしそれは、アルト以外の人間がナツに関わらない場合に限るが。


 食に煩い国の出身らしいナツは特に食糧事情の改善に熱心で、彼が持ち込む植物や動物には大体外れがない。先日も山に入った際、粗食に耐えて寒さにも強い大きな鳥を見つけたらしいので、遠からず繁殖の目途が付けば、肉も脂も採れるようになるだろう。この岩地の国に適応できる大型獣は貴重である。


 ――クーデターに成功し、実際に王位を奪取してから判明したことだが、意外にもナツには才能があった。彼本人としては無自覚だろうが、それは確かに王として立つだけの才能だった。少なくとも、先代までの王たちとは比べ物にならない程度には。


 成程、細かな政務の技能は欠けているに違いない。しかしそんなものなら既に経験豊富な官吏たちがいるし、アルトに至っては文字通りの『天才』として学問にも政務にも遺憾なくその才能を花開かせている。ナツの有するいっそ異常とすら言える知識の数々は、些細な世間話の一端でさえ新奇な工夫として政案に変えたし、何よりもナツが理想とし、そこに導くだけの意思を見せた『正当な』国の在りようは、民にも官吏にも、国になど然程興味のないアルトにとってすら余りにも魅力的だったのだ。


 別に、『こういう国にしたい』などとナツが語ったわけではない。けれどナツが導く方向を見ていれば、自ずとその姿は輪郭を見せた。仮令それが陽炎のように朧げな影であっても、長年逆境の中で生活を送ってきた国民たちからすれば強烈に惹かれずにはいられないに違いない。


 ――恵まれた国だったのだろう、とアルトは思う。それは確かに、ナツのような人間を作り上げるほど。ここまでの憧憬と慕情を、ナツに抱かせるほどに。そこはきっとこの世界のどんな国よりも、『正しく』存在する国だった。


 世界が大嫌い、人間が大嫌い。それでも開き直って冷酷にはなり切れないのがナツの何よりの悲劇だ。ナツが失ったという故郷が何処にあるのか、アルトは知らない。けれど未だナツの中に留まる記憶はどこまでも美しく、苦しいほどに輝いていて、だからこそナツはその差違に苦しみ焦がれながらも、そこで教えられてきたものを捨てることができないのだ。


 ――そんな少年を哀れに思いながらも、彼を掴むこの手を離すつもりなど、アルトには微塵もないのだけれど。


「そう言えば、臣下たちに探させていたサクラの木は見つかったのかい?」

「んー、そっちは全然。できれば奥庭に欲しかったんだけどなぁ……国が安定してない状況で、あんまり大々的に趣味の物件を捜索する訳にもいかねーし」

「あれ、木の実が採れるって言ってなかったっけ?」

「採れるけど、他にもっと効率の良い木は幾らでもあるからな。最優先しろとは言いにくいんだよ」

「まあ、見つからなかったら、いつか二人で旅に出た時改めて探しに行けばいいよ。君の好きな花の下で、僕も『花見』をしたいからね」


 ――あの篝火に照らされた夜の中、アルトが生き延びるためにその魂を移されたのは、古代期の遺産であるという一つの魔導人形だった。

 ナツとアルトの命の対価にと、ナツがダンジョンで見つけ出してきたその人形は、奇しくも予定していたのとは別の形でアルトの命を繋いだ。数千年の間に魔導技術が衰退してしまった現代の品物とは比べようもないほど高品質とは言え、やはり色々と不便はあるし、まだ器と魂の連結が上手く出来ていないせいで体調を崩すことも多い。

 国中に網目状の魔力回路が駆け巡るこの国の、更に中心地である王宮からアルトがほとんど離れられないのはそのせいだった。少なくともここにいれば、器の崩壊という事態は遠ざけられる。


「しようぜ、花見。桜はないけど、ちょっと似てる花がこの国にもあるみたいなんだ。見頃が丁度春らしいからさ、アルトと一緒に見に行きたい」


 ――不安定な器の中で、ヒトとしての存在を失って生きるアルトに後悔はない。

 だって、アルトがこうなったからこそ、ナツはアルトに縛られていてくれるのだ。依存と友愛と罪悪感。その全てが揃っているからこそ、ナツは二度とアルト以外を見ようとしない。アルトと共に在るために生き、アルトのために手を汚し、アルトのために王にまでなった。何よりも欲しかったものが手に入った今、アルトは『人間』である自分になんて何の未練もないのだ。


「――うん。嬉しいな」


 硝子細工の美貌で微笑んで、アルトはナツを抱き締める手に力を込めた。五年前の無表情の面影もない美しい顔は、ただナツに見せるためだけに存在している。


 次はこの器に、ナツと一緒に年を重ねられる機能を付けたいな。老いない人形の身体を持つ青年はそう考えながら、すり、と頬をナツの肩に摺り寄せた。ナツが擽ったそうに笑う気配がして、また幸せな気分になった。


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