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6/10

金星の過去


 十分間の休憩が終わった。


 教室の前には、先ほど美恋とサニーが使ったマイクが一本。


 床を這う黒いコードも、両脇に置かれたスピーカーも、何ひとつ変わっていない。


 けれど、優歌には、その場所が休憩前とは少し違って見えた。


 美恋の、胸にそっと触れるような歌声。


 サニーの、聴く人まで笑顔にしてしまう歌声。


 同じマイクから、まったく違う二つの世界が生まれた。


 次は、どんな歌が聴けるのだろう。


「じゃあ、次は金星」


 響の声に、金星が静かに立ち上がった。


「……はい」


 いつもと変わらない、落ち着いた返事だった。


 金星は教室の前へ進み、響からマイクを受け取る。


 そして、手元のスマートフォンに目を落とした。


 画面には、前回の授業で選んだ曲が表示されている。


 金星が歌い手を目指すきっかけになった曲。


 そして――これまで、金星が歌ってきた唯一の曲。


 優歌は、昨日の言葉を思い出していた。


 ――まだ、ほかの曲を歌う理由が見つからなくて。


 あのとき、金星はそう言っていた。


 それほどまでに、この曲は特別なのだろうか。


「準備はいい?」


 響が尋ねる。


「はい」


 金星はスマートフォンを机に置き、マイクを握り直した。


 響が再生ボタンを押す。


 金星は静かに目を閉じた。


 一度、短く息を吸う。


 そして――歌い始めた。


 その瞬間。


 優歌は、思わず息を止めた。


 知らない声だった。


 いや、声そのものは確かに金星のものだ。


 けれど、普段の彼女からは想像できない響きがあった。


 低く、張り詰めた声。


 言葉の一つひとつが、何かを押し殺すように吐き出されていく。


 優歌の知っている金星は、いつも穏やかだった。


 困っている人がいれば、さりげなく手を貸す。


 誰かが落ち込んでいれば、無理に励まそうとはせず、そっと隣にいてくれる。


 自分のことより、周りのことを先に考えているような人。


 けれど。


 今、目の前で歌っている金星は、まるで違った。


 怒っているように聞こえた。


 何かを必死に訴えているようにも。


 それなのに、ふとした瞬間、すべてを諦めてしまったような響きが混じる。


 強く声を張り上げた直後に、かすれるほど小さくなる。


 次の言葉へ進む前、わずかに息が詰まる。


 音程を外したわけではない。


 けれど、その一瞬の揺らぎが、優歌には妙に生々しく感じられた。


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


 美恋は、机の上で重ねた手を動かさない。


 サニーも、いつもの笑顔を消していた。


 誰も、声を発しなかった。


 金星の歌だけが、教室を満たしていく。


 曲が進むにつれ、歌声は次第に激しさを増していった。


 どうして、自分ばかりが。


 どうして、誰にも届かないのか。


 そんな問いを、何度も何度も繰り返しているようだった。


 けれど、優歌が最も胸を痛めたのは、怒りを感じさせる部分ではなかった。


 曲の終盤。


 金星の声が、ふっと弱くなった。


 それまで外へ向けられていた感情が、今度は自分自身へ向けられたように聞こえた。


 責めるように。


 言い聞かせるように。


 まるで、自分には何も望む資格がないとでも思っているように。


 優歌は膝の上で、そっと手を握った。


 ――どうして。


 どうして、こんなに苦しそうなんだろう。


 ただ、曲の世界を表現しているだけなのかもしれない。


 そう思おうとした。


 けれど、金星の歌声には、どこか切実なものがあった。


 昨日、彼女が話していたこと。


 自分の気持ちが分からなくなったこと。


 考えないようにしていたこと。


 その言葉が、頭の中で繋がりかける。


 優歌は、金星から目を離せなかった。


 やがて、最後のフレーズが終わる。


 伴奏がゆっくりと消えていった。


 金星は、しばらく目を閉じたままだった。


 やがて、静かに息を吐く。


 教室には、誰の声もなかった。


 サニーが何かを言おうとして、口を閉じる。


 美恋も、視線を落としたまま動かない。


 優歌は、何を言えばいいのか分からなかった。


 すごかった。


 確かに、そう思う。


 けれど、その一言だけでは、今聴いたものを受け止めきれない気がした。


「……どう、でしたか?」


 金星が小さく尋ねた。


 いつもの、穏やかな声だった。


 それがかえって、優歌の胸を締めつけた。


「……あれ?」


 返事がないことに気づき、金星は少し困ったように笑った。


「そんなに、変だった?」


「違う!」


 優歌は思わず声を上げた。


 金星が驚いて顔を向ける。


「……違うの。ただ……」


 言葉が続かない。


 綺麗だった、と言うのも違う気がした。


 上手だった、だけでも足りない。


 優歌が口ごもっていると、響が静かに声をかけた。


「金星」


「……はい」


「まず、最後まで歌ってくれてありがとう」


 金星は小さく頷いた。


「声の強弱のつけ方が印象的だったよ。特に、後半で一度声を抑えるところ。あそこは、聴いている人を引き込む力があった」


「……ありがとうございます」


「ただ、力が入るところでは少し喉を締めていたかな。あの表現を続けるなら、声を傷めない出し方も一緒に練習していこう」


「はい」


 響はそこで言葉を切った。


 そして、少しだけ表情を和らげる。


「前の授業で、この曲を初めて聴いたとき、自分のことを歌われているみたいだったって話してくれたよね」


「……はい」


「今日、歌ってみてどうだった?」


 金星は、マイクに視線を落とした。


 しばらく考えてから、答える。


「……不思議な感じがしました」


「不思議?」


「はい」


 金星はゆっくりと頷いた。


「いつも、一人で歌っていたので」


 優歌は顔を上げた。


「誰かに聴いてもらうのは、初めてでした」


 その言葉に、サニーが小さく息を呑んだ。


 金星は続ける。


「自分では、もう慣れた曲だと思っていたんです。でも……」


 そこで、言葉が止まった。


 指先が、マイクの柄を強く握る。


「……歌っていたら、昔のことを思い出しました」


 響は、すぐには問い返さなかった。


 ただ、金星の言葉を待っていた。


 金星は少し迷うように視線を揺らしたあと、ぽつりと呟いた。


「……私、昔の話をしてもいいですか」


「もちろん」


 響は頷いた。


「でも、無理に話さなくてもいいからね」


「……はい」


 金星は一度、深く息を吸った。


「少しだけ……聞いてほしいです」


     * * *


「私、小さい頃から……家にいるのが怖かったんです」


 その声は、とても静かだった。


 優歌は、思わず金星を見つめた。


「いつ怒られるか、分からなくて」


 金星はマイクを下ろした。


 響がそっと手を差し出すと、金星はそれを渡した。


「何かを間違えたときだけじゃなくて……何もしていなくても、怒鳴られることがありました」


 教室が静まり返る。


「傷つくことを言われたり……怖い思いをしたり」


 金星は、ゆっくりと言葉を選んでいた。


「でも、その頃は……自分が悪いんだと思っていたんです」


 優歌の胸が痛んだ。


「ちゃんとしていれば、怒られない」


「迷惑をかけなければ、嫌われない」


「もっと頑張れば……いつか、大切にしてもらえるかもしれない」


 一つひとつ、確かめるように口にする。


「だから、なるべく何も言わないようにしていました」


 金星は少し笑った。


 けれど、その笑顔は、優歌が知っているものとは違っていた。


「嫌だと思っても、嫌だって言わない。悲しくても、泣かない。怒りたくなっても、怒らない」


 そこで、金星は一度、唇を結んだ。


「……でも、何も変わりませんでした」


 優歌は何も言えなかった。


 金星の言葉は、決して大きな声ではなかった。


 それなのに、教室の隅々まで届いている気がした。


「そのうち、自分が何を感じているのか……考えないようになったんです」


 金星は窓の外へ目を向けた。


「考えなければ、少しは平気でいられたから」


 ――考えなければ、平気だったから。


 前の授業で聞いた言葉が、優歌の胸によみがえった。


 あのときは、意味を分かったつもりでいた。


 けれど今、金星が何を抱えてその言葉を口にしたのか、ほんの少しだけ見えた気がした。


「幼稚園に通っていた頃、私は児童養護施設で暮らすことになりました」


 金星は続けた。


「最初は、そこでもずっと緊張していました。何か失敗したら、また怒られるんじゃないかって」


 その表情が、わずかに和らぐ。


「でも、施設の人たちは……私が失敗しても、ちゃんと話を聞いてくれたんです」


 金星は小さく息を吐いた。


「ご飯を残してしまった日も、眠れなかった夜も。どうしたのって、聞いてくれて」


 優歌は静かに耳を傾けた。


「すぐに安心できたわけじゃありません。でも……少しずつ、怖くない日が増えていきました」


 金星は自分の手元を見つめる。


「それから、ずっと施設でお世話になって。高校に入るのを機に、今は寮で暮らしています」


「……そっか」


 美恋が、小さく呟いた。


 金星は頷いた。


「今は、毎日が楽しいです」


 そう言って、三人を見る。


「学校に来るのも、みんなと話すのも」


 ほんの少し、笑みが浮かぶ。


「でも……」


 その笑みが、ゆっくりと消えた。


「誰かに頼るのは、今でも苦手で」


 金星は視線を落とした。


「困っていても、大丈夫って言ってしまうんです」


 優歌は、入学してからの金星を思い返した。


 落ち着いていて。


 周りをよく見ていて。


 いつも、誰かのために動いていた。


 優歌は、それを金星の優しさだと思っていた。


 もちろん、今もそう思う。


 けれど、その優しさの中には、彼女が長い時間をかけて身につけた習慣も混じっているのかもしれない。


「……金星」


 美恋が口を開いた。


 金星が顔を上げる。


「私、金星って何でもできる人だと思ってた」


「……うん」


「落ち着いてるし、しっかりしてるし。困ってるところなんて、見たことなかったから」


 美恋は少し言い淀んだ。


「でも……」


 膝の上で、そっと手を握る。


「何でも平気だったわけじゃ、なかったんだね」


 金星は目を瞬かせた。


「……そう、だね」


「できるから頑張ってたんじゃなくて……頑張らなきゃって、思ってたこともあったんじゃない?」


 金星は、すぐには答えなかった。


 やがて、少しだけ目を伏せる。


「……うん」


 その声は、ひどく小さかった。


「そうだったと思う」


 美恋は頷いた。


 それ以上、何も聞かなかった。


 その沈黙を破ったのは、サニーだった。


「……金星ちゃん」


「ん?」


 サニーはいつものように笑おうとして、やめた。


「私、金星ちゃんの気持ち、全部分かるとは言えない」


 金星は黙ってサニーを見つめた。


「だって、私が同じ経験をしたわけじゃないから」


 サニーは真っ直ぐに続ける。


「でも、分からないからって、知らなくていいとは思わないよ」


 その言葉に、金星の表情が揺れた。


「これからも、金星ちゃんのこと、もっと知りたい」


 サニーは少しだけ笑った。


「好きな食べ物とか、行ってみたい場所とか。楽しかったことも、嫌だったことも」


 そして、いつもの明るさを少しだけ取り戻して言った。


「もちろん、話したくないことは話さなくていいからね!」


「……サニー」


 金星は小さく名前を呼んだ。


 優歌も、椅子から立ち上がった。


 金星のそばへ歩いていく。


 けれど、すぐには触れなかった。


 ただ、隣に立つ。


「……金星ちゃん」


「うん」


「話してくれて、ありがとう」


 金星が優歌を見た。


「……え?」


「きっと、簡単に話せることじゃなかったと思う」


 優歌は、少しだけ言葉を探した。


「私、さっきの歌を聴いて……金星ちゃんのこと、全部分かったような気がしてた」


 金星は黙って聞いている。


「でも、違うよね」


 優歌は首を振った。


「まだ知らないこと、いっぱいあると思う」


 そして、そっと笑った。


「だから……これから、少しずつ知っていけたら嬉しいな」


 金星の目が、わずかに見開かれた。


「……うん」


「あとね」


 優歌は少し照れくさそうに続けた。


「金星ちゃんが困ったとき、私にも何かできたら嬉しい」


「……優歌」


「何でもできるわけじゃないけど……一緒に考えることくらいは、できると思うから」


 金星は何かを言おうとした。


 けれど、言葉が出てこないようだった。


 何度か唇を動かして。


 それから、ゆっくりと俯いた。


 ぽたり。


 床に、小さな雫が落ちた。


「……あれ」


 金星が目元に触れる。


 指先が濡れていた。


「……ごめん」


 その言葉に、優歌は首を傾げた。


「どうして謝るの?」


「……分からない」


 金星は、困ったように笑った。


 けれど、涙は止まらなかった。


「こういうとき……どうしたらいいのか、分からなくて」


 優歌は、そっと手を差し出した。


「……手、握ってもいい?」


 金星はその手を見つめた。


 少し迷ってから、小さく頷く。


「……うん」


 優歌が手を握ると、金星の指先は少し冷たかった。


 けれど、やがて弱い力で握り返してくれた。


「どうしたらいいか分からないなら……」


 優歌は笑った。


「一緒に考えようよ」


「……一緒に?」


「うん」


「そうそう!」


 サニーが勢いよく頷いた。


「だって、四人いるんだよ!」


「ちょっと、サニー。声大きい」


 美恋が小声でたしなめる。


「あっ、ごめん!」


 サニーが慌てて口元を押さえた。


 その様子に、金星が小さく笑った。


「……ふふ」


 涙の残る顔で。


 少しだけ、幼い子どものように。


「……ありがとう」


 その笑顔を見て、優歌もようやく息をついた。


     * * *


「……いいクラスになってきたね」


 静かな声がして、四人は振り返った。


 響が教卓のそばに立っていた。


 いつもの穏やかな笑顔だった。


「金星、話してくれてありがとう」


「……はい」


「でも、ひとつだけ覚えておいてほしいことがあるんだ」


 響は四人を見渡した。


「歌を聴くと、その人の気持ちが見えたように感じることがある」


 優歌は頷いた。


 ついさっき、自分もそう感じたばかりだった。


「それは、歌の面白さのひとつだと思う」


 響は続ける。


「でもね。歌を聴いたからって、その人の全部が分かるわけじゃない」


 金星が顔を上げた。


「どんな過去を持っているのか。何を話したいのか。何を話したくないのか」


 響は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「それを決めるのは、本人だから」


 教室が静かになる。


「だから、今日、金星が話してくれたことを大切にしよう」


 響は金星を見る。


「そして、これから金星が話さないことも、同じように大切にしてあげてほしい」


 優歌は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


 知りたいと思うこと。


 知ってもらいたいと思うこと。


 けれど、知られたくないこともある。


 きっと、そのどれもが大切なのだ。


「……はい」


 金星が静かに頷いた。


 響も頷き返す。


「それと、金星」


「はい」


「困ったときは、僕にも話してね。もちろん、すぐに言葉にできなくても大丈夫だから」


 金星は少し驚いたように目を瞬かせた。


 それから、柔らかく微笑む。


「……ありがとうございます」


 優歌は、金星の手をそっと離した。


 金星はハンカチで目元を拭い、ゆっくりと席に戻る。


 まだ少し、目が赤かった。


 けれど、その表情は、さっきよりも穏やかに見えた。


 優歌も席へ戻った。


 窓から差し込む光が、机の上に細長い影を落としている。


 教室の前には、一本のマイク。


 さっきまでと同じ景色。


 けれど優歌には、何かが少し変わったように思えた。


 金星の過去を知ったからだろうか。


 それとも、金星が自分たちに話してくれたからだろうか。


 優歌には、まだ分からなかった。


 ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


 これから金星が笑っていたら、その笑顔を一緒に喜びたい。


 もし困っていたら、気づける人でありたい。


 そして、自分が困ったときにも。


 いつか、金星に頼れるようになれたらいい。


「さて」


 響が、教卓の上のパソコンに目を向けた。


「少し時間が押しちゃったけど……最後は優歌だね」


「……!」


 優歌の肩が跳ねた。


「わ、私!?」


「うん」


 響が笑う。


「準備できそう?」


「えっ、あっ……はい!」


 返事をしたものの、急に心臓が速くなる。


 優歌は慌ててスマートフォンを手に取った。


 画面には、自分が選んだ一曲が表示されている。


 前回の授業で、みんなに話した曲。


 自分の道を、自分で選びたい。


 そんな想いを重ねた曲だった。


 美恋は、大切だった記憶を歌に乗せた。


 サニーは、今を楽しむ気持ちを歌声いっぱいに広げた。


 金星は、ずっと胸の奥にしまってきた感情を歌った。


 そして、次は自分。


 ――私には、何が歌えるんだろう。


 そう考えた瞬間、緊張が胸いっぱいに広がった。


「……急に緊張してきた」


 優歌が小さく呟くと、サニーが笑った。


「大丈夫だよ、優歌!」


「そうそう」


 美恋も頷く。


「私たちも歌ったんだから、今度は優歌の番でしょ」


「……うん」


 優歌は笑おうとした。


 けれど、まだ少し顔がこわばっている。


 そんな優歌に、金星が声をかけた。


「優歌」


「……ん?」


 振り返ると、金星が微笑んでいた。


 目元には、まだ涙の名残があった。


 けれど、その声は優しかった。


「楽しみにしてる」


 優歌は、少しだけ目を見開いた。


 それから、大きく頷く。


「……うん!」


 立ち上がる。


 教室の前へ、一歩踏み出す。


 特別なステージではない。


 立派な機材もない。


 けれど、ここには自分の歌を聴いてくれる人たちがいる。


 優歌は、そっと胸に手を当てた。


 ――今度は、私の番だ。


 何かを上手に伝えようとしなくてもいい。


 誰かと同じように歌えなくてもいい。


 今の自分に歌えるものを、精いっぱい歌おう。


 優歌は、響から差し出されたマイクを受け取った。


 そして、三人の顔を見渡す。


 美恋。


 サニー。


 金星。


 みんなが、こちらを見ている。


 優歌は小さく息を吸った。


 ――この教室で。


 今度は、私の歌を聴いてもらおう。

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