教室のギターは誰のもの?
「じゃあ――最後は優歌だね」
響に名前を呼ばれ、優歌はびくりと肩を揺らした。
「……はい!」
返事だけは元気よくできた。
けれど、心臓はさっきから落ち着かない。
美恋の、繊細で切ない歌声。
サニーの、聴いているだけで楽しくなるような歌声。
そして、金星の、胸の奥にしまっていた感情を絞り出すような歌声。
三人とも、選んだ曲に自分だけの想いを込めていた。
それぞれの「歌う理由」が、確かに歌声になっていた。
だからこそ。
――私には、何が歌えるんだろう。
そんな不安が、胸の奥に残っていた。
「優歌ちゃん、頑張って!」
サニーが笑顔で手を振る。
「大丈夫よ。そんなに緊張しなくても」
美恋も声をかけてくれた。
「……ありがとう」
優歌は小さく笑い、席を立った。
そして、教室の前へ向かおうとして――ふと足を止める。
「あ、あの……先生」
「ん? どうしたの?」
「歌う前に、ひとつ聞いてもいいですか?」
「もちろん」
優歌は少し迷ってから、教室の後ろを指さした。
「……あれ、使ってもいいですか?」
響が振り返る。
つられて、三人も教室の後ろへ目を向けた。
壁際に、一本のアコースティックギターが立てかけられている。
落ち着いた焦げ茶色のボディ。
使い込まれた木目には、光の加減で小さな擦り傷が浮かんでいた。
「ああ、ギター?」
響は少し驚いたように目を瞬かせた。
「もちろんいいけど……優歌、弾けるの?」
「はい。一応……!」
その瞬間。
「えっ!?」
真っ先に声を上げたのは、美恋だった。
「ちょっと待って。あれ、優歌のギターだったの?」
「うん」
「私、てっきり学校の備品だと思ってたんだけど!」
「あはは……実は、家から持ってきたんだ」
優歌は照れくさそうに笑った。
「いつか授業で使えたらいいなって思って。先生には、教室に置いてもいいか聞いてたんだけど……」
「それ、先に言ってよ!」
「えへへ……」
「えええーっ!」
今度はサニーが勢いよく立ち上がった。
「優歌ちゃん、ギター弾けるの!? すごーい!」
「う、うん!」
「いつから!? どれくらい!? ねえ、ほかのギターも持ってる!?」
「サニー、質問が多いわよ」
美恋が苦笑する。
優歌は頬をかきながら答えた。
「中学のとき、軽音部に入ってたんだ」
「軽音部!?」
「うん。アコギもエレキも弾いてたよ。バンドで演奏するのも好きだったけど……」
優歌は、教室の後ろにあるギターへ目を向けた。
「一人で弾き語りするのが、特に好きで」
「へえ……」
美恋が感心したように呟く。
「意外ね。そういうの、自己紹介のときに言ってくれればよかったのに」
「えっ? だって、聞かれなかったから……」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「えへへ……」
「優歌ちゃん、かっこいいー!」
サニーはすっかり目を輝かせていた。
その隣で、金星が静かに口を開く。
「……優歌は、ギターを弾きながら歌うのが好きなんだね」
「うん!」
優歌は頷いた。
「なんかね、ギターを弾いてると、自然に歌いたくなるんだ」
「……そうなんだ」
金星は柔らかく微笑んだ。
その目元には、先ほど流した涙の名残がまだ少しだけあった。
けれど、今は優歌の話を楽しそうに聞いてくれている。
それが、優歌には嬉しかった。
「いいね」
響も笑った。
「じゃあ今日は、弾き語りで聴かせてもらおうかな」
「はい!」
* * *
優歌は教室の後ろへ向かった。
ギターを手に取り、ストラップを肩にかける。
焦げ茶色のボディが、いつもの位置に収まった。
左手でネックを支え、右手で軽く弦を弾く。
開放弦を一本ずつ鳴らしながら、音のずれを確かめていく。
必要なところだけペグを回し、もう一度弦を弾いた。
何度も繰り返してきた、慣れた動作だった。
「……よし」
優歌は小さく頷く。
試しに、コードをひとつ鳴らした。
――じゃらん。
柔らかな音が、教室に広がった。
「わあ……!」
サニーが声を上げる。
「なんか、一気にライブみたい!」
「ふふ、そうね」
美恋も笑った。
優歌はギターを抱え直し、教室の前に立った。
響がマイクスタンドを用意してくれる。
「高さ、これくらいで大丈夫?」
「はい。ありがとうございます!」
マイクの位置を確かめ、優歌は一度、深く息を吐いた。
不思議だった。
さっきまで、あんなに緊張していたのに。
ギターを持った途端、胸のざわめきが少しずつ落ち着いていく。
左手に伝わる、ネックの感触。
指先に触れる、弦の硬さ。
右腕に収まる、木のボディの丸み。
どれも、よく知っている感覚だった。
中学の音楽室。
放課後の部室。
何度も何度も、同じコードを押さえた指先。
うまく音が鳴らなくて、悔しかった日。
初めて一曲を通して弾けた日の嬉しさ。
友達と音を合わせたときの、あの楽しさ。
全部、覚えている。
ギターは、ずっと自分のそばにあった。
「……よし」
もう一度、小さく呟いた。
「準備できた?」
響が尋ねる。
「はい!」
「じゃあ、聴かせて」
優歌は頷き、左手で最初のコードを押さえた。
右手を弦の上へ運ぶ。
小さく息を吸う。
そして。
――じゃらん。
最初の音が鳴った。
明るく、澄んだ響き。
右手が自然に動き始める。
軽やかなストロークに合わせて、一定のリズムが生まれた。
ひとつ、ふたつ。
コードが変わる。
指先は迷わず、次の形を捉えていく。
そして、歌い出し。
優歌はマイクへ顔を近づけた。
最初の一音には、少しだけ緊張が残っていた。
思ったより声が小さくなり、優歌はほんの少しだけ眉を寄せる。
――大丈夫。
もう一度、息を吸う。
ギターの音は、変わらず鳴っている。
いつもと同じリズム。
何度も弾いてきた、大好きな曲。
その音に背中を押されるように、優歌の声が少しずつ伸びていった。
明るく、柔らかい声。
まだ少し頼りなさはあるけれど、言葉の端々に弾むような響きがあった。
優歌が選んだのは、旅立ちを思わせる曲だった。
どこまでも続く青空。
まだ歩いたことのない道。
遠くに見える、知らない景色。
そして、自分だけの未来。
前へ進みたいのに、うまく進めない日もある。
誰かと比べて、落ち込むこともある。
自分がどこへ向かっているのか、分からなくなることだってある。
それでも。
今まで歩いてきた道は、決して無駄ではない。
遠回りしてもいい。
立ち止まってもいい。
また歩き出せば、きっと新しい景色に出会える。
そんな想いが込められた曲だった。
優歌の右手が、軽やかに弦を鳴らす。
サビへ向かうにつれ、ストロークが少しずつ力強くなっていく。
そして――
ぱっと視界が開けるように、歌声が大きく広がった。
「……わあ」
サニーが小さく声を漏らすのが聞こえた。
優歌は、思わず口元を緩めた。
楽しい。
さっきまであんなに緊張していたのに。
今は、ただ楽しかった。
ギターの音が弾む。
それに合わせて、歌声も弾む。
肩が自然と揺れ、足先で小さくリズムを取る。
いつもの部屋で、一人で弾いているときとは違う。
目の前には、聴いてくれる人がいる。
サニーは体を揺らしながら、楽しそうに笑っていた。
美恋は頬杖をつくのも忘れたように、じっとこちらを見ている。
金星は、静かに微笑んでいた。
その表情が目に入るたび、優歌の胸が温かくなる。
――聴いてくれてる。
自分の歌を。
自分のギターを。
それが、こんなにも嬉しいなんて。
優歌は歌いながら、中学の頃を思い出した。
放課後の部室で、何度も同じフレーズを練習したこと。
家で一人、好きな曲を歌ったこと。
指先が痛くなるまで弦を押さえた日もあった。
自分よりずっと上手な人を見て、落ち込んだこともある。
それでも。
ギターを手に取ると、また歌いたくなった。
音楽が好き。
歌うことが好き。
そして――
誰かと一緒に、音楽を楽しむことが好き。
それだけは、ずっと変わらなかった。
曲は最後のサビへ向かっていく。
優歌のストロークが、さらに力強くなる。
コードが切り替わるたび、明るい音が重なっていった。
窓の外では、春の風が吹いている。
カーテンがふわりと揺れた。
優歌は顔を上げる。
目の前には、三人のクラスメイト。
サニーが、笑っている。
美恋が、頷いている。
金星が、こちらを見つめている。
その光景が、たまらなく嬉しくて。
優歌は、思わず笑った。
最後のフレーズ。
声を伸ばしながら、右手で弦をかき鳴らす。
そして、最後のコード。
――じゃらん。
余韻が、ゆっくりと教室に溶けていく。
優歌は、弦の振動が収まるのを待ってから、そっと右手を下ろした。
「……ふうっ」
大きく息を吐く。
「……終わりました!」
次の瞬間。
「すっっっごーーーい!!」
サニーが勢いよく立ち上がった。
「優歌ちゃん! すごい! めっちゃよかった!」
「わっ! あ、ありがとう!」
「ギターも上手だし! 歌もすっごく楽しそうだった!」
「えへへ……」
「ねえねえ! もう一曲!」
「サニー、まだ授業中よ」
美恋が笑いながらたしなめる。
「でも……本当に素敵だった」
「……美恋ちゃん」
「なんていうか、優歌らしい歌だったわ」
「私らしい?」
「うん」
美恋は少し考えるように首を傾げた。
「聴いてると、こっちまで前向きになれるっていうか……」
そこで、少し照れくさそうに視線を逸らす。
「……まあ、そういう感じ」
「……ありがとう」
優歌は思わず笑った。
「……私も」
金星が口を開いた。
三人がそちらを見る。
「私も、そう思った」
「金星ちゃん……?」
金星は優歌のギターを見つめた。
「優歌の歌って、不思議だね」
「え?」
「歌声だけじゃなくて、ギターの音も……すごく楽しそうだった」
優歌は目を瞬かせた。
「音楽が好きなんだなって、伝わってきた」
「……!」
優歌は思わず、腕の中のギターを見下ろした。
焦げ茶色のボディ。
何度も触れてきた弦。
そして、少しだけ硬くなった指先。
「……うん」
優歌は顔を上げ、笑った。
「大好き」
その答えに、迷いはなかった。
* * *
「優歌」
響が静かに声をかけた。
「はい」
「まず、ギターが上手だったね」
「えっ……ありがとうございます!」
「コードチェンジも安定していたし、ストロークのリズムもよかった。中学の頃から、しっかり弾いてきたんだなって分かったよ」
優歌は照れくさそうに笑った。
「ただ、歌い出しは少し遠慮していたかな」
「……あっ」
優歌は思わず顔を上げた。
「分かりました?」
「うん。最初の一音、ちょっと自信がなさそうだった」
「……緊張しちゃって」
「そうだよね。でも、途中からすごくよくなったよ」
響は頷いた。
「特にサビ。ギターと声が自然に重なって、優歌自身が楽しんでいるのが伝わってきた」
「……ありがとうございます」
「ひとつ、これからの課題を挙げるなら……」
響は少し考えてから続けた。
「ギターを弾きながらでも、歌の言葉をもう少し丁寧に届けられるといいね」
「……言葉、ですか?」
「うん。弾き語りって、演奏に意識が向くと、歌詞の一部が流れてしまうことがあるんだ」
優歌は、思い当たることがあって頷いた。
「だから、どの言葉を一番伝えたいのか、意識して歌ってみるといいと思う」
「……はい!」
優歌はしっかりと頷いた。
「それで、もうひとつ聞きたいんだけど」
響が優しく微笑む。
「改めて、どうしてこの曲を選んだの?」
優歌は、少し考えた。
「……私、この曲を聴くと元気が出るんです」
「うん」
「何かうまくいかないことがあっても、まだ先があるんだって思えるから」
ギターのネックを、そっと握る。
「中学のときも、練習がうまくいかない日とか、友達と意見が合わない日とか、いろいろあって」
優歌は少し恥ずかしそうに笑った。
「でも、そういうときにこの曲を弾くと……もう一回、頑張ってみようかなって思えたんです」
響は静かに頷いた。
「なるほどね」
「だから……」
優歌は続けた。
「私も、誰かにそう思ってもらえる歌を歌いたいです」
教室が静かになる。
「落ち込んでる人とか、悩んでる人とか。そういう人が、私の歌を聴いて……ちょっとでも前を向けたらいいなって」
優歌は、ギターを抱えたまま笑った。
「それが、私の歌う理由なのかもしれません」
響はしばらく優歌を見つめていた。
そして、優しく微笑む。
「……いいね」
優歌が顔を上げる。
「優歌は、誰かと一緒に進んでいきたいんだね」
「……一緒に?」
「うん」
響は続けた。
「誰かを引っ張っていくんじゃなくて、隣に並んで歩く」
「……」
「自分も迷ったり、立ち止まったりするけど、それでも一緒に進んでいこうって」
優歌は目を見開いた。
「……あ」
その言葉が、すとんと胸に落ちた。
そうだ。
自分は、誰かを励ましたいと思っていた。
でも。
自分だって、いつも元気なわけじゃない。
悩むこともある。
落ち込むこともある。
それでも、誰かと一緒なら。
少しだけ、前に進める気がする。
「……私」
優歌は、小さく呟いた。
「一人で歌うのも好きなんですけど……」
三人が優歌を見る。
「誰かと一緒に歌うのは、もっと好きかもしれません」
サニーが、ぱっと笑った。
「わかるー!」
「え?」
「私も! 一人で歌うのも楽しいけど、みんなで歌ったらもっと楽しいもん!」
「ふふ、そうね」
美恋も笑った。
「私も……ちょっと分かる気がする」
「……私も」
金星が静かに頷いた。
優歌は三人を見た。
そして、胸の奥がじんわりと温かくなった。
昨日まで、知らなかった人たち。
まだ出会って、ほんの少ししか経っていない。
歌い方も、好きな曲も、考え方も。
みんな、全然違う。
それなのに。
今、こうして同じ教室で、同じ音楽を聴いて笑い合っている。
それが、たまらなく嬉しかった。
「……ねえ」
優歌が口を開いた。
「いつか、みんなで一緒に歌いたいな」
「えっ!」
サニーが目を輝かせる。
「歌おうよ! 絶対楽しい!」
「ちょっと、まだ気が早いんじゃない?」
美恋はそう言いながらも、笑っていた。
「……でも、いいね」
金星も小さく微笑んだ。
響はそんな四人を見て、満足そうに頷いた。
「いいじゃない。歌い手学科なんだから、そういうこともどんどんやっていこう」
「はい!」
優歌が元気よく返事をする。
「……あ、でも!」
サニーが突然、手を挙げた。
「優歌ちゃん!」
「ん?」
「今度、エレキギターも聴かせて!」
「あっ、私も気になる」
美恋も続く。
「アコギがこんなに上手なんだもの。エレキも聴いてみたいわ」
「ええっ!? そんな、期待されるほどじゃ……!」
優歌は慌てた。
「でも、弾けるんでしょ?」
「う、うん……」
「じゃあ決まり!」
「ええーっ!?」
教室に笑い声が響く。
響も、くすくすと笑っていた。
「ふふ。優歌、人気者だね」
「せ、先生まで……!」
優歌は顔を赤くした。
けれど、嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、胸の奥がくすぐったいような、嬉しいような。
そんな不思議な気持ちだった。
* * *
「さて。じゃあ、これで四人とも歌ったね」
響が教卓に手をついた。
「どうだった?」
「楽しかったー!」
真っ先に答えたのはサニーだった。
「私も……緊張したけど、歌えてよかったです」
美恋が言う。
「……私も、勉強になりました」
金星も頷いた。
響は最後に、優歌を見る。
「優歌は?」
「……私ですか?」
優歌は、ギターを抱えたまま少し考えた。
今日、初めて聴いた歌声。
美恋の歌。
サニーの歌。
金星の歌。
どれも、自分とは違っていた。
それぞれに、違う色があった。
そして、自分にもきっと。
「……もっと歌いたいです」
優歌は笑った。
「もっと、いろんな歌を歌ってみたい」
そして、三人を見つめる。
「みんなの歌も、もっと聴きたいです!」
四人の顔が、一斉に笑顔になる。
響も笑った。
「うん」
少しだけ間を置いて。
「それなら、歌い手学科としては――大成功だね」
教室に、明るい笑い声が響いた。
窓の外には、春の青空が広がっている。
まだ始まったばかりの高校生活。
歌い手とは何なのか。
自分たちは何者なのか。
その答えは、まだ分からない。
けれど。
迷ったっていい。
遠回りしたっていい。
自分のペースで、一歩ずつ。
その先には、きっと。
まだ知らない景色が待っている。
優歌は、腕の中のギターを見下ろした。
そして、そっと弦をひとつ鳴らす。
――ぽろん。
小さく、優しい音が響いた。
まるで、これから始まる物語を祝福するように。
自分だけの色を探す旅は、まだ始まったばかりだ。




