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入学式

 春。


 桜の花びらが、校門の前をひらひらと舞っていた。


 その向こうにそびえ立つ、巨大な校舎。


 天音芸術高等学校。


 全国でも珍しい、芸術分野の専門学科だけで構成された高校だ。


 校門をくぐっていく生徒たちの姿は、実にさまざまだった。


 大きな楽器ケースを背負った男子生徒が、友人と音楽の話で盛り上がっている。


 その隣を、台本を片手に歩く女子生徒が通り過ぎた。どうやらセリフの練習中らしく、ときおり立ち止まっては、小さく口を動かしている。


 少し離れた場所では、制服を華やかにアレンジした生徒たちが、スマートフォンを構えて楽しそうにポーズを取っていた。


 歌手、アイドル、声優、俳優、作曲家、映像クリエイター、ファッションデザイナー。


 目指すものは違っても、誰もが自分の夢を胸に、この学校へやってきている。


 そして今年。


 そんな天音芸術高等学校に、設立から二年目を迎える小さな学科があった。


 ――歌い手学科。


「……ここ、だよね?」


 校門の前で、一人の少女が立ち止まった。


 肩から下げたスクールバッグに、真新しい制服。そして、少しだけ緊張した表情。


 少女の名前は、優歌(ゆうか)。


 今日から、この学校の生徒になる。


「うわ……大き……」


 思わず声が漏れた。


 パンフレットで見たことはあった。けれど、実際に目の前にすると、その大きさに圧倒される。


 見上げた校舎の窓には、春の青空が映っていた。


 こんな場所で、今日から高校生活が始まる。


 優歌は胸の前で、ぎゅっと手を握った。


「……私も、今日から歌い手学科なんだ」


 その言葉を口にしただけで、胸が少しだけ高鳴る。


 ――歌い手。


 歌うことが好き。


 でも、自分が歌手になりたいのかと言われると、少し違う気がする。アイドルになりたいわけでもない。


 ただ、歌が好きだった。


 誰かが歌っている動画を見るのも、好きな曲を何度も聴くのも、気に入った曲を自分でも歌ってみるのも。


 全部好きだった。


 けれど、その「好き」を将来どうしたいのかと聞かれたら、まだうまく答えられない。


 だからこそ、ここに来た。


 自分の歌が、どこまで届くのか知りたかった。


「……よし」


 優歌は小さく息を吸った。


「行こう!」


 そう言って、一歩踏み出したときだった。


「ちょっと、そこの人!」


「え?」


 突然声をかけられて、優歌は振り返った。


 そこに立っていたのは、鮮やかなピンク色の髪を二つに結んだ少女だった。


 赤みのある瞳に、整った顔立ち。そして、いかにも不機嫌そうな表情。


「歌い手学科の教室、探してる?」


「あ、うん!」


「やっぱり」


「……え?」


 優歌は首を傾げた。


「なんで分かったの?」


 少女は、優歌の手元を指差した。


「その手に持ってる用紙」


「え?」


「『歌い手学科・一年生』って、思いっきり書いてあるじゃない」


「あ……」


 優歌は自分の手元を見る。


 さっき受付でもらった案内用紙。確かに、そこには大きく『歌い手学科 一年生』と書かれていた。


 優歌は少し恥ずかしくなって、頬をかいた。


「で、歌い手学科でしょ?」


「うん!」


「なら、逆」


「えっ」


「そっちは歌手学科」


「あっ……」


 優歌は慌てて方向を変えた。


「ありがとう!」


「……別に」


 少女はそっぽを向いた。


「同じ一年なんだから、迷子にならないでよね」


「え?」


「……何?」


「同じ一年なんだ!」


「そうだけど」


「よかった! 私、優歌!」


「……美恋(みれん)」


「美恋ちゃん!」


「ちゃん付けやめて」


「えっ、ご、ごめん」


「……別にいいけど」


 美恋は少しだけ目を逸らした。


 優歌は思った。


 ――なんだろう、この子。


 ちょっと怖い。


 でも、わざわざ道を教えてくれた。


 なんだか、優しい。


「ほら、行くよ」


「あっ、待って!」


 先を歩き始めた美恋を、優歌は慌てて追いかけた。


 こうして優歌は、入学早々に出会った少し気の強い少女とともに、校舎の中へ入っていった。


     * * *


 ――歌い手学科一年生の教室。


 そこは、校舎の端にある小さな教室だった。


 途中で通りかかった歌手学科の教室には、何十人もの生徒が集まっていた。廊下まで楽しそうな話し声が聞こえてきて、いかにも新学期らしい賑わいだった。


 それに比べると、目の前の教室はずいぶん静かだった。


「ここが歌い手学科?」


「そう」


 美恋が頷く。


「今年の一年生、何人くらいいるの?」


「そんなに多くないみたい。去年も少なかったって聞いた」


「へえ……」


 優歌が教室のドアを開けると、中には金髪のショートヘアの少女が一人、座っていた。


 すっと伸びた背筋に、落ち着いた表情。まだ一年生とは思えないほど、どこか頼れる雰囲気がある。


 少女は聴いていたイヤホンを耳から外すと、二人に顔を向けた。


「あ、はじめまして。歌い手学科の新入生?」


「あ、はい!」


「私は金星(きんせい)。よろしく」


「優歌です! よろしくお願いします!」


「……美恋」


「優歌に美恋ね。よろしく」


 金星は柔らかく笑った。


 初対面のはずなのに、不思議と話しやすい。


 優歌が少し安心して席に着くと、金星はイヤホンを机に置き、二人に向き直った。


「二人は、どうして歌い手学科に?」


「私は……歌うのが好きだから、かな」


「へえ。いいじゃん」


 金星が頷く。


「美恋は?」


「……別に。ちゃんと歌を勉強したかっただけ」


「そっか」


 金星はそれ以上、深く尋ねなかった。


 優歌は少しだけ、美恋の横顔を見た。


 歌を勉強したかった。


 その言葉には、どこか強い意志が感じられた。


 そんなふうに三人で話していると、廊下の向こうから何やら大きな足音が聞こえてきた。


 ――ドタドタドタドタッ!


「すみませーーーん!!」


 バンッ!


 勢いよく教室の扉が開く。


「歌い手学科の教室って、ここですかーーーー!!!!」


 三人の視線が、一斉に入口へ集まった。


 そこに立っていたのは、黄色い髪の女の子。


 外ハネのショートヘアの両サイドには、大きなリボンが結ばれている。丸く大きな瞳は、太陽みたいに明るく輝いていた。


「……あってるよ」


 優歌が答える。


「ほんと!?」


 女の子の顔が、ぱっと明るくなる。


「よかったあ~~~!」


 胸を撫で下ろすと、女の子は教室を見回した。


「みんなも一年生?」


「うん。そうだよ」


 優歌が頷く。


 すると女の子は、にっこり笑って手を差し出した。


「私はサニー! よろしくねっ!」


 その笑顔は、まるで教室に太陽が入ってきたみたいだった。


「よろしく! 私は優歌!」


「金星。よろしくね」


「……美恋」


「優歌ちゃん! 金星ちゃん! 美恋ちゃん! よろしくー!」


「……声、大きい」


 美恋がぼそりと呟く。


「あっ、ごめん!」


 サニーは慌てて口元を押さえた。


 けれど、ほんの数秒後にはまたにこにこと笑っている。


 その様子がおかしくて、優歌もつられて笑ってしまった。


 まだ入学して数分。


 なのに、少しずつ緊張がほどけていく。


 歌手学科やアイドル学科と比べると、少し寂しい教室。


 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


 むしろ、これからここに、自分たちの居場所ができていく。


 そんな気がした。


     * * *


 しばらくすると、教室の前の扉が開いた。


「おはよー」


 入ってきたのは、金髪の男性だった。


 白い半袖シャツに、少しゆるめのベスト。腕には左右でデザインの違うアームカバーをつけ、頭には個性的な帽子を被っている。


 アクセサリーもいくつか身につけていた。


 髪は無造作に整えられ、青い瞳はどこか楽しそうに細められている。


 どう見ても普通の教師には見えない。


「……先生?」


 優歌が小声で呟く。


「そう、歌い手学科の担任」


 男性が答えると、金星も思わず声を漏らした。


「若いね……」


「というか……」


 美恋が男性をじっと見つめる。


「なんか、見たことあるような……」


 男性は教卓の前に立つと、帽子を軽く持ち上げた。


「改めまして」


 にっと笑う。


「今日から君たちの担任をします。天音響(あまねひびき)です」


「……天音?」


 優歌が首を傾げる。


 その名前を聞いた瞬間、教室がざわつき始めた。


「えっ」


「うそ」


「まさか……」


「どうしたの?」


 優歌が隣の美恋を見る。


 美恋は目を丸くしていた。


「……ちょっと待って」


「?」


「先生……」


 美恋が恐る恐る尋ねる。


「もしかして……パレット?」


 その名前を聞いた瞬間、優歌の目が大きく開いた。


「えっ!?」


 知っている。


 もちろん知っている。


 パレット。


 透明感のある歌声。独特の表現力。ジャンルに縛られない楽曲。


 そして何より、歌い手として長く活動しながら、歌うことそのものを楽しんでいる姿勢。


 優歌も何度も動画を見たことがある。


「ええっ!? パレットって、あのパレット!?」


「そうそう」


 本人はあっさり頷いた。


「ネットでは、その名前で歌ってます」


「なんで!?」


「なんでって……」


 響は少し考えてから、答えた。


「こっちのほうが楽しいから?」


「そんな理由!?」


 教室に笑いが起きる。


 響も楽しそうに笑った。


「まあ、せっかく歌い手学科なんだから、先生が普通の先生じゃつまらないでしょ?」


 優歌は呆然と響を見る。


 まさか、今日から通う歌い手学科の担任が、自分がずっと聴いていたあの歌い手だなんて。


「あ、あとね」


 驚きが収まらないうちに、響が何かを思い出したように付け加える。


「歌い手学科を作ったのも、僕」


「……え?」


 優歌が目を瞬かせる。


「この学科、できたばっかりなんだよね。実は、僕が一年前に学校へ直談判して作ってもらったんだ」


「えええ!?」


 今度は美恋が声を上げた。


「ちょっと待ってください。先生が作ったんですか? この学科を?」


「うん」


「……本当に?」


「本当に」


 響は笑って頷いた。


 優歌も驚いて響を見る。


 歌い手学科が新設されたばかりだということは知っていた。けれど、そんな話はパンフレットには一言も書いていなかった。


『新設・歌い手学科』


『SNSや動画投稿を中心に、次世代の表現者を育成』


 書かれていたのは、それくらいだった。


 まさか、その学科を作った本人が、今、自分たちの目の前にいるなんて。


「……どうして、作ろうと思ったんですか?」


 優歌が尋ねる。


 響は少しだけ目を丸くしたあと、穏やかに笑った。


「そうだなあ……」


 教卓に軽く手をつき、少し考える。


「歌い手って、昔は『趣味で歌ってる人』みたいに思われることも多かったからさ」


「……趣味」


 優歌が小さく繰り返す。


「もちろん、趣味で歌うのも素敵なことだよ。でも、僕はそれだけじゃないと思ってて」


 響は窓の外に目を向けた。


 遠くの校舎から、誰かの歌声がかすかに聞こえてくる。


「歌って、動画を作って、SNSで発信して。誰かに直接歌を届けて、そこから仕事につながることだってある」


「……確かに」


 金星が頷いた。


「歌うだけじゃなくて、動画も自分で作るんですよね」


「そうそう。録音したり、編集したり、イラストをお願いしたり。自分の作品を届けるために、いろんなことを考える」


 響は嬉しそうに頷く。


「だったら、それをちゃんと学べる場所があってもいいんじゃないかなって」


「それで、学校にお願いしたんですか?」


「うん。『歌い手を育てる学科を作ってください』って」


「……すご」


 美恋が小さく呟いた。


「でも、そんな簡単に作れるものなんですか?」


 金星が尋ねる。


「いやあ、全然!」


 響は苦笑した。


「最初はめちゃくちゃ反対されたよ」


「えっ」


「『歌手学科があるのに、必要なの?』って」


 その言葉に、四人の表情が少し変わった。


 優歌も、思わず考えてしまう。


 歌手学科。


 確かに、歌を学ぶ場所なら、もうこの学校には存在している。


 では、歌い手学科は何が違うのだろう。


 そんな疑問が顔に出ていたのか、響は優歌を見て微笑んだ。


「優歌ちゃんは、どうして歌手学科じゃなくて、こっちを選んだの?」


「えっ、私ですか?」


「うん」


 突然の質問に、優歌は少し慌てた。


「えっと……歌うことが好きで。でも、歌手になりたいのかって言われると、なんだか違う気がして……」


 うまく言葉にならない。


「好きな歌を、自分なりに歌ってみたいっていうか……。いろんな歌に挑戦してみたいっていうか……」


 話しながら、少し恥ずかしくなってきた。


「……すみません。うまく説明できなくて」


「ううん」


 響は首を横に振った。


「それでいいんだよ」


「……え?」


「僕は、そういう子のための場所も必要だと思ったんだ」


 響は、自分たちのいる小さな教室を見回した。


「歌手を目指す子も、アイドルを目指す子も、それぞれ専門の学科がある。でも、そのどちらでもない子は?」


 優歌は黙って聞いていた。


「歌いたい。でも、まだ何になりたいか分からない。あるいは、誰かが決めた形には収まりたくない」


 響の声が、少しだけ真剣になる。


「そういう子たちが、自分のやりたいことを探せる場所があってもいいと思った」


 美恋は何も言わなかった。


 けれど、さっきまで腕を組んでいたその手が、いつの間にか膝の上に置かれていた。


「だから、作ったんだ」


 響は笑った。


「……それが、この学科」


 少しの沈黙。


 窓の外から、春の風が吹き込んできた。


「ようこそ。歌い手学科へ」


 その言葉を聞いた瞬間、優歌の全身にぞくりと鳥肌が立った。


 胸の奥が熱くなる。


 ――私、ここに来たんだ。


 ずっと憧れていた、この場所に。


 まだ何も分からない。自分がどんな歌い手になりたいのかも。


 それでも、今、この場所にいる。


 優歌はぎゅっと拳を握った。


 響が教室を見渡す。


 優歌、美恋、金星、サニー。


「さて、改めて。今日からこの四人が、歌い手学科の新入生です」


「……四人?」


 優歌が思わず聞き返す。


「そう」


 響はあっさりと頷いた。


 教室を見渡してみる。確かに、他に生徒はいない。


「少な……」


 美恋が思わず小さな声を漏らす。


「しかも、女の子しかいないね!」


 サニーが楽しそうに言う。


 四人。しかも、全員女の子。


 天音芸術高等学校には、たくさんの生徒がいる。


 歌手学科も、アイドル学科も、声優学科も、それぞれたくさんの新入生がいると聞いていた。


 その中で、歌い手学科の一年生は、たったの四人。


「まあ、まだできたばかりの学科だからね」


 響は笑った。


「でも、人数が少ないってことは……」


 少しだけ間を置いて、続ける。


「それだけ、一人ひとりの色を大事にできるってことでもある」


 優歌は、響の言葉をじっと聞いていた。


 そのときだった。


 廊下から、ひょこっと顔を出す人物がいた。


「あ、パレット先生、おはよう〜」


 猫耳のついた薄茶色のニット帽。肩より少し長い金髪に、緑色の瞳。


 男子生徒だった。


「あ、りすねこ先輩」


 金星が声を上げる。


「おー、金星ちゃん」


 男子生徒――りすねこが手を振る。


 優歌もぺこりと頭を下げた。


「こんにちは!」


「はい、こんにちは」


 響がりすねこのほうを見る。


「りすねこ、ちょっと来て」


「なに?」


「今日の午後、第一音楽室使う予定だったんだけど――」


「ああ、それなら」


 りすねこが苦笑する。


「歌手学科が使ってるよ」


「……やっぱり?」


「やっぱり」


 響が頭を抱える。


 その様子を見ながら、美恋が小声で呟いた。


「……なんか、仲いいね」


「ね」


 優歌も頷く。


 教師と生徒というより、まるで昔からの知り合いみたいだった。


「まあ、いいや」


 響は手を叩いた。


「それじゃあ、改めて授業の話をしようか」


 教室が静かになる。


「この学科では、歌唱だけじゃなくて、SNSでの発信、動画制作、配信、セルフプロデュースなんかも勉強します」


 優歌は目を輝かせた。


 ただ歌うだけじゃない。


 自分で発信して、自分で届ける。


 それが、歌い手なのだ。


「それから――」


 響が資料をめくる。


「今日の午後は、第一音楽室で簡単なオリエンテーションをする予定です」


「音楽室!」


 優歌の顔が明るくなる。


「うん。……まあ、使えればだけど」


「え?」


 響は苦笑した。


「この学校、歌い手学科ってまだ新しいからね」


 その言葉の意味を、優歌はまだ深く考えなかった。


     * * *


 午前の説明が終わり、昼休憩。


 そして午後。


 優歌たちは響に連れられて、第一音楽室へ向かった。


 しかし――。


「あれ?」


 響が足を止める。


 音楽室の前には、一枚の掲示があった。


『本日、歌手学科使用』


「……あ」


 響が固まる。


「先生?」


「しょうがない……か」


 響は気まずそうに笑った。


 音楽室の中から、歌声が聞こえてきた。


 伸びやかで、力強い歌声。


 歌手学科の生徒たちが練習しているのだ。


 優歌は思わず足を止めた。


「……すごい」


 扉の向こうから聞こえてくる声は、廊下にまで響き渡っていた。


 少しだけ開いた扉の隙間から、広々とした室内が見える。


 大きな鏡に、整った音響設備。


 その中央で、何人もの生徒が真剣な表情で練習していた。


 ここで毎日、歌っている人たちがいる。


 優歌は、無意識に自分の喉元へ手を当てた。


 ――私も、あんなふうに歌えるようになるのかな。


 そう思った直後、別の感情が胸をよぎった。


 羨ましい。


 そんな言葉が、頭に浮かんでしまった。


「……悔しい?」


 突然、響にそう聞かれた。


「え?」


「音楽室、使えなくて」


 優歌は答えられなかった。


 美恋が少しだけ唇を噛む。金星とサニーも黙っている。


 響は笑わなかった。


 ただ、静かに言った。


「この学校には、たくさんの学科がある。歴史が長いところもあれば、まだ始まったばかりのところもある」


 響は掲示を見上げる。


「歌い手学科は、まだ新しい」


 その言葉には、少しだけ寂しさがあった。


「……やっぱり、歌手学科のほうが優先なんですか?」


 美恋が尋ねた。


「うーん。そういうわけじゃないんだけどね」


 響は困ったように笑う。


「設備も教室も、まだ十分には揃ってないから」


「……そっか」


 美恋は小さく呟いた。


 優歌も、もう一度音楽室を見た。


 同じ学校の生徒なのに、学科が違うだけで、こんなにも環境が違う。


 少しだけ、胸の奥がもやもやした。


 けれど――。


「でも」


 響が、いつものように笑った。


「場所がないなら、作ればいいじゃん」


 優歌が目を瞬く。


「……作る?」


「うん」


 響は帽子を少し傾けた。


「歌い手って、そういうものでしょ?」


「……どういうことですか?」


 金星が尋ねる。


「だってさ、最初から立派なスタジオがある人ばっかりじゃないでしょ?」


 響は笑った。


「自分の部屋で録音したり、クローゼットに毛布を詰めて防音してみたり。使えるものを工夫して、自分なりの環境を作っていく」


「ああ……!」


 優歌は思わず声を上げた。


 知っている。


 好きな歌い手が、昔の動画でそんな話をしていたことがある。


「だから、音楽室が使えないなら、別の場所を探せばいい」


 響は、楽しそうに続けた。


「どこで歌うかより、何を歌うかのほうが大事だと思わない?」


 その言葉に、いつの間にか合流していたりすねこが小さく笑う。


「パレットさんらしい」


「でしょ?」


 響は胸を張った。


「……まあ、先生が勝手に行ったら怒られるから、ちゃんと許可は取るけど」


「そこはちゃんとするんだ」


「僕、先生だからね」


 りすねこが吹き出した。


 結局、響が学校側に確認を取り、空いていた屋上の使用許可をもらうことになった。


     * * *


 ――屋上。


 春の風が吹いていた。


 桜の花びらが、校舎の向こうへ流れていく。


 響はフェンスの近くに立ち、生徒たちを振り返った。


「はい。というわけで」


 帽子を被り直す。


「本日の歌い手学科オリエンテーション、屋上でやります」


「自由すぎません?」


 美恋が呆れる。


「歌い手だからね」


「便利な言葉……」


 優歌が笑う。


 その笑い声を聞いて、響も笑った。


「じゃあ、ひとつだけ話そうか」


 響は空を見上げた。


「君たちは、なんで歌い手学科に来た?」


 誰も答えない。


 先ほど教室で聞かれたことと、少し似ている。


 けれど、今度は誰に向けた質問でもなかった。


「歌手になりたい人もいるかもしれない。アイドルになりたい人もいるかもしれない。SNSで有名になりたい人もいるかもしれない」


 響は生徒たちを見る。


「ただ、歌うのが好きな人もいるかもしれない」


 そして、問いかけた。


「どれが正解だと思う?」


 優歌は少し考えた。


 けれど、答えが出ない。


 すると、美恋が空を見上げた。


「……分かんない」


 響が笑う。


「うん。それでいい」


「え?」


「歌い手って何なのかなんて、僕にも分からないから」


 優歌が驚いて響を見る。


 有名歌い手。人気者。そして、この学科を作った人。


 そんな人でも。


「……分からないんですか?」


「うん」


 響は頷いた。


「だから、この学科を作ったんだよ」


 優歌は黙って聞いていた。


「一つの色に決めなくていい場所が欲しかった」


「……色?」


「そう」


 響は自分の服を見下ろす。


 半袖シャツ、ベスト、アームカバー、帽子。


 少しずつ違う色や柄。


「僕の活動名、知ってるよね?」


「パレット……」


 優歌が答える。


「そう」


 響は笑った。


「パレットって、何色?」


 優歌は考える。


「……いろんな色?」


「そう」


 響は嬉しそうに頷いた。


「赤だけでもない。青だけでもない。黄色だけでもない。いろんな色を置いて、混ぜて、新しい色を作る」


 そして、続けた。


「それがパレット」


 響は生徒たちを見渡した。


「だから、君たちもそうでいい」


 春の風が、屋上を吹き抜ける。


「歌手みたいな歌い方でもいい。アイドルみたいに踊ってもいい。顔を出してもいいし、出さなくてもいい」


 優歌たちは、じっと耳を傾けていた。


「配信してもいい。歌ってみたを投稿してもいい。誰にも見せずに、自分のためだけに歌ったっていい」


 サニーが小さく頷く。


 金星は静かに響を見つめていた。


 美恋も、いつの間にか真剣な表情になっている。


「ここでは、誰かと同じ色になる必要はない」


 響は穏やかに微笑んだ。


「君たちがどんな色を持っているのか、僕も楽しみにしてるよ」


 優歌の胸に、その言葉が残った。


 誰かと同じ色になる必要はない。


 それなら。


 今はまだ、自分が何色なのか分からなくてもいいのだろうか。


 優歌は、そっと空を見上げた。


     * * *


 その日の帰り。


 屋上には、優歌、美恋、金星、サニーの四人が残っていた。


 風が四人の髪を揺らしている。


「……歌い手って、何なんだろう」


 優歌が呟く。


「さあ」


 美恋が答えた。


「私も分かんない」


 サニーは少しだけ空を見上げた。


「でも……私は、歌いたいから歌ってる」


「……うん」


「それじゃダメなのかな」


 優歌は少し考えた。


 そして、答える。


「……私は、それでいいと思う」


 美恋はほんの少しだけ笑った。


「そ」


 金星も三人を見て笑う。


「じゃあ、私たちもこれから探していけばいいんじゃない?」


「何を?」


「自分の色」


 優歌が空を見上げる。


 青い空。白い雲。桜色の花びら。


 いろんな色が、春の景色を作っている。


「……うん」


 優歌は笑った。


「探してみたい」


 まだ何者でもない。


 特別な才能があるわけでもない。人気があるわけでもない。


 ただ、歌が好き。


 それだけ。


 でも――。


 それだけでも、ここにいていいのかもしれない。


 ふと、隣を見る。


 美恋は風に揺れる髪を押さえながら、どこか遠くを見つめていた。


 金星は穏やかに微笑み、サニーは春の空に向かって大きく伸びをしている。


 今日、初めて出会ったばかりの三人。


 どんな歌を歌うのかも、どんな夢を持っているのかも、まだほとんど知らない。


 けれど、これから少しずつ知っていける。


 一緒に歌って、笑って、悩んで。


 いつか、誰かの歌声に憧れたり、誰かの才能に嫉妬したりする日も来るのかもしれない。


 それでも。


 この四人なら、何かが始まる気がした。


「ねえ!」


 優歌が声を上げる。


 三人が振り返った。


「これから、よろしくね!」


 一瞬の沈黙。


 最初に笑ったのはサニーだった。


「もちろんっ!」


「……今さら?」


 美恋が呆れたように言う。


 けれど、その口元は少しだけ緩んでいた。


「こちらこそ、よろしく」


 金星も微笑む。


 優歌は嬉しくなって、もう一度空を見上げた。


 春の風が吹く。


 桜の花びらが一枚、四人の間を通り抜けていった。


 天音芸術高等学校。


 その片隅にある、小さな歌い手学科。


 そこには、これからさまざまな色を持つ人たちが集まってくる。


 自分の歌を探す人。


 誰かに歌を届けたい人。


 歌うことしかできない人。


 歌うことさえ怖くなった人。


 そして、まだ自分が何色なのか分からない人。


 そんな彼らが出会い、歌って、笑って、迷って、傷ついて。


 それでもまた、歌っていく。


 この日、優歌が手に入れたのは、たった三人の新しい友達と、まだ答えのない一つの問いだった。


 ――歌い手とは、何なのか。


 その答えを見つけるまでに、どれほどの歌を歌うことになるのだろう。


 どれほどの人と出会い、どれほどの想いを知ることになるのだろう。


 今の優歌には、まだ分からない。


 けれど、確かなことが一つだけあった。


 この場所で、歌っていきたい。


 誰かの真似ではなく、自分自身の声で。


 そしていつか、自分だけの色を見つけたい。


 桜の花びらが舞う、春の日。


 小さな教室に集まった四人の少女たちの物語が、静かに幕を開けた。

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