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初めての授業

「では、これから授業を始めます」


 天音響――歌い手としては「パレット」の名で知られる担任教師が、教卓の前に立った。


 入学式から数日。


 今日が、優歌たちにとって初めての本格的な授業だった。


 優歌は背筋を伸ばし、真新しいノートを開く。


 隣では、美恋がいつになく真剣な表情で黒板を見つめていた。金星は机の上にノートと筆記用具をきちんと並べ、授業が始まるのを待っている。


 そして――。


「はいっ!」


 サニーだけは、朝から変わらず元気いっぱいだった。


「先生! 一時間目は何ですか!?」


「お、やる気満々だね」


「もちろんです!」


 響は楽しそうに笑うと、チョークを手に取った。


 黒板に、大きく文字を書いていく。


『歌い手とは?』


「……歌い手とは?」


 優歌が首を傾げた。


「そう。今日の授業は、これについて考えてもらいます」


「……それだけ?」


 美恋が尋ねる。


「うん。それだけ」


「えぇ……」


「そんな顔しないでよ。結構大事なことなんだから」


 響はチョークを置き、四人を見渡した。


「みんなは、歌い手になりたくてここに来たんでしょ?」


 優歌たちは頷いた。


「じゃあ、逆に聞くね」


 響が黒板の文字を指差す。


「歌い手って、何?」


 教室が静かになった。


 改めて聞かれると、意外と難しい。


 優歌が考え込んでいると、真っ先に手が挙がった。


「はい! 歌が上手い人!」


「うん。それも一つの答えだね」


 サニーが嬉しそうに笑う。


「歌を動画にして、ネットに投稿する人?」


 今度は金星が答えた。


「それも正解」


「……じゃあ」


 優歌は少し迷ってから、手を挙げた。


「歌手とは、何が違うんですか?」


 響は嬉しそうに笑った。


「いい質問」


 黒板に新しく二つの言葉を書き加える。


『歌手』


『歌い手』


「実はね。明確な答えなんてないんだよ」


「え?」


「歌手と歌い手の境界線も、人によって違うからね。顔を出して活動する人もいれば、出さない人もいる。ライブを中心に活動する人もいれば、動画投稿だけで活動する人もいる」


 響はチョークを指先でくるりと回した。


「だから、この学科では『歌い手とはこういうものです』って、一つの答えを教えるつもりはないんだ」


「じゃあ、何を教えるんですか?」


 美恋が尋ねる。


「自分で決める方法」


 響は即答した。


「自分は何を歌いたいのか。誰に届けたいのか。どうやって届けたいのか」


 そして、『歌い手とは?』の下に、新しく文字を書き足した。


『自分で考えて、自分で発信する』


「まずは、それを考えるところから始めようと思ってる」


「……なるほど」


 優歌はノートに書き写した。


 歌い手とは何か。


 自分で考えて、自分で発信する。


 簡単そうに聞こえるけれど、いざ自分のこととなると、何から考えればいいのか分からない。


 そんな優歌の様子を見ていたのか、響がぱんっと手を叩いた。


「というわけで!」


「はいっ!」


 サニーが元気よく返事をする。


「今日の課題!」


 響は黒板に大きく書いた。


『今の自分が歌いたい曲を、一曲選ぶ』


「そして、その曲を選んだ理由を、みんなに説明してもらいます」


「歌うんじゃないんですか?」


 サニーが驚いたように尋ねる。


「歌ってもいいよ」


「よしっ!」


「でも、今日は歌わなくていい」


「えーっ!」


 サニーが机に突っ伏した。


 美恋が呆れたように笑う。


「なんでそんなに歌いたいのよ……」


「だって歌い手学科だよ!?」


「まだ一時間目でしょ」


「そうだけど!」


 教室に笑い声が広がった。


 響も笑いながら、もう一度黒板を指差す。


「じゃあ、まずは考えてみようか」


 少しだけ間を置いて、続けた。


「自分は、どうしてその歌を歌いたいのか」


     * * *


 四人はそれぞれ、自分の机に向かった。


 先ほどまで賑やかだった教室が、少しずつ静かになっていく。


 優歌はスマートフォンを手に取り、保存している楽曲の一覧を眺めていた。


 好きな曲なら、いくらでもある。


 何度も繰り返し聴いた曲。


 落ち込んだときに、そっと背中を押してくれた曲。


 朝の通学路で、つい口ずさんでしまう曲。


 ずっと昔から、大切にしている曲。


 どれも好きだった。


 けれど――。


「……どうして、この曲なんだろう」


 優歌は画面をスクロールする指を止めた。


 好きな理由なら、いくつも思いつく。


 メロディーが綺麗だから。歌詞が好きだから。聴いていると元気が出るから。


 でも、それだけでは、何かが足りない気がした。


 ふと隣を見る。


 美恋はすでに一曲決めたらしく、ノートに何かを書き込んでいる。


 金星も、スマートフォンの画面を見つめながら静かに考えていた。


 サニーはというと――。


「う~~~ん……」


 スマートフォンを両手で握り、眉間にしわを寄せていた。


「サニー、決まらないの?」


 優歌が声をかける。


「うん!」


「悩んでるようには見えないけど……」


「めちゃくちゃ悩んでるよ!」


「そうなの?」


「私、好きな曲いっぱいあるから!」


 サニーは笑った。


「全部歌いたい!」


「なるほど……」


 優歌も思わず笑う。


「でも、一曲だけなんだよね」


「そうなの!」


 サニーは再び画面とにらめっこを始めた。


 その様子を見ていた響が、ふと口を開く。


「じゃあ、質問を少し変えようか」


 四人が顔を上げた。


「『一番好きな曲』を選ぼうとしなくていいよ」


 響は言った。


「『今の自分が歌いたい曲』を選んでみて」


 その言葉に、優歌の手が止まった。


 今の、自分。


 もう一度、スマートフォンの画面に目を落とす。


 すると、不思議と一曲が浮かんだ。


 入学式の朝にも聴いていた曲。


 不安だった自分を、少しだけ前向きにしてくれた曲。


 何度も聴いているはずなのに、あの日はいつもと違って聞こえた。


 これから始まる高校生活が楽しみで、でも少し怖くて。


 そんな気持ちを、そっと受け止めてくれたような気がした。


「……これ」


 優歌が小さく呟く。


「決まった?」


 金星が尋ねた。


「うん」


 優歌は頷いた。


「この曲にする」


     * * *


「じゃあ、そろそろ発表してみようか」


 響がそう言うと、四人は少し緊張した面持ちで顔を見合わせた。


「最初は……優歌」


「えっ、私!?」


「うん。お願いできる?」


「は、はい!」


 優歌は慌てて立ち上がった。


 手元のスマートフォンを確かめ、一度だけ深呼吸する。


「えっと……私が選んだのは、この曲です」


 曲名を告げると、すぐに反応が返ってきた。


「あっ、知ってる!」


 サニーが顔を輝かせる。


「AVS(エーブイエス)の曲だよね!」


 AVS(エーブイエス)――ANDROID(アンドロイド) VOICE(ボイス) SYSTEM(システム)。


 人間の声をもとに作られた音声データを使い、コンピューター上で歌声を生み出す音声合成システム。


 優歌が選んだのは、そのAVSを使用した楽曲の一つだった。


 爽やかなメロディーに、どこまでも広がる青空を思わせるような、明るい曲。


 けれど、ただ前向きなだけの歌ではない。


 思い描いていた未来と、目の前の現実。


 その間で立ち止まってしまう気持ちも、うまくいかない自分へのもどかしさも、ちゃんと描かれている。


 それでも最後には、もう一度顔を上げてみようと思わせてくれる。


 優歌にとって、そんな曲だった。


「どうして、この曲にしたの?」


 響が尋ねる。


「……私、まだ自分が何をしたいのか、ちゃんと分かってないんです」


 優歌は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「歌うことは好きです。でも、どんな歌い手になりたいのかとか、どんな歌を届けたいのかとか……そういうことを聞かれると、まだうまく答えられなくて」


 話しながら、少し恥ずかしくなる。


 同じ教室にいる三人は、きっと自分よりもはっきりした目標を持っているのだろう。


 そう思うと、余計に言葉が出てこなかった。


「それに……」


 優歌は、スマートフォンの画面に目を落とした。


「この学校に入る前、少し怖かったんです」


「怖かった?」


 響が静かに聞き返す。


「はい。周りには、歌が上手い人がたくさんいるだろうし、すごい才能を持った人もいるだろうし……」


 優歌は小さく笑った。


「そんな中で、ただ歌が好きなだけの私が、ここにいていいのかなって」


 誰も口を挟まなかった。


「でも、入学式の日の朝、この曲を聴いてたら……少しだけ、考え方が変わったんです」


 優歌は顔を上げる。


「最初から、自分の進む道が全部分かってなくてもいいのかなって」


 窓の外で、春の風が木々の枝を揺らしていた。


「間違えたり、遠回りしたりしても、そのときに自分で選んだ道なら、きっと無駄にはならないと思うんです」


 そこまで話して、優歌は一度言葉を止めた。


 自分でも、少し意外だった。


 つい数日前まで、何も分からないことが不安だったのに。


 今は、その分からなささえ、少しだけ楽しみに思えている。


「……だから、私も」


 優歌は胸の前で、そっと手を握った。


「誰かが決めた正解を探すんじゃなくて、自分で選んで、進んでいきたいです」


 言葉にすると、胸の奥が少し軽くなった。


「この曲を聴くと、そう思えるんです」


 優歌は少し照れながら笑った。


「だから、今の私が歌いたいのは、この曲です」


 言い終えると、教室に短い沈黙が落ちた。


 最初に口を開いたのは、金星だった。


「……いいね」


 優歌が顔を向ける。


「私、そういう考え方、好きだな」


「ほ、本当?」


「うん。遠回りしたっていいって、なんか素敵じゃん」


 金星は穏やかに笑った。


「私も、その曲好き!」


 サニーが元気よく手を挙げる。


「聴いてると、どこかに出かけたくなるよね!」


「ふふ、分かる!」


 優歌も思わず笑った。


 美恋はしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。


「……別に、最初から全部決めてなくてもいいんじゃない?」


「え?」


「まだ入学したばっかりなんだし。これから考えればいいでしょ」


 ぶっきらぼうな言い方だった。


 けれど、その言葉が嬉しかった。


「……うん。ありがとう」


 美恋は少しだけ目を逸らした。


「……別に」


 そのやり取りを、響は楽しそうに見守っていた。


「いいね、優歌」


 響が頷く。


「今の話、すごく大事なことだと思う」


「……本当ですか?」


「うん。歌いたい理由って、必ずしも立派な夢や目標じゃなくていいんだよ」


 響は黒板に書かれた『歌い手とは?』という文字を指差した。


「今の自分が、何を感じているのか。それをちゃんと考えて、言葉にすること」


 そして、優しく微笑んだ。


「それも、自分の歌を見つけるための第一歩だからね」


 優歌は小さく頷いた。


「……はい!」


 席に戻ると、開いたままのノートが目に入った。


 そこには、授業の最初に書き写した言葉があった。


『自分で考えて、自分で発信する』


 優歌はその下に、もう一行だけ書き加えた。


『自分の道は、自分で選ぶ』


 まだ、どこへ続いているのかも分からない道。


 それでも、今日の自分は、その先を少しだけ楽しみに思えていた。


「じゃあ、次は美恋」


「……私?」


 美恋は立ち上がった。


 手元のスマートフォンを一度確認し、少し迷ってから曲名を告げる。


「……この曲」


 その名前を聞いて、優歌は小さく頷いた。


 知っている曲だった。


 美恋が選んだのも、AVSを使用した楽曲の一つ。


 中でも、特に有名な一曲だった。


 人間ではない声で歌われているのに、そこに込められた感情は驚くほど生々しい。


 好きな人を想う気持ち。


 終わってしまった恋を、簡単には忘れられない切なさ。


 胸の奥が痛くなるほど、誰かを好きになった記憶。


 そんな恋の苦しさを、まっすぐに歌った曲だった。


「どうして、この曲にしたの?」


 響が尋ねる。


「……恋の歌だから」


「うん。それで?」


「……それだけじゃないもん」


 美恋は少しむっとした顔をした。


 けれど、すぐに表情を戻し、手元の画面に目を落とす。


「……初めて好きになった人って、特別じゃない?」


「え?」


 優歌は思わず顔を上げた。


「その人と一緒にいたときのことって、くだらないことまで覚えてるの」


 美恋は少しだけ笑った。


「何を話したとか。どこに行ったとか。何気なく言われた一言とか……」


 その声は、いつもの少し強気な口調とは違っていた。


 まるで、誰かに話しかけているような。


 そんな柔らかさがあった。


「そのときは、そんなに大事なことだなんて思ってなかったのにね」


 美恋の笑みが、ふっと消えた。


 優歌は黙って見つめる。


「……恋が終わったら、全部忘れられると思ってた」


 美恋の声が、少しだけ小さくなる。


「時間が経てば、どうでもよくなるって。新しい恋をしたら、もっと簡単に忘れられるって」


 誰も口を挟まなかった。


「でも、そうじゃなかった」


 美恋はスマートフォンの画面に視線を落とした。


「楽しかったことも、嬉しかったことも。傷ついたことも……その人を好きだった自分まで、なかったことにはできないから」


 少しだけ間を置いて、美恋は続けた。


「だからって、ずっと過去に戻りたいわけじゃないの」


「……え?」


「戻れないことくらい、分かってる」


 その言葉には、不思議なくらい迷いがなかった。


「前に進まなきゃいけないときって、あるじゃない」


 美恋は一度、唇を結んだ。


「でも、前に進むって、全部忘れることじゃないと思う」


 そして、ほんの少しだけ笑った。


「大切だったなら、大切だったままでいいじゃない」


 優歌は何も言えなかった。


 美恋はしばらく黙ったあと、スマートフォンを胸元に引き寄せた。


「……私は、この曲を聴くとね」


「うん」


「その恋をしてた頃の自分を、ちょっとだけ思い出すの」


 その表情は、いつもの美恋よりずっと柔らかかった。


「だから、好き」


 それ以上、美恋は何も言わなかった。


 優歌も、聞かなかった。


 ただ、美恋がスマートフォンを握る指に、ほんの少しだけ力が入っていることに気づいた。


「……ありがとう」


 響は穏やかに微笑んだ。


「大切な曲なんだね」


「……はい」


 美恋は小さく頷き、席に戻った。


 教室には、静かな余韻が残っていた。


 普段の美恋からは、想像もできなかった一面。


 優歌はもう一度、美恋の横顔を見た。


 いつも少し怒っているように見えるその表情の奥に、まだ知らない気持ちがあるのかもしれない。


「じゃあ、次は金星」


「はい」


 金星は静かに立ち上がった。


 そして、自分が選んだ曲を告げる。


「……この曲です」


 その曲も、AVSの楽曲の中では非常に有名な一曲だった。


 ただし、美恋が選んだ恋愛の曲とは、雰囲気がまるで違う。


 重く、暗い。


 聴いているだけで胸の奥がざわつくような、不安や苦しさをむき出しにした曲。


 コンピューターによって生み出された歌声には、どこか現実離れした響きがある。


 それなのに、歌われている感情だけは、妙に生々しかった。


 優歌は思わず金星を見る。


 いつも穏やかで、落ち着いていて。


 初めて会ったときから、どこか頼れる雰囲気のある金星。


 そんな彼女が、どうしてこの曲を選んだのだろう。


「この曲、知ってる?」


 響が四人に尋ねる。


「はい。有名な曲なので」


 優歌が答えると、響は頷いた。


「そっか」


 それから金星へ視線を戻す。


「どうして、この曲にしたの?」


 金星は少しだけ黙った。


 視線が、机の上のスマートフォンへ落ちる。


「……初めてこの曲を聴いたとき」


 ぽつりと、話し始めた。


「自分のことを歌われているみたいだって、思ったんです」


 優歌が顔を上げる。


「知らない人が、私の中を勝手に覗いて、言葉にしてくれたみたいで……」


 金星は小さく笑った。


 けれど、その表情はいつもの穏やかなものとは少し違っていた。


「聴いているうちに、忘れたふりをしていたことまで思い出しそうになって」


 優歌は、思わず息を呑んだ。


 金星は自分の手を見つめていた。


「私、自分が何を感じているのか、あんまり考えないようにしてたんです」


 少しだけ間が空く。


「……考えなければ、平気だったから」


 教室が静かになった。


 窓の外から、遠くの学科の練習音が聞こえてくる。


 その音さえ、どこか遠く感じられた。


「でも、この曲を聴いたときだけは……」


 金星は一度、言葉を止めた。


 何かを思い出しているようだった。


「『ああ。私、これが嫌だったんだ』って」


 ほんの少しだけ、声が揺れる。


「初めて、自分の気持ちが分かった気がしました」


 優歌は何も言えなかった。


 何があったのかは分からない。


 けれど、その言葉が金星にとって簡単なものではないことだけは、伝わってきた。


 金星は小さく息を吸い、顔を上げた。


「だから、この曲を歌いたいって思ったんです」


 そして、いつもの柔らかな笑顔を浮かべる。


「それが、歌い手になったきっかけです」


「……じゃあ、金星ちゃんが初めて歌った曲も?」


 サニーが尋ねる。


「うん」


「それからずっと?」


「うん。この曲しか歌ってない」


「ええっ!?」


 サニーが目を丸くした。


 優歌も驚いて金星を見る。


「ほ、本当に? 一曲だけ?」


「うん」


 金星は少し恥ずかしそうに笑った。


「まだ、他の曲を歌う理由が見つからなくて」


「……そっか」


 サニーは小さく頷いた。


 金星はスマートフォンをそっと胸元に抱える。


「この曲は……私が初めて、自分の気持ちを見つけられた曲だから」


 響はしばらく何も言わなかった。


 やがて、静かに頷く。


「……ありがとう、金星」


 それ以上、聞かなかった。


 優歌も、美恋も、サニーも。


 誰も、何も聞かなかった。


 ただ優歌は思った。


 金星にとって、この歌はきっと、ただの「好きな曲」ではない。


 もっとずっと、大切なものなのだ。


 その理由を、今すぐ知る必要はない気がした。


 いつか金星が話してくれる日が来たら、そのときはちゃんと聞きたい。


 優歌はそう思った。


「……じゃあ、最後!」


 突然、明るい声が響いた。


「私っ!」


 サニーが勢いよく立ち上がる。


「待って。まだ呼んでないよ」


 響が笑う。


「いいじゃん!」


「もう、サニーったら……」


 美恋が呆れたように呟いた。


 教室に笑い声が広がる。


 さっきまでの静かな空気が、少しずつ和らいでいった。


「はいはい。じゃあ、サニー。お願いします」


「はーい!」


 サニーは満面の笑みを浮かべ、曲名を告げた。


「私は、この曲!」


 その曲も、有名なAVSの楽曲だった。


 軽快なリズムに、思わず身体を動かしたくなるようなメロディー。


 聴いているだけで、目の前の景色が少し明るくなるような曲だ。


「どうして、この曲にしたの?」


 響が尋ねる。


「聴いてると、どっかに飛び出したくなるから!」


「どこに?」


 優歌が聞く。


「分かんない!」


 サニーは即答した。


「えっ、分かんないの?」


「うん! でも、なんか……今いるところから、ばーって走っていきたくなるの!」


 両手を大きく広げて、サニーが笑う。


「楽しそう」


「楽しいよ!」


 その笑顔につられて、優歌も笑った。


「だって、未来のこととか、失敗したらどうしようとか、そんなことばっかり考えてたら、今しかできないこともできなくなっちゃうじゃん?」


 サニーは少しだけ胸を張った。


「だから私は、今、楽しいって思ったことを、思いっきり楽しみたい!」


「……サニーらしいね」


 金星が微笑む。


「えへへ!」


 サニーは嬉しそうに笑った。


 優歌も頷く。


 確かに、四人の中で一番サニーらしい答えだった。


 何かに迷ったとき、きっとサニーは一番最初に走り出すのだろう。


 そんな気がした。


「……なるほど」


 響は満足そうに笑った。


「四人とも、全然違うね」


 そう言って、黒板に四人の名前を書いていく。


 優歌。


 美恋。


 金星。


 サニー。


 その横に、それぞれが話した「歌う理由」を書き加えた。


 優歌――自分の道を、自分で選びたい。


 美恋――大切だった想いを忘れたくない。


 金星――自分の気持ちを見つけたい。


 サニー――今を思いっきり楽しみたい。


 四つの言葉を見比べて、優歌は小さく呟いた。


「……同じ歌い手学科なのに、こんなに違うんだ」


「だから面白いんだよ」


 響が答える。


「歌い手って、歌だけじゃなくて、その人自身も一緒に届けるものだから」


 響は黒板の真ん中に一本の線を引いた。


「今日みんなが選んだ曲も、きっと今の君たちだから選んだんだと思う」


 そして、少しだけ楽しそうに笑う。


「じゃあ、一年後にもう一度同じ質問をしたら、どうなると思う?」


「……一年後?」


 優歌が聞き返す。


「そう。一年後」


 響は頷いた。


「同じ曲を選ぶかもしれないし、全然違う曲を選ぶかもしれない」


 美恋が黒板を見つめる。


 金星は静かに考え込んでいた。


 サニーは、すでに何か楽しそうなことを想像しているらしい。


「歌う理由だって、変わっていくかもしれない」


 響は続けた。


「でも、それでいいんだよ」


 優歌は黒板を見つめた。


 一年後。


 そのとき、自分はどんな歌を選ぶんだろう。


 美恋は?


 金星は?


 サニーは?


 まだ、分からない。


 でも――。


 それを見つけていく時間が、少し楽しみになった。


「先生」


 優歌が手を挙げた。


「ん?」


「私たち、いつかこの曲を実際に歌ってみてもいいですか?」


 響の目が、ぱっと輝いた。


「もちろん」


 そして、にやりと笑う。


「むしろ――」


 響は教卓の上に置いていたパソコンを開いた。


「次の授業で、実際に歌ってもらおうかな」


「えっ!?」


「ええっ!?」


「本当に!?」


「やったー!!」


 小さな教室に、四人の声が響いた。


「ただし!」


 響が人差し指を立てる。


「今日は曲を選んだ理由を話してもらったけど、次は実際に歌って、みんなに聴いてもらいます」


 優歌の胸が、どきりと鳴った。


 みんなの前で、歌う。


 さっきまでは楽しみだったはずなのに、急に緊張してきた。


 美恋も少しだけ表情を引き締める。


 金星は静かに頷き、サニーだけは両手を上げて喜んでいた。


「楽しみーっ!」


「サニーは緊張しないの?」


 優歌が尋ねる。


「するよ!」


「えっ、するんだ!?」


「もちろん! でも、それ以上に楽しみ!」


 サニーはにっこり笑った。


 優歌は思わず笑ってしまった。


 ――そっか。


 緊張していても、楽しみにしていいんだ。


 優歌はもう一度、黒板を見つめた。


 そこには、四人の名前と、それぞれが選んだ歌う理由が並んでいる。


 今日初めて知った、仲間たちの想い。


 同じ教室にいるのに、こんなにも違う。


 それなら、歌声はどうなのだろう。


 美恋は、どんなふうに歌うんだろう。


 金星は、あの曲にどんな想いを込めるんだろう。


 サニーは、どんな声で楽しさを表現するんだろう。


 そして、自分は。


 自分で選んだ道を進むという想いを、ちゃんと歌に乗せられるのだろうか。


 窓の外では、春の風が桜の花びらを運んでいた。


 まだ始まったばかりの、歌い手学科。


 四人は今日、初めて互いの「歌いたい理由」を知った。


 次は、その歌声を知る番だ。


 優歌はノートの端に、小さく書き加えた。


『自分の歌を、見つけたい』


 その文字を見つめていると、胸の奥が少しだけ高鳴った。


 次の授業が、待ち遠しかった。

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