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第5話 捨て猫の実家事情

時間が経つごとに明らかになってく、淡雪の家庭内事情。それはあまりに特殊で、あまりにむごくて。淡雪が背負っているものに触れ、良助の感情は――。


 淡雪との生活は、驚くほど自然に流れて行った。あの日以降、淡雪は勤務終了後すぐに家に帰ってきて、晩ごはんを作って待ってくれている。玄関に入ってすぐに料理のいい香がするのは、良助にとって最高の瞬間。疲れが飛んでいく。

「おかえり」

そして、リビングに入れば淡雪がそういって笑顔で出迎えてくれる。

 素直に幸せだなと思う日が続いた。


 淡雪との生活を通して、少しずつ淡雪が抱える内情がわかってきた。淡雪は車の免許を持っていて、写真が趣味。でも、車もカメラも、実家の家族の許可がないと触らせてもらえない。

 姪と甥がいるから、家事と育児全般は難なくこなせる。料理も得意。姉の子どもをお風呂に入れる、年の離れた妹の世話をする生活があまりに長く、一人で風呂に入る習慣がなかった。だから一人で風呂に入るのは怖くて、良助が風呂に入ったら浴室に突撃して一緒に風呂を済ませていることも話した。


 事情を聞けば聞くほど、特殊な家庭であるのは間違いないと良助は思う。普通なら苦痛だと思うだろうに、実家の話をする淡雪はいつも笑っている。「布団がある場所で寝られてるから。それでいい」らしい。実家に暮らしていて、こんな発想になってしまうのはどうしてるのではなのか。


 淡雪は5人きょうだいの4番目。姉3人に妹1人で、みんなちょっと変わった名前らしい。姉3人は名前に四季が入っている。長女は秋輝(あきら)だし、次女は姫夏(ひめか)、三女は春波(はるなみ)。母親の名前が尊冬(みふゆ)らしく、冬生まれの淡雪と妹の(ひいらぎ)には四季の"冬"という字はあてられておらず、家族間では冷遇されているとのこと。


 淡雪と暮らし始めて1か月が経ったころ、良助は内心怯えていた。淡雪に給料日が来てしまう。保育園で働いた給与や入れば、ここで使ったお金を支払って出て行ってしまうのではないかと思ったのだ。

 しかし淡雪は良助の元を離れなかった。

 厳密に言えば、離れられなかった。

 夕食後、良助は給料日の話題を淡雪に振ると、淡雪はちょっと気まずそうに「あー……」と声を上げて後ろ頭をかく。

「保育園で働いた給与、全額家の口座に入るようになってるんよ。家族のお金なんやって。やから姉ちゃんの子どもの服代とか、姉ちゃんたちのランチ代なんかになってるんやないかな。姉ちゃんは結婚してるけど実家に住んでるし。秋輝は婿取って、姫夏は未婚のシングル。2人とも働いてないから、俺の給与でやっていってるんやと思う。俺は家帰れば、甥と姪併せて3人の面倒も見ないかん。自分の部屋もないし。やから帰りたくない。それにさ、ここ最近夜ここにおるからお金稼げてなくて。ワンナイトせな、俺にはお金がほとんど入ってこん。やから来月まで」

ニコニコしながら話す淡雪が抱える事情は、良助の想像を簡単に遥か彼方超えるほどのものだった。


「ワンナイトなんてもうしなくていい! ずっとここに居ろよ!!」


なんで笑ってられるんだよ。なんでおかしいって言わないんだよ。家族だったら、淡雪がこんな風になってたら心配するはずだろ?! 精神科の薬貰って、それを酒で飲んで吐き散らかしてたような状態だったのに。どうして淡雪を探さないのか。もう1か月も帰ってないのに、捜索願の一つも出さないのか。


 家庭内での淡雪の立場全てに、納得できない。これじゃ淡雪は、家族じゃなくて家庭内の駒じゃないか……!!


「あ、あの……。良助さん? ごめん、急にきょうだいのこととか金の話してしまって、嫌な気になったよな? ごめん、やから怒らんで」

想像を超える良助の叱責。淡雪の心臓がヒュンと縮んで、喉がキュッと閉まる。なだめないと。早くなだめて怒りを鎮めないと。このままこの人が暴れでもしたら。このまま怒鳴られ続けたら。このままだったら、殴られる。幼いころの父から受けた暴力が、淡雪の脳裏をかすめた。


 追い出される。行く当てがなくなる……。この人から。見放されたくない。


 焦る淡雪。それを見て、自分が肩で息をしているほど怒りに震えていたのに、良助はようやく気付いた。

「嫌になるわけ、ないだろ! なんでもっと、早く言わなかったんだよ! 居場所がないって。だから最初出会ったとき、地下道に居たんだって。お金がない事情だって、もっともっと早く話してほしかった!」

息がまだ整わないまま、良助は言葉を紡ぐ。なにか言わなければ、自分が怒りでどうかなってしまいそうな気さえしていた。

「ごめんな良助さん、気分悪くさしたのは謝る。本当にごめん。俺が悪かった、全部俺が悪」

謝らせたいんじゃないのに、淡雪から出てくるのは謝罪の言葉ばかり。居てもたってもいられず、淡雪の言葉を良助は遮った。

「悪くない。淡雪はなにも悪い事なんかしてないのに、謝らないでくれよ……!」

胸が痛いって、こういうことを言うのかもしれない。42歳になって、初めてそう思った。淡雪の実家に対する怒りが治まらない。それと同時に、やっぱり淡雪をずっと手元に置いておきたい、どこにも行かせたくないと、窒息するほどこみあげるように感じる。

 男を好きだとか思ったことはないし、今だって淡雪に恋愛感情があるとは思ってない。女のおっぱいが最高に好きなのに、それより淡雪を守りたいと強く願う自分がいる。


 しかし淡雪の目と耳には、良助の怒りしか入らない。怒りの感情はあまりにもなじみが深いし、ないがしろにしてはならない環境で育った。

「ごめん、どう謝ればいいか……」

狼狽するほかない。どうすればこの人の怒りは収まるんだろう。自分の実家のことなんて、話すんじゃなかった。誰も幸せになれない話題なのは分かっていたはずなのに、良助の優しさに甘えてしまって話したのが悪かったのだ。


 この家に住んで、良助から毎日もったいないほどの幸福を注がれた。

 名前を呼ばれ、一人では入れない風呂に一緒に入ってもらい、ちょっと狭いけど毎日同じベッドで寝させてもらった。服もたくさん買ってもらったし、譲ってもらった。申し訳ないと思ってたのに、居心地が良すぎてここにずっと居たいと思うあまり、流れに乗ってきょうだいや実家のことを話してしまった。

 ワンナイトのことも話してしまった。汚い体なのは百も承知。汚いからいらない。捨てられる。そう思うと、体の内側から震えが出てきて止まらない。


 もう。捨て猫になりたくない。


 どうしようもなくなってしまって、薬が効いているはずなのに頭が真っ白になって、淡雪の目からボロボロ涙が落ち始める。

 どうすれば捨てられないのか、もうわからない。


「謝らないでって言ってるんだよ。もっと自分を大事にしてくれ……」


涙なんて見たくなかった。今までみたいにずっと笑っててほしかった。

 家族のことも全部どっかに置いちゃって。嫌な事全部忘れて。「今日の晩ごはんも美味しかった」なんて話しながら、笑い合っていたい。その未来があってもおかしくないし、そうなるようになんとかしなきゃならないと思う。


 恋愛感情なんてないはずなのに。涙を流す淡雪を見ていると、死ぬんじゃないかと思うくらい息が詰まってしまう。


 ボロボロ泣く淡雪を抱きしめると、食べさせているはずなのに、ここに連れてきたときと変わらず体が薄っぺらくて、ガリガリのままのような気がしてならない。「ごめんなさい」としゃくり上げて泣きながら何度も言う淡雪の声が、良助の脳に焼印を捺すようにこびりついていく。


 ひとしきり泣いて。自分の肩にほっぺを乗っけてもたれかかる淡雪。体にはあまり力が入っていないように、良助は感じた。たまにまだしゃくりあげている。涙だけは引いたけど、まだ余韻が残っているようだ。

「ここ、出ていきたくない」

ぽそっと口の先からこぼれた、淡雪の声。小さくて、今にも潰れてしまいそうで、耳を澄ましていないと聞こえなかったかもしれない小さな声だった。

「出ていくなって言ってるんだよ。ここに居ていい。居てほしい」

なにがどうなって、こうなってるのか。良助にも淡雪にも、分からない。


 でもこの人と離れなくないと思う。


 あまりにも良助は優しすぎる。居心地が良すぎて、前の生活に戻る勇気がない。

 あまりにも淡雪は自分を粗雑に扱い過ぎている。正常な判断ができない状態でほったらかすわけにはいかないし、実家に戻すわけにもいかない。なんて、大人の建前ばかり脳の先っちょに浮かぶ。心の内は、まだ良助自身見る勇気がないというか、気持ちの正体が掴めていないというか。


 恋じゃないし、恋愛感情も持ってない。でも寝顔を見ると生唾を飲み、笑顔を見ると嬉しくなる。粗雑に扱う人間に対し、震えるほどの怒りさえ覚える。抱きしめれば体は頼りなく痩せていて、ちょっとの衝撃で骨が折れないかと心配にもなる。

 これほど他人に対して感情が揺らいだことがない。いい歳なのに、この心理状態に対する整理が、良助は未だにつけられないままでいる。



 この感情の名前は、まだ誰にもわからないのかもしれない。



 この一件以来、淡雪は良助に少しずつ甘えるようになった。

 なにか手伝ってほしいときは頼るし、どこに行くのも一緒に行きたがるくらいの懐きよう。笑顔も自然と増えて、楽しい時間は増すばかり。

 でも、精神科受診と職場に近寄ってくることだけは、固く拒絶した。

 そこだけは触れられたくないと、絶対に踏み込ませないという強い意思を全面に押し出していたため、良助も無理にそこに踏み込もうとは思わなかった。


 でも人間は弱いから。ちょっとした出来心はすぐに生じる。


家庭内事情を話したことを機に、淡雪は良助に対して甘えることを覚え始めた。しかし、職場に良助が接近することを拒む。その理由はなんなのか。触れてはいけないとわかっている部分だからこそ、人間は触れたいという心理になりやすく、良助もその心理に飲まれていく。


評価などいただけると嬉しいです。

活動報告に解説や裏話みたいなものを少し書いてます。

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