第9話 猫の勇気
12月で退職する。その意向を伝える為、淡雪は園で勇気を振り絞る――。
12月が目前に迫ってきた、11月終わりの月曜日。
朝ごはんを食べた後、淡雪は台所で食べた朝ごはんを盛大にリリースした。良助が居たが、プレッシャーに耐えられなかった。背中をさすってもらって、朝から汚いものを見せてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
今日、淡雪は職場に退職の意向を伝える。
食べたものを全部吐いて、精神安定剤と抗うつ剤と胃薬を水で腹の中に流し込む。来月末で仕事をやめる。パートなので、多分受理されるだろう。園の規則で、退職は1か月前に申し出なければならない。今日言わなければ、あまりにもギリギリになってしまう。
言わないとと思えば思うほど、プレッシャーはかかりストレスが膨大に体にかかるのがわかる。吐きたくないのに吐き気がこみあげてきて、指先は震え、なにを言われるかと恐怖心が頭の中を占領する実感があるのがたまらなく不快。
「大丈夫? 俺もついて行こうか?」
良助はすごく心配性で、すぐこうやって顔を覗き込んでは眉毛を八の字にしてめいっぱい心配する。
「いいや。大丈夫。自分のことなんやから、自分で最後までやり通す」
最後の1か月、いじめ倒されるかもしれない。それか、空気のように扱われ、無視されるかもしれない。でも自分は、職員の顔色をうかがうために園に行ってるんじゃなくて、子どもたちの健やかな一日と小さな成長をサポートするために存在している。冷ややかに強く脈打つ心臓にそういい聞かせ、なんとか笑顔を作って良助に淡雪は自分の気持ちを伝えた。
逃げ出したい。それが本音。今すぐ園から逃げ出して、温かくて優しい良助の胸の中に逃げ込みたい。でも、そんなことはできない。ちゃんと戦わないと、今逃げたら多分逃げ癖がつく。逃げれば辞められるなんて学習はしたくない。人間は小さい生き物だから、一度楽な方に流れると止まらなくなってしまう。
薬と酒で、それを学んだ。
体を売って金を得て、身をもって知った。
人間は弱い。楽がしたいし快感には勝てない。だから戦わなきゃいけない。
朝、鍵当番だったので誰より早く園に入る。門の鍵を開けて、園舎の換気をして、子どもたちが遊ぶおもちゃを出した。部屋に置きっぱなしになっている先輩に私物を先生用のテーブルにまとめ、職員室にある先輩たちが各自持っているゴミ箱の中に詰まったゴミを、大きなゴミ袋に一つにまとめる。
子どもたちが居ない園は静かで寂しくて、そして小さな音が大きく聞こえる。
給湯室の古い蛇口から滴った水滴が、薄いアルミのシンクにボトンと落ちた音。
外に落ちている大きめの枯れ葉が、僅かな風に吹かれてカラカラと転がる音。
キイィっと門を開け、職員が園に入って来たときの音。
園の敷地内で出る音全てが淡雪の耳に刺さり、全身を突き抜け、心臓は鼓動を早めて、緊張感がこみあげる。恐怖で指先が震え、口は乾き、手は汗でじっとりと濡れていた。
鍵当番の次に園に入るのは、大概主任。今日も主任が入ってきて、そそくさと職員室に入る様子を、保育室のカーテンの隙間から盗み見た。
来月いっぱいで辞めると、言わなければならない。
もう吐くものはないし、薬も効いているはずなのに、吐き気がこみあげてきて仕方がないのはどうしてなのか。
怖い、でも言わないと。これがずっとせめぎ合う。言うならさっさと言った方がいい。他の職員が来てしまったら、全員の前で退職をつるし上げられ酷いことを言われるだろう。一歩踏み出す勇気が出ないまま、保育室の窓辺で5分、時間を潰した。
先輩が来る前に。勇気を振り絞る。
保育室のスライドドアを開けて、職員室に向かった。きっとなにか言われる。でももういい。来月で辞めるんだから。この土地を去れば、縁が切れる。顔を合わせることも無ければ、声を聞くこともない。たった一ヶ月の嫌がらせなら、今まで耐えてきたことを考えれば乗り切れるはず。
職員室のスライドドアを開けると、主任が自分専用のストーブをつけて温まっていた。
「おはようございます」
取り繕うのは得意。いつも通り、にっこり微笑んで主任に挨拶をする。さっきまでの緊張はすっ飛んでしまって、恐ろしいくらい平常心で居られる自分に、淡雪は内心驚いた。
「四季先生、なんで職員室の暖房入れてないの? 部屋が寒かったんだけど。ホント使えない」
主任は絶対淡雪に挨拶を返さない。嫌味はしこたまいうのに、お礼も謝罪も挨拶さえも、今まで一度も言わず。保護者には愛想よく振る舞っているが、いうことを聞かない子どもを給湯室に閉じ込めるなどの問題行動が目立つおばさん。お局と同じくらい意地が悪い。
「申し訳ございません。今お時間よろしいでしょうか?」
以後気をつけます。という言葉は、あえて言わなかった。だって、もうここを辞めるのだから。
「なにか苦情ですか? 無駄話するほど暇じゃないんだけど」
椅子に座ってめんどくさそうな顔をして、ふんぞり返って。そういえばこの人はこんな人だったなと、今になって客観的に彼女の姿を目に映した。今まで恐怖でそれどころではなかった。
「では、要件のみお話しさせていただきます。来月末で退職します」
なぜだろう。
主任が怖くなくなった。
「はぁ?」
朝からふざけるなというその顔も、これから職員に言いふらすであろうことも、全部把握できる。だから怖くないのか。
「来月12月末を持って、退職させていただきます」
「聞こえてるわ! あんたみたいな使えないの、他の園じゃ絶対雇わんやろね。男のくせに力はないし、気は利かんし、保護者と子どもにばっかり媚び売って雑用は先輩に押し付けるような人間。自分の立場、わきまえてんの?」
「立場をわきまえ、主任が今おっしゃったようなご迷惑を先輩方にかけないためにも、僕の退職がこの園にとって最も有益なことだと思っています」
今まで"すみません"と"はい、やります"しか言わなかったくせに、淡雪が言い返してきた。
――こいつが辞めたら、ストレス発散する対象がおらんなるやん。調子乗りやがって
主任の表情が歪む。よほど面白くないのだろう。それを見ても、淡雪の笑顔は崩れなかった。
「ほかの職員の方にも共有していただけると幸いです。新しいパートさんが入り、引継ぎ等ある場合は、最後までしっかり働きます」
淡雪が伝えたかった要件は、これで終了。頭を下げ、職員室を出る為、顔を上げて振り返りドアに手を伸ばした。
「今抜けられると困る。なんでそんな急に辞めるとか言うん? 子どもたちはどうするん。四季先生になついてるんに、自分の都合で捨てていくんやね」
子どものことを引き合いに出せば、この甘っちょろい男は立ち止まるはず。淡雪が担当している子は、ほぼ全員なんらかの障害を持っている。淡雪が抜けたら、その穴に障害児保育の経験がある人間を入れなければならない。人材確保が難しく、手当もつけなければならないはず。いじめる人間が居なくなるのも困るので、なんとか留まらせたい。
「急ではありません。就業規則に則った時期に申し出ています。僕程度の人間が抜けても、先輩方は困らないのではないでしょうか。障害児保育のみしか、従事していなかったはずなので。子どもたちを捨てるのではなく、自分を救うためにここを辞めて引っ越しをする決心をしました。いろいろなことを学ばせていただき、感謝ばかりです。大変勉強になりました。12月末日まで、在籍させていただきます」
淡雪の意思は固く、子どものことをチラつかせても退職するとのこと。
誠に面白くない。
朝礼に淡雪は参加せず、朝早く園に来た子の世話をする。
朝礼で淡雪の退職が職員に共有され、先輩と一緒になって淡雪をいじめていた同期は自分がいじめられる番になることが確定。真っ青な顔をしていた。淡雪を率先していじめていたお局は、どうしても納得いかず。職員会議終了後、保育室で子どもたちの着替えの手伝いをする淡雪の元に乗り込んでいった。
「ちょっと四季先生!」
朝からお局は激おこ。この顔と声で淡雪の目の前に出ると、いつも途端におろおろし始め謝ってくる。
「はい」
はずだった。今お局の目に映るのは、しゃがんで子どもの着替えを手伝いつつ、にっこり微笑んでいる淡雪。それを見て、更に気に入らない。朝から非常に気分が悪い。2歳の子どももお局の鬼のような形相を見て怯えてしまって動けずにいる。
「子どもたちのこと投げ出して辞めるらしいな! 保育士として恥ずかしくないん? どうせ行く当てもないくせに辞めるとか、親不孝過ぎて親御さんが可哀想」
「行く当てはあります。恋人と本州に引っ越す予定です。相手が仕事の都合で本州に帰るので、ついていくことになりました」
「……こ、は? こ、恋人ぉお!?」
お局が未婚であることを知っていて、淡雪はお局に良助との引っ越しを告げた。
どんないじめが待っていても、もうどうとも思わない。だってゴールが見えている。自分には帰る場所がある。
強気で、それでいて柔らかな淡雪の態度。お局は言い返すことができないまま、口をもごもごとさせて保育室を出て行った。
淡雪が勇気を振り絞って告げた、退職の意向。
当日中に園長の耳にも入り、あっさり受理された。園長はおじいちゃんで、淡雪が今まで園でどんな待遇を受けていたか知っている。
「幸せになりなさいよ」
帰り際、散々いじめられて1日を終えて靴を履く淡雪の元に、園長がやってきて微笑み一言送る。靴箱は野外にあり、子どもたちが帰った後の夜闇が空を覆うこの時間だからこそ、顔を合わせることができた。
今まで助けてあげられずにすまなかったという気持ち。これから幸せになりなさいというエール。そして、今までありがとうという感謝。
「はい。ありがとうございます」
まだあと1か月ここには籍を置く。でもこうして園長を顔を合わせる機会はあまりない。
淡雪は園長の深々頭を下げ、鍵当番の先生よりも前に園を出た。
「四季先生が抜けた後、次が決まるまで私が保育に入ります。引継ぎがあるだろうから、12月から保育室にも入ることにしました」
翌朝園長が朝礼で話した内容に、職員の表情が固まった。
淡雪が入っているクラスは、お局が仕切るクラス。お局は子どもたちを圧力で従わせる保育しかしない。今時そんな保育は流行らないし、お局はそれを知っていて改善しなかった。
お局のストレスがたまるということは、その下にいる職員は機を見て八つ当たりの対象になる。職員室のヒーターの前から動かない主任も、寒空の下子どもたちの遊びに付き合わねばならない。
淡雪が抜ける穴は、さまざまな意味合いを含ませてあまりにも大きかった。
淡雪が受けてきた待遇。担って来たもの。それは決して軽いものではない。その重責を一人で負っていた人間が抜けることが決定し、園は荒れるのかもしれない。
だが、それよりも淡雪は自分の幸福に向けた一歩を踏み出した。
そして舞台は、淡雪の実家へ。越えねばならない、もう一つにヤマに挑む。
評価などいただけると嬉しいです。
活動報告に解説や裏話みたいなものを少し書いてます。




