プロローグ
――歌い手って、何だろう。
歌が上手い人のことだろうか。
たくさんの人に知られている人?
顔を出して活動する人?
それとも、顔を隠して歌う人?
動画を投稿したり、配信をしたり。
自分の声を、まだ会ったこともない誰かに届けたり。
その形は、きっと一つじゃない。
でも、あの頃の私には、まだ分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
私は、歌が好きだった。
イヤホンをつけて、何度も同じ曲を聴くこと。
お気に入りの歌を、気づけば口ずさんでいること。
誰にも聞かれていない部屋の中で、思いきり声を出すこと。
歌っているときだけは、少しだけ自分のことを好きになれる気がした。
だから、私はあの学校を選んだ。
――天音芸術高等学校。
歌手やアイドル、声優、俳優、作曲家。
さまざまな夢を持つ生徒たちが集まり、それぞれの「好き」を学ぶ、少し変わった学校。
その片隅に、設立されたばかりの小さな学科があった。
歌い手学科。
歌手になりたいわけでも、アイドルになりたいわけでもない。
けれど、歌うことが好き。
その気持ちを、どこへ向ければいいのか分からない。
そんな私が、ようやく見つけた場所だった。
そこで私は、たくさんの人と出会うことになる。
歌うことに、誰よりも真剣な人。
自分の気持ちを、歌に託す人。
誰かの笑顔のために、声を響かせる人。
そして、歌うことが好きなのに、その声を出せなくなってしまう人。
みんな違っていた。
歌い方も、声も、考え方も。
歌に込める想いも、目指している未来も。
同じ教室にいても、同じ景色を見ているとは限らなかった。
だから、ぶつかることもあった。
誰かの才能が羨ましくて、自分の声が嫌いになった日もあった。
大切な人の言葉に傷ついたことも、何気ない一言に救われたこともあった。
それでも、私たちは歌った。
うまく歌えない日も。
誰にも届かないような気がする日も。
自分が何のために歌っているのか、分からなくなった日も。
何度でも、自分の声で。
そうして少しずつ、気づいていった。
歌う理由は、誰かに決めてもらうものじゃない。
誰かと同じである必要もない。
自分の声で、自分の歌を見つけていけばいいのだと。
――これは、そんな私たちの物語。
歌を通して出会い、迷い、支え合いながら、それぞれの答えを探していく物語。
そして、これは。
私がまだ、自分の声の意味さえ知らなかった頃の話。
桜が咲く、春の日。
私は初めて、天音芸術高等学校の門をくぐった。
この先に、どんな歌が待っているのかも知らずに。




