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第8話 猫の隠し事

思いが通じて抱きしめた淡雪。彼の身体は、連れ帰ったときとほとんど変わらない。どうして淡雪に体はやせ細ったままなのか。昼下がりの温かな日差しの下、淡雪の口からその理由が告げられる。


 同じ気持ちだったことは、とても嬉しい出来事だった。

 ただ、良助は淡雪のことをあまりに知らなかったことに気づく。


 気持ちが通じ合った日の夜。

 家に帰って、すぐに淡雪からキスをせがまれた。

 20歳。そういう欲が一番てんこ盛りな時期ではある。せがまれれば喜んでと、舞い上がった気持ちのまま玄関で深いキスをした。

 抱いていいなら抱きたい。でもそんな余裕のないことはしたくない。第一淡雪のことを大事にしたいし、そういうのはお互いの同意があってこそのことであって。

「良助さん、早く抱いて……」

色んな事を考えてギリギリの理性を握りしめている良助に、艶めいた淡雪の表情と耳元でささやいた声がブッスリと突き刺さる。色んなものをすっ飛ばしている発言すぎやしないか。

 そりゃ据え膳食わぬは男の恥って言葉もあるしと思うも、まずは一旦ブレーキをかける。静まれ、俺の息子。まだ早い、節操がないにもほどがあるだろ。

「ちょ、ちょっと待って。そんないきなり」

「男抱くの初めて?」

「そ、そうだけど……!」

「じゃあ俺がリードする」

そうじゃないんだよと、一度しっかり淡雪の肩を両手でガシっと掴んで危うくなった空気を正す。なんだろうかと、淡雪はきょとんとしていた。

「あのさ、こういうのはちゃんとお互い仲を深めてからの方がいいんじゃないの?」

しっかり男の部分は猛々しくなってるのに、良助はそれを我慢してまでそんなことを言う。理解できない。

「抱かんの?」

なんで抱かないの? とでも言いたげな、淡雪の表情。


――俺がおかしいの!? ……いや待て、そうじゃないはず!


危うく淡雪の雰囲気に流されるところだった。良助が正気を取り戻す。

「そりゃ抱きたいけど、じゃあいきなり体の関係にっていうのは違うだろ? 気持ちが通じ合ったからってすぐ体を重ねるのは、俺は違うと思う」

古風なおじさんになってしまった。が、間違いではない。

「……なに言ってるん?」

全然淡雪にこちらの意見が入っていかない。首をかしげて、初めて聞く言葉を聞いたかのような顔をしているではないか。

「いきなりセックスするのは違ってるっていってんの!」

もう言っちまえと、ちょっと恥かしい気持ちになりながら説教みたいな口ぶりで良助は言った。

「え? 最初にセックスするんが当たり前じゃないん?」

淡雪は、健全な恋愛をしたことがなかった。


 健全な恋愛とは、なんぞや。そこから話が始まる。

 晩ごはんを2人で作りながら、古めかしい香りが漂う恋愛のステップ講座を良助がやってのける。

 まずは手を繋いで、キスをして。気持ちが高ぶって、お互い同じくらいの気持ちになって初めて体の関係になる、みたいな。


 それを淡雪は、「ふーん」と鼻から抜ける、あまり興味を持っていないような返事をしながら聞き流していた。

「古臭って思った?」

自分で言ってて古臭ぇ考えだなと、良助自身思う。

「古臭いとかは思わんけど、最初にセックスじゃない恋愛をしたことがないから想像がつかん」

どうやらセックスから始まらない恋愛は、淡雪にとって未知らしい。

「じゃあ俺とそれをやればいいね」

バーンと胸を張っている良助。

「女の子抱きたいってならんか不安。俺おっぱいないし、良助さんとおなんなじもんが股についてるよ。いざ本番ってとき、萎えられたりしたら悲しいんけど」

良助の様子を横目に、少しすねるように淡雪が言ってのけた。

「さっき俺の股の状態がどうなってたかしっかり確認しておいて、よくそんなこと言えるね」

かなりがっちりな状態になっていたのを、淡雪はほのかに重い出す。こんなことを言われてしまうと、なかなか言い返せない。


 料理をする淡雪の隣に良助が近寄り、淡雪の耳元に口を寄せる。

「淡雪のことを大事にしたい。体の関係はもっと仲が深まってからがいいんだけど、待てないか?」

おじさんでよかった。仕事だなんだで適度にくたびれてるから、ただ喋るだけでちょっと気だるい感じの色気があるような声が出る。

「待て、ます」

それにしっかりやられてしまい、耳の淵を赤くしている。淡雪はかわいい。


 淡雪は恋愛に慣れていない。

 ワンナイトを繰り返していたけど、感情は皆無。お金のために、体を売り続けていたらしい。だから自分は汚いんだとも話して、悲し気に笑っていた。そんなことはない。もうそんなことをする必要はないと、そう話す淡雪を抱きしめる。

 なぜなのか、朝晩一緒に食べているはずなのに、抱きしめた淡雪の体は相変わらずガリガリのままだった。



「良助さん」

日曜の昼下がり。窓から差し込む日差しが温かい日だった。ベランダに洗濯物を干して、それを眺めながら窓辺で2人肩を並べて日向ぼっこをしているとき。淡雪が良助に声をかけた。

「なに?」

穏やかで、朗らかで。とても気持ちがいい、柔らかな日差し。それに照らされる淡雪は、なぜかどこか罪悪感のようなものが顔ににじんでいた。

「黙ってたことがある」

良介から視線をそらし、斜め下に視線を置いたまま、淡雪は話しを進める。

「どうした?」

実家のことも、仕事のことも、精神疾患のことも、いろんなことを話してくれた。もうそんなに驚くようなことは出てこないはずだと、完全に油断していた。


「俺な、朝食ったもんも昼の給食も、全部吐いてる」


そういって淡雪は、あまりにも自然なニコニコっとした笑みを良助に向けた。淡雪がなにを言っているのか、良助は一瞬分からなかった。


 淡雪の話しを聞けば、ストレスで朝昼は食べたものを全部吐いているらしい。薬が効かないと困るので、吐いた後に薬を服用。そのとき、一応胃薬も飲んでいる。

 摂食障害とまではいかないらしいが、だからといって放置するわけにもいかない。

「晩ごはんの後は? 吐いてるのか?」

そういった場面は見かけないが、夜中自分が寝ているときに、もしかすると……。そう考えると、良助はいてもたってもいられない。

「晩ごはんの後は吐いてない。ごはん美味しい」

良助と一緒に食べるごはんは美味しい。実家に居た頃は、晩ごはんも吐いていた。


 良助と暮らし始めて、淡雪は太らないものの痩せなくなった。これは非常に大きな進歩。目覚ましい回復とまではいかないが、悪化を防ぎ、回復傾向にある状態といえるだろう。


 自分と居るときは、食事を吐いていない。

 良助にとって、それは大きな安心材料になった。食べたもの全部吐いているとなると、それこそ栄養が全く体に入っていない状態になりかねない。ただでさえ痩せているのに、これ以上痩せてしまうといつ倒れてもおかしくなくなるじゃないか。

「淡雪」

名前を呼んで、手を握る。淡雪の手は冷たくて、まるで今浴びている太陽光を跳ね返してしまっているかのようだと思えるほど。骨ばっている手を握ると、ちょっと遠慮がちではあるものの、しっかり手を握り返してきた。

「なに?」

穏やかで、にこやかで、力の抜けた自然な笑み。思いが通じ合って以降、淡雪の表情は徐々に豊かになっていくように感じる。心の雪が解けてきたのかもしれない。

「仕事辞めて、家に居てよ。子どもは好きかもしれないけど、今のままじゃ淡雪がどうかなっちゃう。一緒に向こうに行く前に、入院なんてなったらシャレにならない。一緒に帰りたいから、体を大事にしてほしい」

結構強引なことを言っている自覚は、良助にだってある。頷かないだろう。でも、いつ倒れてもおかしくないような状態である気がしてならない。働いてもお金が淡雪の懐に入ってこないなら、仕事なんてやめてここで心と体を休めてほしいと思った。


 良助の気持ちは嬉しい。やっぱり良助は特別優しいんだと思う。誰に対してもそうなのかもしれないし、もしかすると自分だけに優しいのかもしれない。

 その優しさが自分の心の冷たい部分に染みこんで、冷たくなっている部分に温度を与えてくれるたびに、心の傷にその優しさが痛みを伴ってしみ込んでいくのがわかる。

 心配そうにこちらを見つめる良助から視線を外し、淡雪は良助の手を握ったまま少しだけ噤む。そしてわずかばかり寂しさをまとった笑みをこぼした。

「ごめん。それはできん。一応クラスの補助を任されてて、手がかかる子の担当なんよ」

パートでも正規職員でも、子どもにとってそんなことは関係ない。自分が担当している子どもたちは、クラスの中でも手がかかる、やんちゃな子やクラス活動から遅れ気味な子ばかりなのだ。その子たちをいきなり投げ出すわけにはいかない。

「そ、そうだよな。ごめん……」

自分の感情と淡雪のことだけを優先して考えた発言だったと、良助は自らの言葉をそっと恥じた。


「もしも仕事をやめるなら、12月に入る前に年内でやめることを主任に伝えて、実家にも話をしに行かなならん。本当に俺なんか連れてく気でおるん?」

淡雪にとっては、大きな決断になる。仕事をやめて地元を離れ、良助と一緒に暮らす。幸福なように見えるが、関係に亀裂が入ってしまうと全く知らない土地で独りぼっちになるリスクもある。そのため、まだ退職の意向を職場に伝えていない。

「俺は淡雪についてきてほしいと思ってる。もし職場に言えないなら俺が頭を下げに行くし、ご実家にもしっかり話をしに行く」

良助の意志は固い。それが淡雪にとっては嬉しくて、逃げ場のない愛がどうしようもなく苦しい。窒息してそのまま死んでしまうかもしれないとさえ思うし、それで死ねるならそのまま死にたいとさえ思える。


 動くことがなかった、淡雪の生活における負の連鎖。

「……わかった。今月中に、職場に話をします」

それが少しずつ動こうとしている。もしかすると自分はここから抜け出せるのかもしれないと、淡雪は初めて自分の幸福のために一歩踏み出そうとしている。



諦めていた、自らの幸福。負の連鎖から抜け出せるわけなんてない。そう思い込んでいたのに。良助との出会いと彼の思いがようやく淡雪の中に浸透し始め、淡雪も自らの足で一歩を踏み出そうとしていた。


評価などいただけると嬉しいです。

活動報告に解説や裏話みたいなものを少し書いてます。

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