初めての歌声
――次の授業では、実際に歌ってもらおうかな。
そう言われた、次の授業。
優歌は、思わず胸が高鳴るのを感じていた。
いよいよ、みんなの歌声が聴ける。
もちろん、自分も歌うことになる。そう考えると緊張するけれど、それ以上に期待のほうが大きかった。
歌い手学科で初めての歌唱授業。
きっと、レコーディング室のような場所で行われるのだろう。
防音設備の整った部屋に、立派なマイク。ヘッドフォンをつけて、一人ずつ歌うのかもしれない。
あるいは、小さなステージが用意されていたりして。
そんなことを考えながら、優歌は教室を見回した。
「……ここで?」
隣で、美恋も同じことを呟いた。
いつもの教室。
四つの机と椅子。黒板。窓際に並ぶ、まだ使い込まれていない教材。
教室の隅には、音取り用の電子ピアノが一台。
そして黒板の両脇、床の上には二つのスピーカーが置かれている。
片方のスピーカーには、長いコードのついたマイクが一本、繋がっていた。
「うん。今日はここでやるよ」
教卓の上でノートパソコンを開いていた響が、顔を上げた。
「機材はまだこれだけしかなくてね。パソコンから音源を流して、順番に歌ってもらおうと思ってる」
「……えっ、これだけ?」
サニーが目を丸くする。
「うん。これだけ」
響はあっさり頷いた。
「新しくできたばかりの学科だからね。予算もまだ潤沢とは言えないんだ」
響は苦笑しながら、ケーブルの接続を確かめた。
「ちなみに、そのマイクは有線だから、あんまり遠くまで動かないようにね」
「えーっ! ステージみたいに動き回れないじゃん!」
「はは。いつかワイヤレスマイクも買ってもらおうね」
「絶対だよー!」
サニーが念を押すと、教室に笑い声が広がった。
優歌もつられて笑う。
想像していたレコーディング室とは、ずいぶん違った。
立派な機材も、特別なステージもない。
けれど、不思議とがっかりはしなかった。
ここで、みんなの歌を聴ける。
それだけで、十分に特別な場所になる気がした。
「まあ、最初はこんなものだよ」
響はパソコンを操作しながら言った。
「機材が揃ってからじゃないと歌えない、なんてことはないからね」
そして、四人を見渡す。
「前回選んでもらった曲、みんな一度は歌ったことある?」
「私はあります」
金星が答える。
「私も」
美恋が続いた。
「私もあるよー!」
サニーも元気よく手を挙げる。
最後に、優歌。
「……私も、一応」
「よかった。じゃあ今日は、一人ずつ歌ってみようか」
その瞬間、教室の空気が少しだけ引き締まった。
さっきまで楽しそうに笑っていたサニーも、マイクへちらりと視線を向ける。
「……誰から?」
美恋が小さく呟いた。
響は少し考え、彼女を見る。
「じゃあ、まずは美恋からお願いしようかな」
「えっ、私!?」
「うん。目あったし」
「……まあ、いいですけど」
「がんばってー!」
サニーが美恋の肩をぽん、と叩いた。
「ちょっと、まだ何も始まってないんだけど!」
美恋は困ったような顔をした。
けれど、その口元には、ほんの少し笑みが浮かんでいた。
* * *
美恋は席を立ち、黒板の前へ歩いていった。
響からマイクを受け取る。
黒いマイクから伸びたコードが、床の上にゆるやかな曲線を描いていた。
いつもの制服姿。
ステージ衣装でもなければ、スポットライトもない。
目の前にいるのは、三人のクラスメイトと担任の先生だけだ。
「じゃあ、まず音量を確認しようか」
響がパソコンを操作すると、スピーカーから小さな音が鳴った。
「美恋、ちょっとマイクで喋ってみて」
「……あ、あー。聞こえますか?」
少し遅れて、スピーカーから美恋の声が返ってくる。
普段より大きく響いた自分の声に、美恋は驚いたように目を瞬かせた。
「うん、大丈夫そうだね。伴奏とのバランスも確認するから、歌い始めて気になることがあったら教えて」
「……はい」
美恋はマイクを持ち直した。
響が再生ボタンを押す。
教室に、静かなイントロが流れ始めた。
床に置かれたスピーカーから聞こえる伴奏は、決して迫力のあるものではなかった。
低音は少し軽く、細かな音は教室のざわめきに紛れてしまいそうになる。
それでも、美恋が最初の息を吸った瞬間。
優歌は、自然と背筋を伸ばしていた。
美恋はそっと目を閉じる。
そして――歌い始めた。
柔らかな声だった。
普段の、少し強気ではっきりとした話し方からは想像できないほど、繊細な歌声。
甘く可愛らしい響きがあるのに、どこか寂しい。
語尾を急いで切らず、余韻を残すように次の音へ繋いでいく。
高い音へ移るときも、無理に声を張り上げない。
細い糸を切らさないように、丁寧に旋律をたどっていた。
優歌は、息をするのも忘れそうになった。
昨日、美恋が選んだ曲について話していたことを思い出す。
――終わった恋を、なかったことにはしたくない。
その言葉を聞いたとき、優歌にはまだ、よく分からない部分があった。
けれど今は、少しだけ分かる気がした。
美恋の歌声には、悲しさだけではないものがあった。
失くしてしまったものを惜しむ気持ち。
それでも、出会えたことまで後悔したくないという気持ち。
優歌がそんなことを考えていると、美恋の声がわずかに揺れた。
高音へ向かう直前の、ほんの一瞬。
けれど美恋は歌うのをやめず、次の言葉へ繋いでいった。
完璧な歌ではなかったのかもしれない。
それでも、優歌は目を離せなかった。
やがて曲が終わる。
最後の伴奏が消え、教室に静けさが戻った。
美恋はマイクを下ろした。
誰も、すぐには口を開かなかった。
「……すごい」
最初に声を漏らしたのは、優歌だった。
美恋が顔を上げる。
「美恋ちゃん、すごく綺麗だった」
「……そ、そう?」
「うん」
優歌は頷いた。
「なんて言えばいいんだろう……歌を聴いてたはずなのに、美恋ちゃんが話してくれてるみたいだった」
「……!」
美恋が目を見開く。
「昨日、曲のことを話してくれたでしょ? あのときの言葉が、歌を聴いてたら思い出されて……」
優歌は少し照れながら笑った。
「ちゃんと、美恋ちゃんの歌になってたと思う」
美恋は顔を赤くして、そっぽを向いた。
「…褒めすぎ」
「本当のことだよ?」
「……もう」
美恋はそれ以上何も言わなかった。
けれど、マイクを握っていた手から、少しずつ力が抜けていくのが見えた。
「うん。いい歌だったね」
響が穏やかに言った。
「特に、言葉の終わり方がよかった。余韻を大切にしているのが伝わってきたよ」
「……ありがとうございます」
「ただ、後半は少し息が足りなくなってたかな。高い音に入る前、もう少し余裕を持って息を吸えると、最後まで安定すると思う」
美恋は真剣な顔で頷いた。
「はい」
「でも、今の歌い方は大事にしてほしいな。無理に大きな声を出さなくても、ちゃんと届くものがあるから」
響は少し笑った。
「歌ってみて、どうだった?」
美恋は考え込んだ。
それから、小さく息を吐く。
「……緊張しました」
「うん」
「でも……」
美恋は三人を見た。
優歌と目が合うと、少し恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……楽しかったです」
響は嬉しそうに頷いた。
「そっか。それならよかった」
美恋はマイクを返し、席へ戻った。
「お疲れさま!」
サニーが笑顔で迎える。
「……ありがと」
美恋は短く答えた。
その頬は、まだ少し赤かった。
* * *
「じゃあ、次はサニー」
「はーい!」
呼ばれると同時に、サニーが勢いよく立ち上がった。
「任せて!」
「緊張してないの?」
優歌が尋ねる。
「してるよ?」
「……してるように見えない」
「だって、緊張してるからって、楽しまなかったらもったいないじゃん!」
サニーはにっと笑った。
そう言いながらも、マイクを受け取る手には、ほんの少し力が入っていた。
優歌はそれを見て、少し安心した。
サニーだって、緊張するんだ。
「サニー、コードには気をつけてね」
響が念を押す。
「はーい!」
「本当に気をつけてね?」
「分かってるってば!」
その返事に、美恋が小さく笑った。
響がパソコンを操作する。
流れ始めたイントロは、先ほどとはまったく違っていた。
軽快なリズム。
弾むようなメロディー。
最初の数小節だけで、教室の空気が明るくなる。
サニーは一度、大きく息を吸った。
そして、歌い始めた。
――明るい。
優歌が最初に感じたのは、それだった。
声そのものが、笑っているようだった。
弾むリズムに合わせて言葉を軽やかに乗せ、音が跳ねるところでは、歌声まで一緒に跳ね上がる。
ただ元気なだけではない。
速い言葉の連なりも、サニーは楽しそうに歌いこなしていた。
息を継ぐ場所をきちんと選び、次のフレーズへ迷わず飛び込んでいく。
サビに入ると、その声はさらに伸びやかになった。
高い音へ向かっても、勢いが失われない。
むしろ、そこからが一番楽しそうだった。
「……すごい」
優歌は思わず呟いた。
サニーは歌いながら、小さくステップを踏んでいる。
肩を揺らし、膝を曲げ、ときには軽く飛び跳ねる。
そのたびに、マイクのコードが床を滑った。
そして、サビの終わり。
サニーが勢いよく一歩踏み出した瞬間――
ピンッ。
コードがまっすぐに張った。
「……っ!」
響が思わず腰を浮かせる。
サニーは一瞬だけ足元を見たものの、すぐに半歩戻り、何事もなかったかのように歌い続けた。
優歌は笑いをこらえるのに必死だった。
美恋も口元を押さえている。
金星は肩を小さく震わせながら、それでも楽しそうにサニーを見つめていた。
サニーは、そんな三人の反応に気づいたのか、ますます嬉しそうに笑った。
まるで、聴いている人が楽しんでくれることまで、自分の喜びにしているようだった。
やがて最後のサビが終わる。
サニーは伸びやかに最後の音を歌い切り、ぱっと顔を上げた。
伴奏が止まる。
「……終わったー!」
サニーは大きく息を吐いた。
額には、うっすら汗が浮かんでいる。
「お疲れさま」
響が笑った。
「とりあえず、マイクが無事でよかったよ」
「あっ!」
サニーが足元を見た。
「ごめんなさーい!」
「次からは気をつけようね」
「はいっ!」
元気よく返事をするサニーに、教室がまた笑いに包まれる。
「……なんか、すごく楽しそうだった」
美恋が言った。
「でしょ?」
サニーは胸を張る。
「聴いてるこっちまで楽しくなった」
優歌も頷く。
「私、途中で一緒に歌いたくなっちゃった」
「ほんと!?」
サニーの顔がぱっと明るくなった。
「それ、めっちゃ嬉しい!」
金星も微笑む。
「サニーの歌って、聴いてる人を巻き込む力があるね」
「えへへ!」
サニーは嬉しそうに笑った。
「うん。今のはサニーの大きな強みだと思う」
響が頷く。
「リズムの取り方もよかったし、特に高音が伸びやかだったね。高いところでも声が細くならないのは、すごくいいことだよ」
「やった!」
「ただし、楽しさに夢中になりすぎると、言葉が少し流れちゃうところがあるかな」
「……あっ」
サニーが目を瞬かせる。
「分かる?」
「うん。特に二番の速いところ。もう少し言葉の頭をはっきり出せると、聴いている人にも歌詞が届きやすくなるよ」
「なるほど……!」
サニーは真剣に頷いた。
「あと、マイクのコードね」
「それは本当にごめんなさい!」
響が笑うと、サニーもつられて笑った。
「でも、歌ってる間は本当に楽しそうだったね」
「うん!」
サニーは迷わず答えた。
「歌ってるときくらい、難しいこと考えたくないんだよね」
「難しいこと?」
優歌が首を傾げる。
「将来とか、失敗するとか、うまくいくかなとか」
サニーは笑っていた。
「そういうの、考え始めると動けなくなるじゃん?」
その言葉は、いつもの明るい声で語られた。
けれど優歌は、少しだけ意外に思った。
サニーにも、そんなことを考える時間があるのだろうか。
「だから私は、今できることをいっぱい楽しみたいの」
サニーは指を一本立てた。
「歌えるなら歌う!」
二本目。
「走れるなら走る!」
そして三本目。
「笑えるなら笑う!」
最後は、いつものようににっと笑った。
「だって、今って今しかないから!」
優歌も笑った。
「……サニーちゃんらしいね」
「でしょ!」
金星も頷く。
「うん。すごくサニーらしい」
美恋は少し呆れたように笑いながらも、何も否定しなかった。
優歌は、さっき聴いた歌声を思い出す。
あの伸びやかな高音も、弾むリズムも、思わず一緒に笑ってしまうような歌い方も。
全部、サニーという人を表している気がした。
* * *
美恋の歌。
サニーの歌。
同じ教室で、同じマイクを使って歌ったはずなのに。
その二つは、驚くほど違っていた。
美恋の声は、そっと胸の奥に触れてくるようだった。
サニーの声は、聴いている人の手を引いて、外へ連れ出してくれるようだった。
どちらが上手いとか、どちらが正しいとか。
そんなふうには、比べられなかった。
「……全然違うんだね」
優歌が呟く。
響が顔を上げた。
「ん?」
「昨日、みんなが選んだ曲の話を聞いたときも、それぞれ違うなって思ったんですけど……」
優歌は美恋とサニーを見る。
「実際に歌を聴いたら、もっと違ってて」
言葉を探しながら続けた。
「なんていうか……その人のことが、ちょっと分かった気がしました」
響は嬉しそうに頷いた。
「うん。そうだね」
そして、教卓に軽く手を置く。
「歌って、声だけじゃないんだよ」
四人が響を見る。
「どこで息を吸うか。どの言葉を大切にするか。どんなふうに音を伸ばすか」
響は指を折りながら続けた。
「同じ曲を歌っても、そういう小さな選択が積み重なって、その人だけの歌になっていく」
優歌は、静かに耳を傾けた。
「もちろん、技術は大切だよ。音程もリズムも、練習すればもっとよくなる」
響は少し笑った。
「でも、上手く歌うことだけが目的になっちゃうと、もったいないからね」
「……もったいない?」
「うん」
響は頷いた。
「せっかく、みんな違う人間なんだから」
その言葉に、優歌は胸の奥が温かくなるのを感じた。
入学式の日、屋上で聞いた言葉を思い出す。
――君たちは、君たちの色を見つければいい。
あのときは、まだ漠然としていた。
けれど今なら、少しだけ分かる気がした。
美恋には、美恋の歌がある。
サニーには、サニーの歌がある。
では、自分は?
自分の歌には、どんな色があるのだろう。
「さて」
響が時計を見た。
「ここで少し休憩しようか。続きは十分後ね」
「はーい!」
サニーが元気よく返事をする。
「後半は、金星と優歌の番だよ」
「……はい」
金星が頷いた。
その表情は、いつもと変わらず落ち着いている。
けれど、優歌には少しだけ気になることがあった。
前回の授業で、金星が話していたこと。
自分の気持ちをうまく言葉にできなかったこと。
そして、ある一曲に出会って、初めて歌いたいと思ったこと。
――まだ、ほかの曲を歌う理由が見つからなくて。
あの言葉が、優歌の胸に残っていた。
金星は、どんな声で歌うのだろう。
どんな表情をするのだろう。
そして、その歌を聴いたとき、自分は何を感じるのだろう。
優歌は隣の席に目を向けた。
金星は静かにノートを閉じ、机の上に手を重ねている。
ふと視線が合った。
「……緊張してる?」
金星が尋ねる。
「えっ?」
優歌は少し驚いてから、笑った。
「……うん。ちょっと」
「私も」
「えっ、金星ちゃんも?」
「もちろん」
金星は小さく笑った。
「人前で歌うの、慣れてないから」
その答えが、優歌には意外だった。
金星は何でも落ち着いてこなせそうに見える。
けれど、そんな金星も緊張するのだ。
「……そっか」
優歌が笑う。
「じゃあ、一緒だね」
「うん」
金星も微笑んだ。
優歌はもう一度、教室の前を見た。
床に置かれた二つのスピーカー。
一本のマイク。
黒板の前にある、小さな空間。
立派なステージではない。
けれど、さっきまでそこで歌っていた美恋とサニーの姿が、まだ鮮やかに思い出せる。
次は、自分たちの番だ。
優歌は膝の上で、そっと両手を握った。
緊張している。
でも、それだけじゃない。
早く歌いたい。
早く、みんなの歌を聴きたい。
そんな気持ちが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
この小さな教室で、初めて聴いた仲間たちの歌声。
まだ二人分。
それなのに、優歌の世界は昨日より少しだけ広がっていた。
残る二つの歌が、どんな景色を見せてくれるのか。
優歌は、十分後が待ち遠しかった。




