第4話 捨て猫、飼い猫になる
やってきた初めての平日。良助は仕事中、出勤したであろう淡雪がこのアパートに戻ってくるか心配していた。また淡雪が出て行ったら、どこを探せばいいんだろう。良助の思考は、無意識のうちに淡雪のことでいっぱいになっていく。
週が明けた。昨日買った、保育園に勤務するときの洋服を着た淡雪。いつも通りスーツを着る良助。昨日淡雪がシャツにアイロンをかけてくれた。全くしわのないシャツは、すごく気持ちが引き締まる。比較するものでもないが、元嫁はアイロンなんてかけてくれなかった。
リビングに置いてる淡雪が用意してくれた朝食のおにぎりを食べつつ、元嫁との生活を一瞬だけ振り返る。味噌汁も今朝作ってくれた。ちょうどいい味付け。料理が上手で助かる。
気を付けて見ておかないと、淡雪はすぐに食事を抜こうとする。理由は一貫して、お金を持ってないから。分からなくもないが、お金のことばかり執着しないでほしい。
良助は自分の分を食べながら、淡雪にも朝ごはんを半ば強引に食べさせ、出勤時間になった。
「君は何時にここを出て、何時に帰るんだ?」
玄関で靴を履きながら、淡雪に問う。
「あと30分くらいしたら出る。夕方には終わる」
「終わるから? ここに帰ってくるんだろ?」
「……えと」
帰らない気でいたらしい。うつむいたまま目が、そろりと目が泳ぐ。音を立てずに、良助はため息をこぼした。
気まずそうにしている淡雪から視線を外し、出勤用の革靴を履く。
「君はお金に固執してる。俺は気にしなくていいって言っても、お金がないから食べない、いらないって。じゃあお金を返すまで、どこにも行かないでよ。別に俺はお金に執着してないんだけどさ。どうしてもお金が気になるんなら、今までの分を全部返すまでここにいてほしい。それか実家に帰るか?」
「実家には帰らん」
即答だった。しかも、調子が悪いときは合うことがなかった視線が、今はしっかり合っている。まっすぐにこっちを見て、きっぱりと断言した。
幼く見えるその顔の向こうに、"絶対に"という言葉と固い意思のようなものさえ感じられる。
「……ならここに帰って来てよ。最初出会った場所に行かないでほしい。絶対。行かないで帰ってきて」
もうあんな場所で、飲んだくれて薬を吐き散らかすような淡雪の姿は見たくない。他人に見せたくない。無防備で、危険で。誰がどんなことをするかわからない。危なすぎる。
「……わかっ、た」
いつもみたいに遠慮がちに。そして、口ごもりながら、淡雪は渋々頷いた。
会社に行って、いつも通り働く。
朝礼が終わってデスクに着いて、パソコンで打ち込みをしつつ腕時計に視線を落とす。
――もう仕事に行ってるはずだな
さっきあと30分したら家を出ると言っていた。淡雪は、もう家を出たはず。スペアキーは持たせた。残業さえなければ、さっさと帰れる。早く帰りたい、淡雪が家にいるのを確認したい。
――待った。俺今なに考えてたんだろ
週末拾った、身分さえよく分かってない青年のことで頭がいっぱいになっているのに気づく。淡雪のことが気になって仕方ない。ちゃんと仕事に行っただろうか。ちゃんと家に帰ってくるだろうか。帰ってこなかったらどこを探せばいいだろうか。夕食はどうしよう、なにか食材を買って帰ればいいだろうか……。
仕事中にこんなことを思ったことは今までなかったし、結婚していたときも公私はきっちり分けていただけに、良助自身困惑。俺は一体なにを考えてるんだと動揺しっぱなしのまま、ちょっと残業して仕事を終えた。
淡雪が家に居るか。とにかく気になって仕方なくて、いつ振りかわからないくらい、小走りでアパートに戻った。
おじさんという生き物は、意識しなければ運動なんてしない。小走りなんて、何年振りかわからないくらいハードな運動である。筋肉痛は何日後に来るかわからないし、いざ来てもなんのことかさえ思い出せない。そんなおじさんになっているのに、走らずにはいられなかった。
あたりは暗くなってきている。
目に映ったマンションの自室には、明かりがついていない。焦りながら鍵穴に鍵を乱暴にねじ込んで回し、鍵を開けた。
やっぱり淡雪は、家にはいなかった。
――どこ行ったんだ……!
どこを探せばいいかわからない。ひとまず部屋の電気をつけて、なにか手掛かりになりそうなものをと探してみるが、ほとんど荷物を持っていなかった淡雪の私物らしいものは見当たらず。
最初に淡雪を拾った、あの薄暗い地下道に行けば居るのか。でも酒を買うかもしれない。あの辺は、たしかドラッグストアがあったような。コンビニもあったはず。そもそも淡雪は金を持ってるのか。
いろいろ考えている時間が惜しい。適当な服に着替えて、淡雪を探しに行かないと。
スーツを脱いで、適当にハンガーにかけて。シャツを着てスウェットのズボンを履いて、玄関まで走ってたどり着いたときだった。
ギィ……と、申し訳なさそうにドアに細い隙間ができて、視線を向けると、細く開いたドアに身をネジ入れるようにして淡雪がそろりと入ってきた。
「お! おかえり……!」
どこ行ってたんだよ、心配しただろ! という言葉は、どっかに吹っ飛んでしまって。とりあえず帰ってきた淡雪を出迎える。
おかえりなんて言葉。いつ振りに聞いたんだろう。
淡雪は視線を泳がせながらも一度しっかり良助の方を上目遣いに見て、表情を確認する。
怒ってない。ように見える。呆れてもなさそう。戻ってきても、よかったのか……?
「……た、ただい……ま」
ただいまなんて言葉も、いつ振りに言ったかわからない。実家に血縁家族がいるのに、そういう言葉のやり取りはなかったなと、今になって気付く。
晩ごはんの食材を買いに、2人でスーパーに行った。徒歩圏内の、小さなスーパー。その道すがら、淡雪が今日帰りが遅くなったのは、精神科を受診して薬をもらっていたためだったとわかった。
「明日はもっと早く帰れ、ます」
遠慮がちに遠慮がちに、言葉を選ぶ淡雪。うつむいて、自信なさげで。多分薬の効果が切れかかってるんだろう。
良助は女体が好きだ。おっぱいなんて最高じゃないかってくらい好き。でも、その"好き"と、淡雪に対するこの気持ちは、なにかが違っている。
そんなことを考えていると、すぐスーパーに到着した。
「敬語なんて使わないでよ」
牛乳をかごに入れ、良助は振り返って淡雪に軽く声をかける。
「うん……」
それでも自信がないようで。淡雪はうつむく。
「そうだ。なんとなく話してたけどさ、名前で呼んでいいの?」
何気なくそう問えば、淡雪は立ち止まっていて。良助も足を止めて振り返る。
「名前、呼んでくれるん?」
「名前以外でどう呼ぶの?」
2人して、目を合わせて驚く。
周囲の人が2人を避けながら、ちょっと怪訝な面持ちで視線を送りつつ過ぎていく。スーパー特有の、歌詞が省かれたJポップが、やけに大きく響いているように聞こえた。
「……お前とか。あんたとか」
「え?」
なに言ってんだという良助の表情を見て、淡雪の視線が右に逃げた。
――普通は名前を呼ぶんか
普通を知らない。そんなこと、この人に察知されたくない。隠したい。できる限り。普通に近いと思われたい。じゃないと捨てられる。
「名前、呼んでほしい! です。下の名前で、呼び捨てで」
取り繕うように、空気を換えるように。淡雪は声を上げた。
「呼び捨てでいいの?」
「呼び捨てで。でもお兄さんは年上やから、良助さんって呼びます」
「呼びますって。敬語はナシだよ」
そういって、良助は苦く笑った。そして、トントンっと淡雪の腕を優しく叩く。
「よろしくね。淡雪」
あまりに自然に名前を呼ばれた。"おい"でも、"あんた"でも、"お前"でも。"四季先生"でもない。淡雪という名前。いつ振りに呼ばれたかわからなくて。でも嬉しくてたまらなかった。
「……こちらこそ。良助さん」
ほろほろっとこぼれた淡雪の笑顔は、初めて見せる偽りのない微笑みだった。
自分の名前を呼ばれ、淡雪は嬉しさから自然な笑みをこぼす。実家暮らしのはずの淡雪は、家族から名前を呼ばれる機会がすごく少なかった。それはどうしてなのか。淡雪の実家内事情が、徐々に明らかになり始める。
評価などいただけると嬉しいです。
活動報告に解説や裏話みたいなものを少し書いてます。




